友野雅志の『TomoBookWorld』 -2ページ目

友野雅志の『TomoBookWorld』

読んだ本、眺めるだけで楽しんだ本、どうしても読みたい本について。素敵な書店や図書館の写真。本に関わる楽しいことあれこれ。本の他、ギター、詩、俳句、料理、絵、写真が趣味です




『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン、書籍工房早山。


1983年発行。日本では1987年、リブロポートから翻訳本が出版された。原題は"Imagined Communities"である。


東南アジア、特にインドシナの国家形成とナショナリズムの歴史を追いながら、何がナショナリズムの根底にあるかを探ろうとした研究書物である。最近の書籍の多くが、国家、国民、ナショナリズムを語る時、自身の言葉でなく歴史的書物から引用することで力尽きているが、そうではない。アンダーソン自身の調査と考えで論旨を作り上げている。だから、そんなに昔の書籍でもないが「古典」のひとつとして、特に国家について考える時に必読書になっている。


だからこそ今回、ナショナリズムについて考える時、この本について書くのはよそうと思っていた。もっと新しい視点からの分析、考えがあるだろうと思ったからである。しかし、ヨーロッパのナショナリズム論、あるいは日本人でヨーロッパで学んだ学者のナショナリズム論にはどこかかけている物が有るのを感じ、『想像の共同体』について簡単にまとめる必要を感じた。


目次は次のとおりである。

Ⅰ.序

Ⅱ.文化的根源

Ⅲ.国民意識の起源

Ⅳ.クレオールの先駆者たち

Ⅴ.古い言語、新しいモデル

Ⅵ.公定ナショナリズムと帝国主義

Ⅶ.最後の波

Ⅷ.愛国心と人種主義

Ⅸ.歴史の天使

Ⅹ.人口調査、地図、博物館

Ⅺ.記憶と忘却


課題を著者は序文に書いている。「・・・・・新興国民がいかにして、なぜ、みずからをむかしからあるものと想像するのか、・・・・かりにナショナリズムが、わたしの考えたように、意識のあり方がそれまでとは根底的に変わってしまった、そういう新しい意識のかたちを表現したものであったなら、そうした断絶の自覚、そして当然のことながら[これにともなって起こる]もっと古い意識の忘却ということ、これがそれ自体の物語を創出するはずではないか。・・・」


国家・国民・ナショナリズムについて考える時、学者も多くの人々も、理論的に考えようとするなら、国家をなり立たせるのはなにか、国民という意識はどこから来るのか、ナショナリズムはどこから生まれてくるのか、という三点を中心に考える。


アンダーソンは、国民は言語によって統一性を感じるが、全く違う言語を話してもひとつの国家という共通感覚をもつし、同じ言語を話してももともとの人種の違い、宗教の違い等で違う国民と認識し殺しあう・・・そうした歴史をいくつも引用しつつ、この問題の複雑さを語っている。


歴史的にヨーロッパの国々は共通の言語を支配する地域の人々に教育あるいは強制してひとつの国家意識をつくった。同時に、南米の混血がスペイン語をきちんと話しても、スペイン人とはみなさなかった。日本が朝鮮・台湾その他の占領地域で日本語教育を行い、現地の人がどんなに優れた日本語力や知性を持っても生まれの違いから、日本人として受け入れなかったように。どんなにドイツ語とドイツ文化に通じていても、ユダヤ人が受け入れられなかったように。アメリカで、南北戦争の傷は忘れられても、インディオ・黒人への差別意識はなくならないように。そういう意味では、アメリカと日本は、他の言語の民族によってせんりょうされたことがないという点で似ているのかもしれない。


アンダーソンは、そういう国家のナショナリズムはまわりを侵略する拡大主義になるしかないと語っている。


どうして、各国に「無名戦士の碑」があるか。なぜ、ひとは過去を忘れて、今支配する文化にとけこもうとするか?・・・それは明らかではないが、そこにナショナリズムの根があるというと、簡単にまとめすぎるだろうか。


「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ」(ゲルナー)と同じ意味で、アンダーソンは「国民は[イメージとして心の中に]想像されたものである」と言っている。


結論を求めるためでなく、疑問のスタートのために読むのをお勧めである。しかし、自分で考えて調べて、自分の考えを先ずひとつの形にしようとするとこうなるだろう。


ナショナリズムとは? と考える方にはお勧めである。


(2015.12.23)


三年前に書いたが手は加えないことにした。






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『「日本」とは何か』 網野善彦 講談社学術文庫。

日本とは何か、いつから、どの地域を支配するひとびとが自分たちを「日本」と呼んだのか。自分は日本人であると認識した人びとはいつから存在したのか、その問題をまともに考えた本はほとんどない。いつから、日本と呼ぶようになったか。その時の権力の範囲はどこまでか。

また、その時の、その地域はどういう経済状態で、人びとはどのような生活をし、支配者はどのように「年貢」を集めていたか。

わたしたちは、なんとなく、最初の天皇が即位してから二千六百年というのは正確ではないが、縄文時代・弥生時代を通じて、多分、邪馬台国もその流れの一部であり、「日本」が存在したと考えている。だから、学校でも、「縄文時代の日本は・・・・」と教えている。

しかし、縄文時代の日本とか弥生時代の日本という概念は存在しない。いろいろな部族が戦いつつ、まだ、ひとつの政治権力がまとめる前の時代である。しかも、東アジアに、日本海という湖のような内海があり、その北から南へと連なるこの列島には、北から樺太を経由して、朝鮮半島から多くの人々が、そして、台湾・南西諸島を経由していろいろな人々がはいってきた。

国として倭の国を名乗り、次に「日本」を名乗ったのが、七世紀後半である。それまで、「日本」は存在しなかった。また、その後も平将門、藤原純友によって国は幾つにも分割されたもどうような時期もある。天皇の繋がりを追っていくと、幾つかの考えもあり、人数も合わない。また、平家が権力をもった時代は、平家の血が天皇家の血のつながりであり、源氏の時代は源氏の血、南北朝の時代はそれぞれに。つまり、実体はほとんど明確にならないのが我が国の歴史である。「一系の天皇家」はどこにも実証がない。

彼らが「日本」という国を意識しただろうか。

また、1868年の近代国家のスタート時、初めて北海道、琉球は「日本」となった。奄美が薩摩の植民地になったのが1609年、北海道、琉球が日本国に軍事的に占領されたのは、十九世紀である。

この国「日本」の歴史を知るには最適である。

また、律令制、荘園制度、国内の通商、この列島支配者は本当にその時代いたのか? 各地域の支配者が時代時代に権力をもっていたのではないか。国民が農作物で税金を納めていたとしたら、農地がない土地はどのようにしていたのか。税を昆布、干し魚、綿織物で納めていた。そのことも、教科書では触れない。

さて、この本を読んでいくと、「日本人論」とはどこまでを含んで語るべきか。アイヌ、琉球を含まずに考えられている「日本人論」が多いのではないかと気づかされる。

日本史、日本の経済史を考える時には、是非読んでほしい一冊である。

(2014.03.21)

4年前に書いたが手は加えないことにした。


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『国家とはなにか』『ナショナリズムは悪なのか』萱野稔人著。


フランスのパリ大学哲学科卒業、津田塾大学国際関係学科准教授の萱野稔人氏の著書である。


フランスで学んだ方なので、フランスの哲学者からの引用が続く。


『国家とはなにか』は下の内容である。

第一章 国家の概念規定

第二章 暴力の組織化

第三章 富の我有化と暴力

第四章 方法的考察

第五章 主権の成立

第六章 国民国家の形成とナショナリズム

第七章 国家と資本主義


暴力の独占・・・・殺人を合法化することをできるのは国家だけである・・・・それが国家の基本であるという指摘は明確でわかりやすい。マックス・ウェーバーの考えであるが、そのあと、デリダ、フーコー、ドゥルーズ=ガタリの引用が続く。そして、「暴力の組織化にあらがうような暴力のあり方が存在するとしても、そこから、国家といかなる関係ももたない無垢な『国家なき社会』を想定することはできない。」という考えに至る。


それは、『ナショナリズムは悪なのか』でも同じ内容になっている。『ナショナリズムは悪なのか』の内容は次のとおりである。

第一章 ナショナリズム批判の限界ー格差問題をめぐって

第二章 ナショナリズムとはどのような問題なのか?

第三章 国家をなくすことはできるか?

第四章 私たちはナショナリズムに何を負っているのか?


ここでも、フーコー、ドゥルーズ=ガタリを引用しつつ、国家内の格差問題は国家の問題であると、著者は企業が国家を動かすグローバル企業の活動に眼が行かない。そのために、「私がナショナリズムを支持するのは、あくまでも国家を縛る原理としてのナショナリズムであり、アイデンティティのシェーマとしてのナショナリズムではない。」という考えが著者の基本となる。その結果、「ナショナリズムは各民族が固有の政府をもつことこそ正当な統治形態だと主張する。」「そこで私はこう主張した。労働市場のグローバル化をつうじた国内経済の崩壊によってナショナリズムが排外主義へと向かうことを防ぐには、ナショナルな経済政策や社会政策によって国内経済の崩壊を食い止めることが必要だ、と。」・・・・萱野稔人氏のなかでは、ナショナリズムについて、国家について、フランスの数十年前の思想のままであり、新しい展開に結びついていないのではないかと思う。それほどフランス哲学は強力な牽引力をもっているのだとあらためて思う。よって、国内経済の崩壊をくいとめるためには、ナショナルな、つまり国家の経済政策で可能である、という彼の結論になる。しかし、多くの国家が自国内の政策では国家内の経済的な崩壊をとめれず手の打ちようがないというのが現実ではなかろうか。


そうした現実とずれた結論になる理由は彼がフランスで学び、フランスの哲学、政治学を学んだことによると思う。フランス語のnationalが「国家の、国民の」を意味し、nationalisteが「民族主義の、国家主義の」であるが、すべての「ナショナル」を前者のnationalで理解していることによるように思える。彼が引用するフランス哲学者の「ナショナル」はnationalについて語るものであり、彼はフランス語のnational「ナショナル」・・・・つまり「国家の」問題としてすべてをとらえ、「国家主義の」問題が抜けおち、「国家の」捉え方、そこに問題も解決もあるという姿勢から抜け出ることができないように感じる


同時に「ナショナリズム」についての視点が欠けてしまうために、「ナショナリズム」の問題を深く追求することがなされないことになる。


海外の哲学を学ぶ時に、その海外で使われている言語の意味するところがもつ歴史的、民族的な限界を超えることの困難を感じさせる本である。フランス語のnational、イギリス英語のnationalやドイツ語のnationalは、それぞれの国民あるいは民族、または人種が「国家」や「民族」を意識した経緯の違いから、その社会的な意味も内容も違う。もしナショナリズムについて語るなら、その意味の広さを前提として考えないと広い範囲の考えるべきことが抜け落ちてしまうのではないだろうかと、海外の思想を受け入れる時に理解の幅をひろげることがどれほど必要か考えさせられた。


著者の学びの経験の幅が広くなるとまた違うのかもしれないと思う二冊である。


(2016.01.18)


2年前に書いた。今回、もとの文章ではわかりづらいところに手を加えた。






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『日本の歴史をよみなおす』 網野義彦、ちくま学芸文庫。


しばらく前に、右の『歴史を考えるヒント』を読んで、驚いた。日本といつから呼ばれたか、百姓とは農民ではなく一般人のことであり、残っている住民台帳から多くの日本人が農業で食べていたと考えてきたのは大きな誤解である、不自由民・被差別民はもともと神・寺に仕えるものであった、手形・切符・財務諸表はいつから使われたか・・・等々、驚くことが多く、それで、もっと詳しい『日本の歴史をよみなおす』を読むことにした。


まず、日本とは689年に使われた。つまり、聖徳太子も日本人でなく倭人であり、その後も、関東、東北、九州は日本に入っていない。それ以後の日本と、この島々での指導権争いは是非お読みいただきたい。


と言うのは、その中心に海運業とそれの警護を保証する海賊があり、国も代官も荘園主もそれに頼らざるを得なかったこと、また、漁業・林業・海運業を行う人も百姓と呼び、米ならどれだけという税を課し、人びとは昆布、魚、材木、陶器で納めていたのである。


つまり商業経済が成り立ち、為替手形が国内で使用され、荘園主や大農民、漁民、養蚕業者等は、きちんと財務諸表をつくり、必要経費を計算し、それを引いて税を納めていたのである。


さて、689年から日本・天皇という言葉が使われたとしたら、それ以前の雄略天皇、天智天皇という「天皇」はおらず、首長の集まりの大王がいたと考えるべきである。同時に、同じように大王がこの列島にはいつも何人か存在し、覇権を江戸時代まで争っていたと考えるべきであろう。


著者は、「重商主義」と「農本主義」の闘いが、十五世紀までつづいたと描いている。


また、不明な点として、神・寺に仕え、天皇直属の検非使庁に関わり、浄めの役割をなしていた「非人」が、どうして、差別を受ける側になったのか、等まだまだあるが、読みすすめると多くの疑問がはっきりしてくる。


日本人にも、回りの国々の人にも、是非読んでほしい一冊である。


(2013.07.04)

2013年に書いたが、訂正はしないことにした。



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『日本のナショナリズム』 松本健一、ちくま新書。

松本健一氏が現れた時、約四十年前、私は繊細な感性の小説家として記憶している。記憶違いかも知れない。今回、『日本のナショナリズム』を読んで、少しだがシメージが違った。

内容は、四章に分かれていて、次のようになっている。
第一章 日本国家の未来像
第二章 日本ナショナリズムの曲がり角-対支二十一カ条要求とポピュリズム
第三章 リアリズムとロマン主義の間でー斎藤隆夫と北一輝
第四章 日本のナショナリズムとは何か

第四章から読んでも良いのだが、それでは味気なさすぎる。
第一章で、著者は「開国」とは何か、という点にポイントを合わせて、江戸末期に開国をなぜ、誰たちが、どういう利害をはらみながら行ったか、書いている。特に、福沢諭吉たちの、西洋の文明を手に入れ、西洋といっしょに、遅れている中国・朝鮮を侵略する考えが中心となっていたこと。大隈重信他、多くの「歴史的に名を残す人物」がそうであった。対支二十一カ条要求を提出したのは大隈重信であり、現代のポピュリズムと同じで、外に敵を作りそれを叩く、ブッシュ大統領の対テロ戦争、小泉元首相の決定と同じであったと著者は語る。簡単に、現代ポピュリズムと同じにできるかは少し疑問が残るが、外に敵を作ることは政治が独創しやすい時である。

興味をひいたのは、対支二十一カ条要求に反対したのは、辛亥革命に参加しアジアの協力体制を主張していた北一輝であった。また、軍隊に天皇の統帥権があり、政府が干渉すべきでないと、のちのちの軍部の権力を強める意見を主張したのは犬養毅や鳩山一郎である。さきざきまで見えずに、対立する民政党を攻撃するために、ロンドン海軍軍縮会議を政府が行うのは『天皇の統帥権干犯』で軍部が行うべきだと批判した。

そこから政権政治が効力を失い、大政翼賛会につながっていく。

天皇機関説が現実の場ではじきだされていくわけだが、斎藤隆夫は、その基本を守っていく。今回、この斎藤隆夫という人物について読んでみようという気になった。同時に、政党の機関でなく、国民軍を設立しその組織のトップとして天皇を考えたの内容との違いについて、かんがえてみたい。

さて、この『日本のナショナリズム』のポイントは第四章にある。この一冊は、民主党議員たちへの講義をまとめたものの一部であるとある。著者は、君が代は天皇をたたえる歌であり、国家は別にすべきであったと述べる。同時に、「やまとは国のまほろば」という日本武尊のの歌でも良いと語る。

最後にEUの実験??と課題、故郷愛としてのパトリオティズムについて語っているが、ネーションとは何か、ネーションを愛するナショナリズムとはなにか、については語りきれていないように思う。それが、「今の中国にあるのはナショナリズムでない」、なぜなら、多言語が語られ多民族が生活しているから、という言葉に現れている。よって、在日韓国人・朝鮮人から反発があるのは当たり前であり、アメリカで白人主導の政治がなされてきたのは当然であり、それがナショナリズムということになる。

つまり、松本健一氏にとって、ナショナリズムとはある民族が政権を握り、異民族を含む国民に国家への愛情と奉仕を義務付けるという、近代国家のスタート時期と変わりないものとなっている。

ナショナリズムの名のために、中国・ソ連・アメリカ・日本そしてヨーロッパでどれほどの人びとが国内で殺され、対外戦争で殺戮されたか。ナショナリズムを含む「イズム」は理念であるがゆえに、現実はどのように理念の言葉と違う結果になるか、それは、ここ五十年でなく、五百年のできごとである。

ネーションとは、国土、税、軍隊を保有し、利益を求める実体のない存在である。そこから、ナショナリズムを考え直す必要があるのではないだろうか。

(2014.01.05)




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『ナショナリズムの克服』 姜尚中・森巣博、集英社新書。

在日韓国人の姜尚中氏と、国際結婚し長年オーストラリアに住んでいる森巣博氏の対談である。

内容は次のとおりである。
序 章 石原慎太郎の「中国人犯罪者民族的DNA」発言を容認してしまう空気は何か?
第一章 日本ナショナリズム小史
第二章 知られざる在日韓国・朝鮮人二世の青春
第三章 グローバリズムの渚における、森巣博の個人的体験
第四章 民族概念をいかに克服するか
終 章 無族協和を目指して

章名からわかるように、一般的なナショナリズムの歴史書ではないし、政治学の教科書として使われるようなナショナリズムの解説書でもない。そもそも、政治学でも、ナショナリズムとは何か?明確に説明できていないのだから。

まず、民族とは何か?という問いに、多くの書籍が、同じ文化の中で生きる人びとと説明している。それなら、在日韓国人・朝鮮人は日本人と同じ民族か? アメリカは単一民族国家と呼ぶべきか? そうでないとしたら、どうしてそのような定義が通用したのか? 日本が単一民族国家だと誤解したからであるという。わかりやすい。

また、在日韓国人は韓国で半日本人と呼ばれ、差別される時代があった。それは、言語の違いでなく、生活の違いに対する反発だったのでは? という問題から、現在はアイデンティティそのものから解放されるべきではないかと話が進む。それは、「わたしは○○○である」と表明する自由、隠す自由、そして、「わたしは○○○である」という思いから解放される自由のことであると。

そして、○○族ということが問題とならない世界が望ましいという話になる。

奄美出身のわたしは日本人だが、島津藩に琉球から分離され三百年、砂糖地獄の時代を生きた島の人間として、その島津藩が中心となった明治政府以来の日本という国には違和感がある。「わたしは日本人である」ということが、わたしのアイデンティティとならないのである。そういう背景から理解しやすいのかもしれない。

克服する対象としてのナショナリズムという視点の本は少ないので、おすすめである。また、そのことを、国境の内と外の違いってなんだろうか、現在、社会福祉(ソーシャル・セキュリティー)のソーシャルが抜け落ち、国家がセキュリティー重視の治安国家になりつつある、それは、国民全員を在日外国人にすることだという考えで説明しているのも、考える価値がある指摘ではないだろうか。

(2014.01.21)





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『倫理としてのナショナリズム』佐伯啓思著、NTT出版。


わたしの読書のテーマはいくつかに限られている。わたしにとってどうしても必要なものだけである。必要というのは、楽しみとして必要なことから、生きていく上で必要なことまで幅があるが、仕事として読書をする以外は、全く個人的な欲求あるいは必要を感じるからである。仕事関連では、出版書店業界についての本とコンピューターシステムについての本を読む。仕事だからといって苦しいわけではない。そこで考え、想像し、楽しみながら読む。


あとは個人的な必要性から読む。自分の病気に関わる鬱とトラウマと神経の病いについての本、どのように生きると後悔しないで死にたどり着くか考える本、言葉で表現することを楽しむ詩と俳句関連の本、世界を考える時いろいろな視点を楽しむための数学と物理学の本、生きることそのものを考える宗教書と哲学書、そして、国家の存在の将来を考える国家や民族そして社会の歴史と将来の予測についての本である。


わたしの生まれ故郷は、1609年まで、琉球国の一部であった。15世紀まではどこにも属していなかった。その後島津藩の植民地となり、そのまま日本国の一部になった。現在でも、東南アジアの島や南米の奥地、アフリカには、どの国の国民でもない人々が生活している。それに、日本が焼け野原になった時、GHQが国家運営の組織としての政府を再び動かすまでの何か月間か、人々は生きることに一生懸命で、統制がとれていないところはあっても殺しあう大きな混乱は起きずに生活を続けた。


わたしたちの生活に国家は、鉄道、スーパーマーケット、美容室、病院、安全を保障する警察のようなサービスを税金を払えは提供する機関にすぎないのではないか。それは、織田信長が楽市楽座が運営されることを保証し、清水の次郎長が街の人々に、他の暴力集団から教われるのを守ることを保証したのと同じようなものではないか、という実感と一致する。政治学的にはいろいろなことがあるだろうが、ざっくりとした感覚での話である。


それで、国家について考える時、国家は現在の形を継続するのだろうか、それとも国家を超える良い機関が生まれるだろうか、生まれるとしたらどのような形態だろうかというテーマに集中することになる。


このテーマは、マルクス=エンゲルスの世界革命による世界共産主義で語られてから新しい考えは生まれていない。そして、世界共産主義は、その途中で国家共産主義がファシズムと変わらなくなるという歴史での具体的な結果によって、ユ-トピアのままになった。


それで、わたしは自分でいくつかの書籍を読みながら、考えることにした。国家の消滅は起きるのか。そして、全国家が消滅することがあるのか。あるとしたら、どういう形で起こるのか。それが、時々読んでいる本のひとつのグループに求めるテーマである。


一冊目は『倫理としてのナショナリズム』である。選択の理由に特別な意味はない。『想像の共同体』から書き始めると、大学の講義のような順序のようになるので、あえて避けて、本棚にある本から適当に選んで感想を書こうと思う。その時、おぼろげでも何かが見えてきたらいいなという淡い願いで書こうと思う。


2004年、約10年前に書かれたこの本は、次のような内容である。

序章 市場中心主義とその批判

第一章 「自由」と「平等」のゆくえ

第二章 倫理を問う語法

第三章 グローバル資本主義の文化的矛盾

第四章 倫理としてのナショナリズム


著者は、グローバリズムまでの歴史とて、個人の自由と市場競争の発展拡大があったとして、その個人の自由と市場競争についてのいろいろな考え方を取り上げる。そして、その結果であるグローバリズムは、国家を超えて拡がるが、国家の間の貨幣の差、つまり経済力と労働力の賃金の差を利用して拡大する。その時、国家は自国の企業の利益のための政策をとる。その歴史を序章と第一章で解説する。

著者が取り上げる「自由主義」についての説明は一般的に受け入れられている内容だと思うので、ここでは説明はいらないだろ

う。


この本で著者が考える、市場がグローバル化することへの対応する方法は三つである。それが第二章と三章に展開される。

・国家権力も弱まるので、市場システムはさらに自立すべきである。

・個人の利益の追求によって社会共同体の「信頼」が失われ社会的に不安定になる可能性があるので、国家の権力が強化さる。

・市場のグローバル化が「国家の退場」・・・国家権力が弱まる・・・をもたらすので、社会の不安定化が進むので、地域や集団で助け合う。


この三つについて考察する前に著者は「倫理」について、この世界がひとびとへの自由と平等を保証するために必要であるということをだいぶページをさいて書いている。


著者は「市民的美徳」が、ひとが倫理的な責務を感じることが大切であるという。しかし、それができるならば、現在のグローバル経済の中で自国の企業の利益のために国際関係で有利になろうとする政治家は生まれなかったろう。また、大きな戦争もなかっただろう。自国の経済的拡大のために植民地を拡大した帝国主義と、グローバル企業を後押しする政府は、その本質は変わらないのではないだろうか。多分、著者もそれは明確にわかっていて、それでも他に頼るところがないというのが当たっているように思う。


政治家、企業経営者に期待する「倫理」、これは多くの社会学者が同じように期待する。そして、半分裏切られ、半分満たされている。慈善事業がその満たすところだろうと思う。一部の富裕層と多くの貧困層、そして多くの資産を専有する少ない人々からのチャリティーがそれである。あるいは、国家の社会保障が拡大し、セーフティネットになるという期待にそれは表される。


著者のこの問題への向かい方、不満足だがこれが現在のベストであろうというとらえ方、国家の社会保障とチャリティーと企業の「倫理」に期待する考え方は多くの社会学者に共通するものである。不満足であるし、時々機能しないが、希望があるとしたら「倫理」しかないというのが多くの経済学者と政治学者の本音であるように思う。


そして、グローバリズムとそのあと押しをする国家の問題への対応方法は、結局、「ナショナリズム」・・・自国の企業を守りバックアップすること・・・という結論に落ち着く。これも、多分多くの政治学者の考えの具体的な結論である。なぜなら、それ以外に現実に実行された方法がないのだから。

その少し前に、アメリカの政府の自国企業のグローバリズムの拡大主義について、クリントン大統領の実際に行った国際政策を批判的に書いているのだが。そして、その奥さんであるヒラリー・クリントン氏は自分はアメリカの国際企業のセールスウマンであることを明言している。日本政府も、中国政府も、そして多くの輸出企業をもつ国の政府は同様な姿勢を明確にしている。


著者は、日本には、アメリカ同様にナショナリスティックに自国の企業の国際的拡大のための政策をとることがベストの方法であると語っている。


途中で語られた「倫理」は忘れられる。「倫理」が忘れられることは間違ってはいない、当たり前のことである。人類の自由と利益への要求と「倫理」を秤にのせると、「倫理」は軽い。なぜなら、「倫理」とは、他の人間にあるいは人類に求めるものではない。自分自身に求めるものであるから。本人が自分自身に求めない限り、秤は自分の利益に傾いたままになる。


それは、ホッブズのリヴァイアサンの近代化された福祉国家(コモンウェルス)に期待するのに似ている。


これらのすべての面が、多くの経済学者や政治学者が示しているグローバリズムと国家についての姿勢と似ているだろうと思う。国家でなければNPOあるいは慈善団体であり、社会である。つまり、グローバリズムとそれを牽引する政府が手の平からもらしてしまう平等と万人の幸福を掬うには、この17世紀に書かれた希望と同じものしか私たち人類はもっていないということである。


多分、多くの学者が同じ姿勢だと思う。なぜなら、それ以上の方法は現実に実現されていないのだから、同じ困惑と期待の中にいるのだろうと思う。貧困化する多くの中間層が、不安ながら自らこれが改善策だと示せないのと同じように。それで、最初にこの書籍をあげた。


現在の多くの政治学者が、グローバル化する経済と貧困層に変わりゆく中間層の人々に何ができるか、国家と社会のその時の役割は?という問題には同じような答えをもってくるだろう。その意味では現状をどのように学者が捉えているか、そこに問題を見出した学者は対応方法として一般的にどういうことを考えているか、知るためにはわかりやすい本である。


それと同時に、それでは手のひらからこぼれるのを止めることは簡単にはできないだろうと認識させてくれる本である。


(2015.07.08)


三年前に書いたものだが、全く手直しはしなかった。





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『在日』 姜尚中、集英社文庫。

「インマヌエル(ドイツで著者が友人になったギリシャ人)は、自分の『故郷』が生んだ国民的作家を心から敬愛し、そして『ギリシャの中でももっともギリシャ的な』クレタを誇りに思っていた。その意味で、インマヌエルは、『パトリオット』(愛国者)だった。クレタについて語る彼の言葉の端々からそれが漏れ伝わってきた。インマヌエルにとって、クレタは同時にギリシャそのものであり、そして『パトリ』と『祖国』はほとんどなんの齟齬もなく重なり合っていたのである。しかも稀有なことに、そうであることで、彼は、ヒューマンな『コスモポリタン』となっていたのである。明らかにインマヌエルには、『故郷』があるのだ。しかも『祖国』と直結するような『故郷』が。」

『在日』は、著者の人生である。在日一世の両親、おじたちの人生。日本名「鉄男」を捨て「尚中」を名乗る決意の頃の悩み。悩みに潰されそうな状態から逃げる留学生活、昭和天皇の死と父親の死、指紋押捺拒否から押捺までの過程、その過程での尊敬する聖職者と聖書との出会い、大学とテレビの仕事で感じる日本・・・・上は、その留学中に出あったギリシャ人について文章である。自国を離れていても、生れ故郷を愛する心と国家を愛する愛国心にずれがなく一致している。そのために、ドイツで貧しくてもコスモポリタンとしての安定した心を保っていた。

ところが、著者は自分自身についてこう書いている。

「『在日』について言えば、植民地支配の意識が完全に断ち切れていないため、日本人に限りなく近く、しかし『非日本人』にとどまるという微妙な距離感が作られているのである」

わたし自身は日本人である。しかし、江戸時代は島津藩の植民地として悲惨な時代をくぐった奄美大島の出身である。日本人であるが、明治以来の日本政府に対しては大きい距離感を感じる。「在日」の方々が感じる空白感、虚しさは比較できないほどの大きさであろう。

「在日」・・・・日本が植民地支配を行い、そのまま完全な平等を認めないままきたことで存在する特殊な立場である。しかし、そこには国家が「国民」あるいは「住民」をどのように扱っていくか、象徴的な面が現れている。国家は、幻である何か、あるいは過去の何かをその柱にしないと成り立たず、一部の人びとはそれを信ずるかどうかによって国家に属するかどうかを判別し、強制する。大化の改新であり、明治維新であり、天皇の存在である。そして、日本人も、その一線で分けられ、「在日」の人びとが受ける不平等の一部をうけるようになるのではないか。経済的な問題であり、社会保障であり、今後もっと明確になっていくだろうと思う。

日本人の「在日化」、そのことを考える必要があると著者は書いている。それは、国家と国家がつくりだす「非国民」について考えることと同じことだろう。わたしたち、日本人は「コスモポリタン」になれるだろうか。是非読んでいただきたい一冊である。

(2014.02.09)

4年前に書いた。ここ4年で考えて追加したいところもあったが、修正しないことにした。





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『貧困大国アメリカ』堤 未果、岩波新書。


国家の豊かさとは何か? 貧困な国家とは? 考えるためにきちんとしたデータを提供してくれる。


なぜ貧困が肥満をうみだすか、健康保険の民営化による保険で病院行けない人々、医療費で破産する人々、利率の高い学資ローンでカード地獄に陥る学生たち、学費ために軍隊に入りそれでもローンを返せないわかものたち、全世界の困窮する人々を雇う軍隊、大学の学生の授業料と民営化された学資ローンと経営者の高収入、ローン未払いから刑務所へそして刑務所を第三世界より安い製造工場として利用する企業・・・・そして、これをバックアップする政治家たち。


貧困層の高校生名簿がローン会社と軍隊の勧誘会社に渡される。


健康保険を皆国民保健化すると言っていたオバマ氏も、結局、民営健康保険の流れにのった。彼の選挙基金の寄付者には多くの医療保険会社と薬会社が並んでいる。


アメリカは、昔ヨーロッパがアフリカ・アジアの貧困な国民を奴隷化したように、国内の移民・貧困層を奴隷化したといってよい。中間層も破たんさせ奴隷化させつつある。それは、一部の富裕層と政治家の意志による。そのことが良く理解できる内容である。


中国・ロシアも同じ状態である。日本も同じ道を歩んでいる。それを理解するにはとてもわかりやすい本である。


「貧困大国日本」の将来の姿が見えてくる。是非おおくの人に読んでほしい本である。


(2014.11.18)


4年前に読んだが、現在の日本は思ったより速く坂を転げて行くようだ。近い将来の日本が見える本である。




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『愛国の作法』 姜尚中 、朝日新書。

ナショナリズムとは何か? 国民とどういう関係にあるか? 国家とどういう関係にあるか? 考えていくと、あるいは本を読んでいくと、二つの問題が政治学者の前にあり、それを理性的に読者に理解させるのに苦労していることがわかる。

ナショナリズムの歴史的な発展、あるいは隠れた陰鬱な部分には今は触れないでおこう。

本書はできるだけ歴史の視点で考えるのでなく、現在のナショナリズム・・・・もっと日本人に分かり易く「愛国」とは何かをとらえようとしている。

第一章 なぜいま「愛国」なのか
第二章 国家とは何か
第三章 日本という「国格」
第四章 愛国の作法

上のように章分けされているが、第四章の「愛国の作法」・・・愛国とは何かを分かり易くするための前説明が、第一章から第三章と考えてもよい。

「はじめに」にこう書いてある。・・・「・・・・受講生のひとりからこんなふうに訊ねられたことがあります。『姜さん、姜さんは日本が好きですか。日本を愛していらっしやいますか』唐突な質問に一瞬、思わずハッとして言葉をなくしてしまいました。・・・・・『好きも嫌いもありません。愛するも愛さないもありません。・・・・・日本という国の言葉と文化、その風土はわたしにとって運命のようなものです』わたしはまずこのように答え、そらに言葉を接ぎました。『でも、いったい日本という国を愛するとはどういうことだとお考えですか。そもそも愛するとはどういうことで、その対象である国とは何を指しているのでしょうか。・・・・・』」この質問に答えるために書かれたのが本書であると言って良い。


「福祉国家や社会国家あるいは人道的国家といわれてきた民主的な国家は・・・環境保全や疫病対策、公的医療や基礎教育、国防や警察といった公共財を国民に平等に供給する役割を果たしてきました。・・・・ところが、そうした前提は、『ノイローゼ国家』と呼べるような現実に取って代わられつつあります。グローバル化の圧力は、政治的指導者や志をもった政党に自らの政治的・倫理的なアイデンティティと矛盾する政策を採用するようにさせているのです。・・・・」こうして、非正社員の%の急増、低所得化、少子化、年金の存続への危機感がまし、社会の凝集性が損なわれ、コミュニティ・国民的共同体への信頼や関与が乏しくなる。

そこで、「再ナショナル化」が行われる。家族・宗教・伝統・の価値を高める事を国が進め、そのそとつが「首相の靖国参拝」であり、「日本人の美学」の強調であり、安倍首相の「美しい日本」であると著者は説明する。

政治学的な国家論、靖国問題、戦後の日本の「国のかたち」について、歴史的に説明した後、国民は、スローガンの愛国論に動く。たとえ、そのスローガンの中身が現実的なものがなくても、不満がある過去・現実を破壊してくれるだろうという期待で、何かにまかせるとしたら「愛国」に進んでいくと言う。「愛国」という言葉、「国のために死ぬ」ということがが、すべてを消し去って、「善し」とする力を持つからである。

著者はこう書いている。靖国神社の祭神名票の名前の裏に、その人が殺した人の名前と数を付け加えることを想像して欲しいと。すると、英霊といわれている「国のための犠牲者」は同時に殺人者であり、軍隊に徴収された被害者でもあることがわかるのでは、と。

その上で「国のために死ぬ」ことが「美しい」ことか、「国家に誤りがあればそれをただす」ことが「愛国」か、考えても良いだろう。ひとつの覚悟を必要とするだろうが。

著者は、「パーリア」(国家に自然に属するとみなされていない人びと、イスラエル以前のユダヤ人、在日朝鮮人・韓国人)としての自分を意識し、その上で「国を愛する」ことを美学や気持ちの問題でなく、理性的に地域と結びついて生きる事が「国を愛する」始まりだと語っている。

「愛国とは何か」整理するには、簡単で分かりやすい。おすすめです。
(2014.02.02)

2014年に書いたものだが、変更はしなかった。

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