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友野雅志の『TomoBookWorld』

読んだ本、眺めるだけで楽しんだ本、どうしても読みたい本について。素敵な書店や図書館の写真。本に関わる楽しいことあれこれ。本の他、ギター、詩、俳句、料理、絵、写真が趣味です


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『コーラン』。コーランは仏典や聖書と違って、もともとアラビア語で読誦されるもので、翻訳も禁じられていた。イスラムでは、アラビア語以外のコーランはない。アラビア語で読み上げられるのがコーランで、他の言語は、翻訳であっても解説書であるという考えだった。


コーランは、旧約聖書のユダヤ教、旧約・新約聖書のキリスト教と同じセム族に生まれた。7世紀、メッカにはユダヤ教徒、キリスト教徒がおり、アラビアの人々はいろいろな神を祭っていた。その中で、一歩抜きんでて敬意を集めていたのがアッラーである...


ムハンマドは、世界の創造主から言葉を頂いているユダヤ人の安堵感や、命と引き換えにするキリスト教徒の信仰を見て育った。そして、洞窟に籠り修行するキリスト教徒を見て、同じように修行した時期がある。多分、旧新約聖書も聴く機会があったろう。


まず、コーランを読む前に旧新約聖書を一読しておくことをおすすめする。ムスリムは、同じセム族の祖先のユダヤ教、キリスト教を同じアッラーからの預言だと受け入れているので、いたるところに旧約聖書と新約聖書の物語が出てくる。あるいは、メッカの頃の啓示と、イスラムの生活習慣に関すること以外は、旧新約聖書の物語を何度も引用している。


メッカ時代は、命を狙われることもあり、またムスリム仲間も少なかったので、その時代の啓示は鬼気迫るもがあり、アッラーの呼び掛けに応じよ、終末が来るぞ、と厳しいものである。約60人でメディナへ移り、戦いに勝利していくと、イスラム社会の在り方や礼拝について語っている。生活習慣については、「もうひとり嫁をもらってよいか」「断食の夜も夫婦の交わりは良い」等々微笑むものから、少ない人数で始まったムスリムが生きて行く術、戦いの方法まで書かれている。サラセン帝国の始まりである。


最初のムスリムになったのは、つまりムハンマドが神の使いの言葉を聞いたと信じたのは、ムハンマドの妻である。最初、私はコーランは神の言葉か?という疑問を持ちながら読んだ。


回りの部族との同盟のためにムハンマドは、4名までというコーランのルールを超えて9人と結婚する。しかも、その中の一人は、義理の息子の嫁に一目ぼれしたムハンマドのために、義理の息子が離婚して譲ったとある。そして、いたるところに、ムハンマドも結局ただの使徒、他の人間と同じであると書いてある。さて、コーランは神の言葉か? 私はこれらのムハンマドの人としての生きている様子を読んで、また、ムハンマドは自分やアラブの民族をすぐれているとも選ばれたとも思っていないことが明確に理解でき、神の言葉と受け取っても良いだろうと思った。特にメッカ啓示はそうである。


メディナ啓示の頃は、あまりに瑣末な事や現実的な事が多く、ムハンマド自身が、神ならどうするだろうと考えつつ話したのではないだろうかと想像する。


いづれにしても、選ばれたすぐれた宗教者であり、政治家である。彼が死んだあと、借金を返すと、剣と少しの土地しか残らなかったとある。


多分ムハンマドは神憑り状態だったのだろう。そして、内容を考える時に、神ならこう言うだろうという言葉を彼はそのまま伝えた。それがコーランだろうと思う。もしかすると、直接神の使いから聴いたのかもしれない、それを否定する要素は全くない。キリスト教徒は聖書を、ユダヤ教徒は旧約聖書を、ムスリムは旧新約聖書とコーランを、もっと身近なものになるほどに読むことは良い事だろうと思う。

2012年に書いたもので、手を入れようと思ったが、全く手を加えないことにした。

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『女のいない男たち』 村上春樹、月刊文藝春秋。

上は、文藝春秋に三か月連続で出た「女のいない男たち」のページを私がひとつにしたものである。他の記事がどうのではなく、狭いわが家、すでに妻から本のスペースについての不満を聴かされているわたしとしては、村上春樹氏の小説を一冊にした。

『女のいない男たち』三部と考えていいだろう。「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「木野」の三つのショート・ストーリーである。

「ドライブ・マイ・カー」は、自分の何人かの友だちと関係をもちつづけた妻にたいする思いを語る俳優のはなしである。どうして浮気をすることが必要だったかわからない、どうしてあんな男と関係をもつようになったかわからない男の話である。主人公は、その理由をわからないまま、他の男に抱かれた理由がわからないまま、物語は終わる。

二話は、「イエスタデイ」。彼女に強く肉体的な関係を求めきれない男が、友だちに、好きな女性の恋人になり、肉体関係をもつことをたのむ話と言ってよいだろう。しかし、彼も彼女に肉体的な関係を求めきれない。そして、何年もたってしまう。

三話は、これまでの春樹ワールドにもっとも近いだろう。木野という妻と別れた(別居した)男が叔母から譲り受けた喫茶店で出あう男、猫、蛇、との関係をとおして、「おれは傷ついている、それもとても深く」と感じる物語である。

三話の文体が、これまでの村上春樹の文体で、一話・二話の文体は、物語を急いで語る文体である。一話・二話と書いた著者は、とても欲求不満、あるいは解消できないものが残ったのではないだろうか。文章の書き方だけでなく、作品そのものに対してである。

一話・二話では、表題通りの「女のいない男」を書いた。その理由は読者には想像できるし、著者は知っている。しかし、物語の中では、それを感じない、知らない、普通の人間と違う人間を描いた。そして、それを、著者は、三話で一気に解放しようとした。

しかし、「おれは傷ついている、それもとても深く」と終わらざるを得なかった。どの短編でも、男性は女性の心の世界が分からず、慌て、諦め、絶望している。

これらは、著者の心に絡みついている不安かも知れない。まだ、村上春樹氏自身の中ではつづいているのかも知れない。そうでないと、どこに書くことに心をこめる意味があるだろうと思ったというのが正直な思いである。著者の作家としての悩みが表れている感じで、かなしいというのが読後に感じた思いである。

しかし、村上春樹ファンもそうでなくても、日本の現代文学が何処にあり、書き手は次の道をどのように悩んでいるか、分かるためにも読んでほしいと思う。

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村上春樹『1Q84』BOOK1-3を読んだのは六年前だ。その時と今、どのように違って感じられるか、そのことでわたし自身の文学への思いや考え方に変化があるのかどうか確認しようと思ったのだ。


ジョージ・オーウェルにとって『1984』がこれからの時代への警鐘であったとすれば、『1Q84』は村上春樹の、国家社会が『1984』と少し違った現在の日本・アメリカ・ヨーロッパで生きる自分自身の生存と書くことの意味の再発見だろう。


『1984』のウィンストンとジューリアにとっては、生きること・愛すること自体が困難であり、簡単には全うできないものだった。そこでは、人は生きるために裏切り、愛そのものが死に絶えていった。


『1Q84』では、...青豆と天吾は、10才の時に感じた強いつながりを求めて20年生き続け、1984と少し違う時間と空間である1Q84に行き、出会い、二人が一緒に生きるべき世界に戻ってくる。NHK集金人の天吾の父親、エホバの商人を想わせる青豆の家族、オーム真理教を想わせる「さきがけ」、そのリーダの暗殺、娘の「ふかえり」、ふかえりが書いた小説『空気さなぎ』。そして、ふかえりを介しての青豆の天吾の子の妊娠。これらは、青豆と天吾が、完璧な世界へたどり着くまでの過程にすぎない。


また、1Q84という青豆と天吾のもうひとつの心の世界で作られる「空気さなぎ」は、作者にとって、現実社会と関わらず閉じたままの小説の世界で、世界から受動的に感受し語るだけの、作者が生きる世界とは別の世界だと言いたいのかもしれない。


そういう意味では、『1Q84』で村上春樹は、「私は別の世界の物語を作るのでなく、この世界を生きるために書く」と宣言しているように思う。


各節ごとの描写は、以前からの喩えや感性のこまかさを見せながら、小説のストーリーの進行は、全く違うところでスピードを調整している感じがする。そこに、「私は、別の世界を読者に感じさせるために書くのではない。どう生きるか伝えるために書く」という意思を感じる。


スペインでの授賞式での演説で「作家は何か希望になることをしなければいけない」と語ったが、それが、『海辺のカフカ』から、『1Q84』へかけて村上春樹が変化してきたことのように思う。それまで、感性が受け止める心の風景を描いてきた作者が、男と女が一緒にいることで何も欠けていない完全な世界を手にできる、と「言いたい」と思って書いたように思う。


主人公の青豆と天吾の、これから何に出会おうとそれを受け入れ、いっしょに生きていこうという思いが、恋愛小説のようであろうと、物語として平板な終わり方であろうと、今の村上春樹のこの世界への姿勢だろうと思った。

上は六年前に書いたものだが、それ以後の村上春樹の作品を読み、エッセイを読んでも、六年前の感想とほぼ同じ感想になる。五年後の『騎士団長殺し』で、村上春樹はそれまで想像の世界で始まり想像の世界で終わらしていた物語を、間に想像の世界の比喩をはさみながら、現実から始まり現実で終わる物語に変えたと考えていいだろう。それは彼の年齢によるものか、彼の文学への考えの変化によるものか、両方が影響しているが、わたしは前者の影響が大きいように思う。歳をとるとは、わたしたちの意識に必ずその影響を与えるし、その影響を意識が排除するのは難しいように思う。
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『職業としての小説家』村上春樹著、スイッチ・ハブリッシング。


村上春樹氏が、どのように小説を書いてきたか、何を思いながらこれまでの小説家の道を決めてきたか、これから何を考えているか、素直に書いたエッセイである。正直な思いだろう。


正直、素直過ぎて、文芸界でも特別に取り上げようもないのかもしれない。多分おおくの方が読んでいるだろうから取り上げる必要もないのかもしれない。



『MONKEY』に連載した七回に書きおろしの五回分で全十二章でできている。


第一回 小説家は寛容な人種なのか

第二回 小説家になった頃

第三回 文学賞について

第四回 オリジナリティーについて

第五回 さて、何をかけばいいのか?

第六回 時間を味方につけるー長編小説を書くこと

第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み

第八回 学校について

第九回 どんな人物を登場させようか?

第十回 誰のために書くのか?

第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア

第十二回 物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出



さて、ご自分で読んだ方がいいだろうから、詳細は書かない。まず、文学論ではないので、そのつもりで読まないといけない。印象に残ったのは、書きたかったら書きなさい、好きなことを好きなようにすることです、長編小説を書くには体力と毎日毎日の持続力が必要です、挑戦すべきことがあるなら挑戦するほうがいい、次は自分自身の中を探っていくことをしたい・・・ということである。


体力のために毎日一時間走る・・・この自己の体力維持の意志力、これが継続して長編小説を書くのに必要だということ、多分すべての仕事について言えることだろうが、この意志力の必要性を感じさせてくれる。村上春樹という小説を書き続けている人間を知るにはわかりやすい一冊である。


そして、『1Q84』、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が書かれる背景が推察できる。。













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『本の読み方』『小説の読み方』平野啓一郎著、PHP新書。


『本の読み方 スロー・リーディングの実践』が2006年。続編になる『小説の読み方』が2009年の発行である。


平野啓一郎氏が『日蝕』で芥川章を受章したのが、1999年である。三島由紀夫の再来と言われたが、わたしが三島由紀夫の作品を読んだのは、彼が1970年に自殺する頃からの高校大学時代の数年間で、『日蝕』を読む20年以上も昔になる。だから、三島由紀夫の作品の記憶が薄くなっていたのか、『豊饒の海』の文章の濃さが合わなかったのか、正直『日蝕』を読んだ時、そのストーリーと描写は三島由紀夫よりわたしには好ましく思われた。


それに加えて、平野啓一郎氏の短い評論を読むと全く違和感なく受け入れることができたので、彼の評論を読む時には全く緊張無く味わうことができる。


それで、今回、少しずつこの二冊を読んだ。わたしは同時に何冊かの本から、その時の気分・雰囲気・体調で一冊を選んで、区切りが良いところまで読んで、しばらく放置する。そして、しばらくしてまた、読み始めた時に、前回まで読んだ内容を記憶しているなら前回までの読み方は間違っていなかったし、その本との相性も良いと考えることにしている。本の問題でなく、こちらの理解度、気分で、その内容をどの程度自分のものとして理解できるか、全く違う結果になるからである。


だからこの二冊も、リビングや寝室を行ったり来たりして、少しずつ読んだ。


『本の読み方 スロー・リーディングの実践』の序文にこうある。「読書を楽しむ秘訣は、何よりも、『速読コンプレックス』から解放されることである!」「本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面から人を変え、思慮深さと賢明さをもたらし、人間性に深みを与えるものである。そして何よりも、ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。」


内容は下のようになる。

第1部 量から質への転換を-スロー・リーディング基礎編

第2部 魅力的な「誤読」のすすめ-スロー・リーディングテクニック編

第3部 古今のテクストを読む-スロー・リーディング実践編


第3部では、夏目漱石の『こころ』、森鷗外『高瀬舟』、カフカ『橋』、三島由紀夫『金閣寺』、川端康成『伊豆の踊子』、金原ひとみ『蛇にピアス』、平野啓一郎『葬送』、フーコー『生の歴史Ⅰ知への意志』を例にとって、実際に読み進めつつ、理解の仕方を説明している。


こういうとらえ方があったか、表現の仕方としてこういう隠されたところがあったかと気づかされるところが多い。読む方法としてだけでなく、書く方法を学ぶにも役立つのではないだろうか。


『小説の読み方』は下のような内容になっている。

第1部 小説を読むための準備-基礎編

第2部 どこを見て、何を語るか-実践編

第2部では、九作の小説を引用している。


小説を読む時に、そのメカニズム、作者にとってどのような人生の変化の中でその小説が書かれたか、社会・文学の歴史の中でどのような位置づけにあるか、作者は読者にどういう意味を与えたいのか?あるいは作品は読者にどういう意味をもっているのか?という視点で読み進めていく。その読み方を実際の作品九作から引用しつつ説明している。


読み方だけでなく、書くための教科書にもなっていると思う。


実際に読んでご自分で体験するしかない。小説をもっと知りたい、あるいは書きたいとと考えている方にもおすすめではないだろうか。






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今回の芥川章は『コンビニ人間』村田沙耶香氏になった。評者のひとりがもらしているように、芸能人の又吉直樹氏の『火花』で若い人に文学が親しまれたというように、今は芥川章は、売上が伸びることと多くの人に好まれることを考えて選ばれているのか?と考えてしまう。

候補になった作品では『コンビニ人間』の他には『ジニのパズル』しか読んでいない。

小説は、読者の感性、知性を通して生きることに新しい衝撃ーー良いものであれ、悪いものであれーーを与えることが書き手が書く目的だと思う。

そういう意味では、『ジニのパズル』は衝撃を与えるはずの人間描写が浅いと思う。それが今回受賞から外された理由だろう。また、表現が感覚的な比喩ー村上春樹風ーが多いことが、マイナスだったのではないかと思う。

では、『コンビニ人間』はどうか?私は『ジニのパズル』と『コンビニ人間』では『ジニのパズル』を推すだろう。

『コンビニ人間』での「変わった」人間を主人公にするのは冒険であり、その描写が難しいのは理解できる。しかし、その「変わった」人間を描ききるまで、この作品の言葉は深いところに届いているだろうか。この作品を読んで、自分と違う人間の生きることを知ったと読者は思うだろうか。また、その「変わった」人間の内面を知った驚きを感じるだろうか。

先ず『コンビニ人間』の主人公の精神を内側からの感じ方と外からの観察、そこでの擦れを生きる主人公の思いを描いていないように思う。

それに対して、表現は個性を持っていないが、何かを表現しようとしている『ジニのパズル』に少しプラスの点をあげたいと思った。

小説が薄くなっている時代なのかもしれない。








(2016.09.03)



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『傷だらけの店長』伊達雅彦著、新潮文庫。


大学在学中に書店でアルバイトを始め、大学卒業後、そのまま社員になる。35歳で店長になり、44歳で退職。現在50歳、どうしているのだろうか。


店長になり、休みを取れず、毎晩閉店までの仕事、給与はあがらず、アルバイトを説得し、本部からの数値目標を達成するために苦労し、出版社や取次店が要求する売上実績をアップさせるための計画が金太郎飴の書店を作ることだと反発する、本を求めるお客さんの要望に応えるために絶版本は古書店で探す・・・お客さんにとっては最高の店長である。彼が、本部から閉店を指示され、閉店していく実話である。


閉じる工事の夜、店の棚に頬をあて、お客さんが歩いた棚と棚の間の通路に横たわる。書店を愛する、本が好き、そうかもしれない。しかし、食べれない、家族の支えで食べていけるかもしれないが、ある年齢になると、子供の教育費等考えるとそうもいっておれない。また、家族とすごす時間をとれない、旅行に安心していけない状態は、お店の経費削減のために店長代理を務めることができる人を雇えないとしても、長期間耐えれるものではない。何のための仕事かと疑問がわいてくる。


「俺はいったい、何がしたかったのだろう?」著者は自分に問う。わたしたちは生きていく時、これをしたいあれをしたいと選ぶ時間なく、何かで食べていかなければならない。その時、思うのは、好きなことで、好きなことに関わる仕事は幸せだろうと。しかし、なかなかそうはならない。


そして、彼はそのようにしてきた自分を否定して、書店から離れることを決心する。 しかし、仕事を探しながらも、職業安定所でも「本」「書籍」という言葉に惹きつけられる。


著者が語る内容から、少し「彼かな?」と思うところもある。しかし、個人でなく、書店店長という立場にたつ人の心を知ることができる。簡単すぎるかもしれないが、本の中に生きることに幸せを感じるが、その仕事からはそれに対する報酬を得れない、そういう職場がある。


全書店がこういう環境ではない。経営者の考え方で全く違う書店をわたしは知っている。その経営者は言う、「うちの書店で勤めて、きちんとした給与と保証を与えられているとわかってほしい、その上で彼らが次の店長になってほしいから。」つまり、報酬が高いし、売上を伸ばしているのだ。すべての書店経営者、あるいは小売店経営者がこういう考えをもっているはずはない。まず、利益のために何をするか? がスタートだろう。


この本は、書店でつとめる人の多くが「本」を好きで、苦しい待遇を辛抱していることを語っている。それは当たっている。そして、その仕事を愛しているがゆえに、離れることなく辛抱し、最後に骨折れるように倒れることを書いている。


伊達雅彦はもちろんペンネームである。書いてある内容から、おおよそ、あの店のあの店長かなと想像した。


出版社と取次店の方々に読んでほしい本である。


(2016.02.15)





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『本屋はサイコー』安藤哲也著、新潮OH!文庫。


出版社営業等の後、東京・大塚の田村書店の店長となり、1996年千駄木の往来堂書店の初代店長、2000年にTRCが設立したオンライン書店bk1へ移籍。bk1は2012年、第日本印刷グループとNTTドコモの合弁会社、トゥ・ディファクトのhontoに統合される。

安藤氏は、2004年楽天ブックスへ移り、2006年に、会社員として勤めつつ、父親の子育て支援を行うNPOファザーリング・ジャパンを立ち上げる。また、2007年より「絵本ナビ」の非常勤取締役を務める。「絵本ナビ」は楽天ブックスと提携している。また絵本ナビは、Webサイト、リサーチ、ECを行う株式会社イード(IID.Inc)の子会社である。


多分、bk1を赤字から抜けださせることができなかったことだけが、彼の心残りかも知りない。田村書店店長、往来堂店長、ファザーリング・ジャパンの代表として、絵本ナビの取締役としての安藤氏は、自分の思う道を順調に歩んでいると考えていいだろう。

・・・「書店ってこんなにエキサイティングな商売なんだぜ!」そういう思いをこめて僕はこの本を書いた。」・・・とプロローグにある通り、内容は、往来堂のオープンからbk1への転職までの話である。


店員との書店のあり方についての考え方のやり取り、ベストセラーが入荷しない時、何を並べて売るか等書店員の勉強になることも多く書かれている。取次店の営業の返品率を減らすための品ぞろえの変更提案から、取次店の帳合変更。著者が元気いっぱいの時代の話である。しかし、今、絵本ナビの取締役を務めているのは、最後の方に書いてあるように、「これからは、本も個人のパーソナリティで売っていく時代」に「『自分だけの書店』を自由に展開」することをしたいのかもしれない。ファザーリング・ジャパンもそのための基盤つくりかもしれない。

書店員の給与が良くないと、書店員は楽しいよと言っても相手に道を誤らせることになるかもしれないが、書店店長としての仕事が楽しかったわたしには同感できる内容である。書店員の待遇が良くなるように、業界全体が考えるというのは、小売業全体が人件費削減・パートタイマー化を進めているとき不可能かもしれない。


しかし、ひとつの店舗でそれを行うことは可能だと思う。売上利益をそれだけ確保しつつ、書店の楽しみを知ってもらうことができたらいいのだから。


書店ってどういうところ?と関心をもっている方には、その楽しみを知ってもらうためにおすすめである。ただし、利益を上げて、自分の給与をあげるにはどうするか、考えてから行動に移すことに注意してもらうとしてである。


(2016.02.13)














『本屋会議』夏葉社。


『本屋図鑑』と同じ夏葉社の特別編集部による。夏葉社代表の島田潤一郎さん、ブログ「空犬通信」を書いていらっしゃる空犬太郎さん、往来堂書店店長の笈入健志さん、写真はキッチンミノルさん、イラストレーションは得地直美さんである。


出版業界の方は多くが読んでいらっしゃるだろう。


内容は次のようになる。

・島田さんによる、今井書店さん、桑畑書店さんの「街の本屋さん」の紹介。

・「町には本屋さんが必要です」というテーマでの何か所でかの会議の内容とそれについてのまとめ。

・空犬さんの本屋さんの話。

・空犬さんによるここ50年の本屋写真や資料とその歴史について。

・笈入さんの本屋についての考え。

・島田さんの本屋さんの話。


島田さんは「はじめに」にこう書いている。「彼ら(書店員さん)は売れる本をたくさん売るけれど、その一方で、自分の店で売りたい本のことも、気にしている。個人的にとても好きな本。とにかく、多くの人に読んでほしい本。この本が売れれば。もっと世の中がよくなるのではないか、とまで考えている本。商売といい切るには、感情が多すぎるのかもしれない。


また、「先月行った隣町の本屋さんがおもしろかったから、また今月も行ってみる。そのように思い出される場所として、本屋さんは人々から必要とされる。」とも書いている。


空犬さんは、こう書いている。「『三位一体』はこれまでは、『出版社・書店・取次』のことであった。しかし、本の世界で『三位一体』であるべきは、ほんとうは『出版社・書店・読者』ではないだろうか。」


書店の店長として働いた頃、わたしは、「個人的にとても好きな本。とにかく、多くの人に読んでほしい本」を、必ず仕入れ、新刊は平台に並べ、しかし一冊である、あるいはひと棚わたしの好みの棚を作っていた。買い切りだったので、わたし好みの新刊は売れ残るとわたしが買った。最初からそれでいいと思っていたし、売れると自分の分を注文していた。


また、いち読者としては、小さい時の楽しい思い出がずーっと続いてこれまで本屋さんの棚を見て回るのが楽しくなった。


しかし、今、書店員の方々が、個人的にとても好きな本。とにかく、多くの人に読んでほしい本」を並べる経済的な余裕を書店はもっているだろうか。売上を少しでも伸ばさないと経費削減、つまり店員を減らすことを要求されるのではないか。


また、本の世界で『三位一体』であるべきは、ほんとうは『出版社・書店・読者』だが、出版社の多くはそうは思っていないのではなかろうか。書店は読者のことを考えたい、しかし、今のマージンでは厳しい。また、出版社も利益のことを考えると、書店・読者のことを考えない方が楽だというのが経済の基本法則で、そうなりつつあるのではないだろうか。


過去50年の本屋さんに並んだ本と読者の関係を考えると、そうした問題を考えさせられた。


書店と読者のことを考えた内容の本である。だからこそ、書店の方々だけでなく、出版社の方々にも読んでほしい本である。


(2016.02.11)



『本屋図鑑』島田潤一郎、空犬太郎、得地直美著、夏葉社。


夏葉社の代表である島田潤一郎さんと「空犬通信」という書店についてのブログを書いている空犬太郎さん、イラストレーターの得地直美さんが半年かけて全国四十七都道府県の書店をめぐり、一書店一頁、多くに店舗、書棚、品揃えのイラストをつけている。


実際にその本屋さんの中を書棚を見乍ら歩いたから、出入りするお客さんを見ていたから気づいたのだろうとおもわされるところがある。


わたしはそのお店の品ぞろえについて書いた頁の向かいに描かれたイラストをルーペで見ていくことを楽しんだ。読む時はそれをお勧めする。実際の書棚を見て歩く楽しみには及ばないだろうが、あっ、この本をおいてある、とか楽しむことができる。



六十四の本屋さんを紹介している。うち二十の書店しか行ったことがない。全国の書店を回ってみようかなと思わせてくれる本である。


(2016.01.25)