2016年2月4日(木)と5日(金)に両国にある劇場シアターXで行われた朗読劇「ディブック」を鑑賞してきました。「ディブック」の著者である赤尾光春氏の依頼で2日とも受付係を担当しましたが、初日の4日のみ開演後は客席で観ることができました。残念ながら開演中の写真撮影は禁止されていた為どのように朗読劇が行われたのかは画像でお見せすることはできませんが、とにかく台本を読みながら役者の方々が演技をする他は普通に舞台演劇でした。物語の内容についてはお伝えできませんが、AMAZONなどで赤尾光春氏がイディッシュ語から和訳した本「ディブック」が販売されていますのでご興味がおありの方は是非お買い求め下さい!



「本当に受付係をしたのか?」と疑いをかける方もいらっしゃるので大阪大学の庶務課から送られてきた「アルバイト雇用通知書」の画像を貼りましたが、単なる受付アルバイトと思っていたら大違いでした。前もって一般的な雇用契約書のようなものに詳細とマイカード番号を記入しました。恐らく年末には源泉徴収票が大阪大学庶務課から送られてくるでしょう。こんな珍しいことまで経験できた赤尾光春氏のお陰と思い感謝しています(^^♪ チャンスがあればまた東京で行われる大阪大学のイベントでアルバイトしたいです。


(画像提供元:http://hemitotsy.blog.fc2.com/blog-entry-226.html?sp)

まず「ディブック」とは何かというお話をすることにします。日本語のWIKIには・・・

自殺などの罪業のため輪廻(ギルグル)を行う事ができず、現世をさまよい人に憑依し、憑いた人間に異常な言動をとらせる。悪魔払いを行なうことによって、体から追い出すことができると信じられる。ヘブライ語の"דיבוק"(日本語でいう「添付」)という単語に由来する。中世ユダヤ人社会の中の民俗信仰であったが、16世紀にイサク・ルリア(en:Isaac Luria)が自らのカバラ体系の中に取り入れ、ユダヤ教と習合した。

・・・と書かれてあります。しかし、ユダヤ教では自殺以外にも不慮の事故などで天寿を全うせずに亡くなった人間の霊が成仏できずこの世に留まって彷徨い続け別の人間の中に入って二重人格のような現象を起すことをも意味するようです。英語の新約聖書を読んでみると「dybbuk」という単語は使われずに「evil spirit」や「unclean spirit」などの単語が使われています。それが果たして「ディブック」を指しているのか分かりませんが、どちらにせよ初代教会の時代からユダヤ教でも成仏できない霊がこの世に存在するという概念があったものと思われます。

そして次に「二つの世界のはざまで」とサブタイトルがついていますが、これは「あの世とこの世のはざまで」という意味合いが最初にきます。その他によく新約聖書でも対比されるようにブルジョワジーとプロレタリアの世界のはざまで、又は信仰深き者と信仰浅き者のはざまで、男と女のはざまでなどの意味合いもあるようです。ユダヤ教とである作者アン・スキがユダヤ教徒の生活を舞台にして物語を書いているのでユダヤ教徒は勿論のこと、キリスト教徒や神仏の存在を信じる方にとってはとても見応えある内容になっています。

ヘブライ語で生まれる前から運命的に決められている結婚相手のことを「Bashert」と呼びます。日本語ではソウルメイトという感じで良いと思います。私が大学生の頃にニューエイジが流行り、その頃初めてソウルメイトという言葉を知りました。その時、天寿を全うせずに亡くなった魂が輪廻で生まれ変わり「ツインソウル」になるなどと言われていましたが、この「ディブック」の主人公であるユダヤ教徒の少女レアとその彼女のソウルメイトであるホネンは正しくその「ツインソウル」という感じで表現されています。誰かに教えられた訳ではないのに2人が出会った時からお互いに魂が惹かれ合い密かに愛し合うが運悪くホネンはカバラにハマってしまった為に何者かに殺されてしまいます。それでも2人はあの世とこの世で別々に生活をしながらお互いに魂が惹かれ合い、それに耐えれなくなったホネンはディブックとなってレアの魂と融合しようとしレアの体に入り込みます。レアも同じようにホネンのことを忘れることができず父親が勧める縁談を断ろうとします。カトリック教会では「Bashert」は一生に一人と教義として決められていますが、その神が定めた「Bashert」以外と男女関係を結べば姦淫の罪になります。しかし、どちらかが神のご意志で天に召されたならば例え再婚をしても罪にはなりません。でも、このレアとホネンは神の御旨に逆らうことなくこの世にいてもあの世にいても同じようにソウルメイトとして互いを求め合う姿はアッシジの聖フランチェスコが「この世ではあなたの息子だが本来は天の父なる神だけが私の父です」と言って着ていた贅沢な衣類を捨て去った時の姿を思い出させます。新約聖書のマタイ福音書7章21節にあるのは「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」です。レアの父親のようにユダヤ教徒とは言いながら神の御旨を優先するのではなく、神に誓ったことも忘れて金勘定に熱心になり自分だけの利益を優先することが人生の目的になってしまうといつかはスベるぞ!という警告をユダヤ教徒やキリスト教徒にもしているし、レアとホネンのように「心の清い者は幸いである。その人は神を見るであろう。(マタイ福音書5章8節)」ということも私たちに伝えてくれたような気がします。本当にこの「ディブック」は宗教者にとってとても勉強になる作品でした。


(画像提供元:https://curlewriver.wordpress.com/2012/11/19/pearls-about-swine/)

そして最後にもう一つキリスト教徒として書きたいことがあります。それはイエスとその弟子たちが生きた初代教会の時代でも「ディブック」の概念が存在していたということです。日本では成仏できない浮遊霊がいたとしても霊能者が「戦国時代に亡くなった落ち武者の霊」だとか「真珠湾攻撃で亡くなったアメリカ兵の霊」だとか大まかな情報は把握できてその霊について説明することが殆どですが、ユダヤ教の場合は浮遊霊にもちゃんとした名前があるということが日本の浮遊霊と違います。この作品「ディブック」では「ホネン」という名前がありました。そして、新約聖書のルカ福音書の8章にあるイエスがあるユダヤ人男性の体の中に入ってしまった悪霊(その悪霊の名前は「レギオン(LEGION)」)を追い出した後、その悪霊は豚の体の中に入って水に溺れて死ぬというエピソードもディブック現象の一つだと思いました。朗読劇「ディブック」でホネン役を演じた俳優さんがレアの体から追い出される際に悪霊が苦しみで泣き叫ぶシーンがありましたが、そのシーンとこのルカ福音書8章のシーンが私の頭の中で重なり合い、イエスの時代にもこうしてレギオンという悪霊が豚の中に入って死んでいったのだな~と考えながら観ていました。台本を朗読しながらのパフォーマンスとは言え皆さん素晴らしい演技をされていたと思います。朗読劇というのは映画鑑賞とは違い、各々がもつ背景知識に照らし合わせながら実際にどのような場面であったのかを想像しながら色々な想いに耽って楽しむことができるというのが利点の一つだと思いました。恐らく、その人が朗読劇「ディブック」を観て何か一つでも学ぶことができれば、その解釈は正解かどうか吟味する必要はないし他の誰かに否定される必要もない、ただ各々の貴重な霊的体験として大切に心の中に仕舞っておけば良いことなのだと思います。


(画像提供元:http://zushikyokai.holy.jp/sermon/ser_130113.html)

私が言う朗読劇「ディブック」で観たホネン役の方の名演技は以下のビデオに登場する悪霊「レギオン」のような感じでした。英語のセリフの和訳はルカ福音書8章26節から39節のものです。



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