『倫理としてのナショナリズム』佐伯啓思著、NTT出版。
わたしの読書のテーマはいくつかに限られている。わたしにとってどうしても必要なものだけである。必要というのは、楽しみとして必要なことから、生きていく上で必要なことまで幅があるが、仕事として読書をする以外は、全く個人的な欲求あるいは必要を感じるからである。仕事関連では、出版書店業界についての本とコンピューターシステムについての本を読む。仕事だからといって苦しいわけではない。そこで考え、想像し、楽しみながら読む。
あとは個人的な必要性から読む。自分の病気に関わる鬱とトラウマと神経の病いについての本、どのように生きると後悔しないで死にたどり着くか考える本、言葉で表現することを楽しむ詩と俳句関連の本、世界を考える時いろいろな視点を楽しむための数学と物理学の本、生きることそのものを考える宗教書と哲学書、そして、国家の存在の将来を考える国家や民族そして社会の歴史と将来の予測についての本である。
わたしの生まれ故郷は、1609年まで、琉球国の一部であった。15世紀まではどこにも属していなかった。その後島津藩の植民地となり、そのまま日本国の一部になった。現在でも、東南アジアの島や南米の奥地、アフリカには、どの国の国民でもない人々が生活している。それに、日本が焼け野原になった時、GHQが国家運営の組織としての政府を再び動かすまでの何か月間か、人々は生きることに一生懸命で、統制がとれていないところはあっても殺しあう大きな混乱は起きずに生活を続けた。
わたしたちの生活に国家は、鉄道、スーパーマーケット、美容室、病院、安全を保障する警察のようなサービスを税金を払えは提供する機関にすぎないのではないか。それは、織田信長が楽市楽座が運営されることを保証し、清水の次郎長が街の人々に、他の暴力集団から教われるのを守ることを保証したのと同じようなものではないか、という実感と一致する。政治学的にはいろいろなことがあるだろうが、ざっくりとした感覚での話である。
それで、国家について考える時、国家は現在の形を継続するのだろうか、それとも国家を超える良い機関が生まれるだろうか、生まれるとしたらどのような形態だろうかというテーマに集中することになる。
このテーマは、マルクス=エンゲルスの世界革命による世界共産主義で語られてから新しい考えは生まれていない。そして、世界共産主義は、その途中で国家共産主義がファシズムと変わらなくなるという歴史での具体的な結果によって、ユ-トピアのままになった。
それで、わたしは自分でいくつかの書籍を読みながら、考えることにした。国家の消滅は起きるのか。そして、全国家が消滅することがあるのか。あるとしたら、どういう形で起こるのか。それが、時々読んでいる本のひとつのグループに求めるテーマである。
一冊目は『倫理としてのナショナリズム』である。選択の理由に特別な意味はない。『想像の共同体』から書き始めると、大学の講義のような順序のようになるので、あえて避けて、本棚にある本から適当に選んで感想を書こうと思う。その時、おぼろげでも何かが見えてきたらいいなという淡い願いで書こうと思う。
2004年、約10年前に書かれたこの本は、次のような内容である。
序章 市場中心主義とその批判
第一章 「自由」と「平等」のゆくえ
第二章 倫理を問う語法
第三章 グローバル資本主義の文化的矛盾
第四章 倫理としてのナショナリズム
著者は、グローバリズムまでの歴史とて、個人の自由と市場競争の発展拡大があったとして、その個人の自由と市場競争についてのいろいろな考え方を取り上げる。そして、その結果であるグローバリズムは、国家を超えて拡がるが、国家の間の貨幣の差、つまり経済力と労働力の賃金の差を利用して拡大する。その時、国家は自国の企業の利益のための政策をとる。その歴史を序章と第一章で解説する。
著者が取り上げる「自由主義」についての説明は一般的に受け入れられている内容だと思うので、ここでは説明はいらないだろ
う。
この本で著者が考える、市場がグローバル化することへの対応する方法は三つである。それが第二章と三章に展開される。
・国家権力も弱まるので、市場システムはさらに自立すべきである。
・個人の利益の追求によって社会共同体の「信頼」が失われ社会的に不安定になる可能性があるので、国家の権力が強化さる。
・市場のグローバル化が「国家の退場」・・・国家権力が弱まる・・・をもたらすので、社会の不安定化が進むので、地域や集団で助け合う。
この三つについて考察する前に著者は「倫理」について、この世界がひとびとへの自由と平等を保証するために必要であるということをだいぶページをさいて書いている。
著者は「市民的美徳」が、ひとが倫理的な責務を感じることが大切であるという。しかし、それができるならば、現在のグローバル経済の中で自国の企業の利益のために国際関係で有利になろうとする政治家は生まれなかったろう。また、大きな戦争もなかっただろう。自国の経済的拡大のために植民地を拡大した帝国主義と、グローバル企業を後押しする政府は、その本質は変わらないのではないだろうか。多分、著者もそれは明確にわかっていて、それでも他に頼るところがないというのが当たっているように思う。
政治家、企業経営者に期待する「倫理」、これは多くの社会学者が同じように期待する。そして、半分裏切られ、半分満たされている。慈善事業がその満たすところだろうと思う。一部の富裕層と多くの貧困層、そして多くの資産を専有する少ない人々からのチャリティーがそれである。あるいは、国家の社会保障が拡大し、セーフティネットになるという期待にそれは表される。
著者のこの問題への向かい方、不満足だがこれが現在のベストであろうというとらえ方、国家の社会保障とチャリティーと企業の「倫理」に期待する考え方は多くの社会学者に共通するものである。不満足であるし、時々機能しないが、希望があるとしたら「倫理」しかないというのが多くの経済学者と政治学者の本音であるように思う。
そして、グローバリズムとそのあと押しをする国家の問題への対応方法は、結局、「ナショナリズム」・・・自国の企業を守りバックアップすること・・・という結論に落ち着く。これも、多分多くの政治学者の考えの具体的な結論である。なぜなら、それ以外に現実に実行された方法がないのだから。
その少し前に、アメリカの政府の自国企業のグローバリズムの拡大主義について、クリントン大統領の実際に行った国際政策を批判的に書いているのだが。そして、その奥さんであるヒラリー・クリントン氏は自分はアメリカの国際企業のセールスウマンであることを明言している。日本政府も、中国政府も、そして多くの輸出企業をもつ国の政府は同様な姿勢を明確にしている。
著者は、日本には、アメリカ同様にナショナリスティックに自国の企業の国際的拡大のための政策をとることがベストの方法であると語っている。
途中で語られた「倫理」は忘れられる。「倫理」が忘れられることは間違ってはいない、当たり前のことである。人類の自由と利益への要求と「倫理」を秤にのせると、「倫理」は軽い。なぜなら、「倫理」とは、他の人間にあるいは人類に求めるものではない。自分自身に求めるものであるから。本人が自分自身に求めない限り、秤は自分の利益に傾いたままになる。
それは、ホッブズのリヴァイアサンの近代化された福祉国家(コモンウェルス)に期待するのに似ている。
これらのすべての面が、多くの経済学者や政治学者が示しているグローバリズムと国家についての姿勢と似ているだろうと思う。国家でなければNPOあるいは慈善団体であり、社会である。つまり、グローバリズムとそれを牽引する政府が手の平からもらしてしまう平等と万人の幸福を掬うには、この17世紀に書かれた希望と同じものしか私たち人類はもっていないということである。
多分、多くの学者が同じ姿勢だと思う。なぜなら、それ以上の方法は現実に実現されていないのだから、同じ困惑と期待の中にいるのだろうと思う。貧困化する多くの中間層が、不安ながら自らこれが改善策だと示せないのと同じように。それで、最初にこの書籍をあげた。
現在の多くの政治学者が、グローバル化する経済と貧困層に変わりゆく中間層の人々に何ができるか、国家と社会のその時の役割は?という問題には同じような答えをもってくるだろう。その意味では現状をどのように学者が捉えているか、そこに問題を見出した学者は対応方法として一般的にどういうことを考えているか、知るためにはわかりやすい本である。
それと同時に、それでは手のひらからこぼれるのを止めることは簡単にはできないだろうと認識させてくれる本である。
(2015.07.08)
三年前に書いたものだが、全く手直しはしなかった。
