2018年5月6日(日)、金沢市内にあるカトリック広坂教会で10時から行われるミサに出席する前に少しだけ時間がありましたので、香林坊と長町、尾山神社周辺を歩いて周りました。

 

※建物の外壁にローマ字で「SEIREI」とありますが、この建物は神言会(ドイツ系カトリック修道会の1つ)が経営する聖霊病院です。この聖霊病院は戦後直ぐにドイツ人修道女の方々が中心となって運営されていた総合病院です。私の洗礼代母であるドイツ人シスターのエーデルガルディスが1992年に膵臓ガンで亡くなるまで検査技師及びレントゲン技師として勤務していた病院です。私の洗礼名は英語で表記すると「Etheldreda (エデルドレーダ)」になりますが、これをドイツ語にすると「Edeltraud (エーデ゙ルトラウト)」になるのです。そうです、私の洗礼名はこの洗礼代母である「エーデルガルディス」に似ているので頂いたものなのです。三谷先生と同様に私の洗礼代母であるドイツ人シスターのエーデルガルディスも私にとって母親のような存在です。しかし、ドイツ人特有の嫌な部分も少しだけ彼女から受け継いだかも知れませんね。

 

私が18歳の頃、金沢市内にあるカトリック広坂教会の駐車場で。左がエーデルガルディス、右がもうお一人別の代母の泉紀代美さん

 

 

私が18歳の頃、聖霊降臨祭のミサで堅信を受けました。左がエーデルガルディス、中央がエンリコ神父さま、右が相馬信夫司教さま

 

私の代母であるドイツ人シスターのエーデルガルディスは大戦前に当時はドイツ領で現在はポーランド領であるシュレージェン州ブレスラウ市(Breslau)で生まれ、ドイツ領からポーランド領に切り替わる前夜に彼女の母親エルゼさんと弟ローマンさんと共にスーツケース1つで西ドイツのゴスラー市(Goslar)に逃げ、彼女の母はその西ドイツの小さな町で食料品店を営み子供を育て、エーデルガルディスはデュッセルドルフ大学で医学を学んだ後医療スタッフとして来日し、彼女の弟ローマンさんは医者になり、1992年にエーデルガルディスは西ドイツのゾーリンゲン市の近くにある小さな町ヴィッケデ=ヴィンベルン村(WICKEDE-WIMBERN)のローマンさんが勤務する附属病院で亡くなりました。そして、その次の年に彼女の母エルゼさんもハーゼリュンネ村(Haseluenne)にある老人ホームで亡くなりました。私が彼女に会いに行った次の年のことでした。ベルリンの壁が崩壊した次の年に彼らと一緒にブレスラウを訪れたのを今でも覚えています。あの頃、ブレスラウ生まれのドイツ人が多く生き残っており、ドイツナンバーの自動車で国境の検問を通過するのが簡単でした。しかし、いざポーランドとドイツの国境を越えると全く別世界で戦争時代の傷跡が残ったままでした。ブレスラウの街の建物の外壁には鉄砲の弾の跡が至る所に残っていたし、ピザ屋に入ってもピザはなくドックフードのようなハンバーガーしか売られていませんでした。その代わりにホテルの宿泊費はかなり安かったでした。

 

エーデルガルディスがまだ生きていた頃、何度も私に戦争時代の話をしてくれました。ドレスデンが空襲で焼け野原になったことを涙を流しながら語ってくれました。私も数年前に映画「ドレスデン」を観ている最中にエーデルガルディスのことを思い出し涙が出てきました。確かにエーデルガルディスが生まれた時代はビーダーマイヤー様式が終わる頃に時代でしたので、一般的に「古き良き時代のドイツ」と呼ばれています。しかし、あの頃のドイツ人は中途半端なことが嫌いで完ぺき主義者でした。彼女も自分の意見をハッキリとストレートに表現する人でした。でも、それはある意味ではパラドックスになっていて、私がドイツで大学生だった頃のドイツ人男性も女性に対して女性的な精神的な弱さを許さない気質の人が多かったような気がします。その頃に一回だけドイツ人学生とデートしたことがありましたが、その男性は中々修士号を取得できなかった私に対して「いつ大学院を卒業するの?」と何回も質問するのです。その時、私は心の中で呟きました、「そんなに修士号が大事なの?アンタなんか一発でアウトだよ!」と・・・。それ以後、ドイツ人男性に対する興味はなかったのも同じことでした。欧米人に対してコンプレックスを抱いている日本人女性であればそんなドイツ人男性にも媚びていたのでしょうが・・・、私の場合、全く欧米人に対してコンプレックスはなく(たまにドイツ人に会うと「私の方が顔面偏差値が上じゃない?」って思うこともありました!)、欧米人を外見ではなく性格で合うか合わないかを判断するようになっていたのでドイツ人男性とは一回も恋愛することはありませんでした。修士号を取得していなくても、天然ボケでも老人ボケでも・・・、そんな女性の努力しても治らない弱さを受け入れることができないなんて包容力がないですよね。ハッキリ言って、私は今でもドイツ人男性は好きではありません・・・ m(-_-)m この映画「ドレスデン」を観ていると今でも心が痛みます。

 

上の写真は、聖霊病院の敷地内にある聖霊修道院です。シスターがお二人いらっしゃいました。

 

その庭にはイエス・キリスト像があります。サンパウロ市のキリスト像を思い浮かべますね。

 

こちらが聖霊修道院の聖堂の外観です。

 

こちらは、聖霊修道院が経営する聖霊幼稚園です。

 

聖霊修道院の内部です。玄関を入ると・・・真っ直ぐ歩いて行くと病院へ繋がっています。

 

左へ進むと修道院へ繋がっています。

 

右には聖堂があります。そして、聖堂の入り口には絵葉書などが売れています。献金箱に好きな金額を入れて絵葉書を買います。まあ~、教会なのでそんなもんです。私は絵葉書3枚買い、献金箱に500円玉を入れておきました。

 

その絵葉書が売れている棚の横にカウンターがあり、願い事を書いておくとシスター方がお祈りして下さいます。

 

こちらが聖堂内部です。「大正元年、カトリック宣教師ヨゼフ・ライネルス師によって開設され・・・、完成したのは昭和6年。チロル風の鐘楼をはじめ、聖堂内の円柱、アーケードアーチなど、ロマネスク様式を見事に再現した設計は、大正末期から昭和初期にかけて、多くのカトリックの教会堂建築を手がけたスイス人建築家マックス・ヒンデルによるもの。祭壇の神、イエス、聖霊の壁画に描かれている通り、三位一体に捧げられた聖堂内には、ステンドグラスを用いたバラ窓から光が差し込み、なんとも清らかな空間が広がっています。」・・・とのことです。金沢市の指定文化財となっておりますのでご興味がおありの方はサイトをご参照下さい!

http://www.kanazawabiyori.com/editors/2015/04/1567.html

 

告解室と呼ばれる小部屋で、左側に信者が入り、右側に司祭が入り罪を告白します。

 

告解室の内部はこのようになっています。信者と司祭は金網越しにやり取りをし直接互いの顔が見えないようになっています。

 

畳みの席も用意されています。

 

 

 

 

恐らく、アッシジの聖フランチェスコ像と思われます。

 

 

<アッシジの聖フランチェスコの平和の祈り>

 

(画像提供元:http://www.pauline.or.jp/prayingtime/peace01.php

 

こちらは十字架の道行きです。イースターの準備期間中(四旬節)の間、この十字架の道行きの祈りを毎晩行います。

 

聖体(キリストの体となるパン、マッツォ)がある場所を示す赤いランプです。

 

聖堂の後ろ側はこのようになっています。

 

 

 

 

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そして、ここからは聖霊病院がある長町周辺です。まだ朝早い時間でしたので博物館は閉まっていました。

 

長町を流れる浅野川です。私がまだ大学生だった頃、長町周辺を自転車で徘徊していました。聖霊修道院の夕の祈りに出席する為であったのか、又は、聖霊病院で婦長をしていたエーデルガルディスにドイツ語を習う日だったのか・・・余り覚えていません。

 

こんな朝早くから外国人観光客がお土産店の前で開店するのを待ち構えていました。