覚え書きについての備忘録 その1 | 団栗の備忘録

団栗の備忘録

心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつけます。なるべく横文字を使はずにつづります。無茶な造語をしますがご了承ください。「既に訳語があるよ」「こっちのはうがふさはしいのでは?」といふ方はご連絡ください。

三島由紀夫氏の小論に「法律と文学」といふのがあります(決定版三島由紀夫全集 31巻 新潮社)。

 

(引用はじめ)

本学の法科学生であつたころ、私が殊に興味を持つたのは刑事訴訟法であつた。団藤重光教授が若手のチャキチャキであつた当時のこととて、講義そのものも生気潑溂としてゐたが、「証拠追求の手続」の汽車が目的地へ向かつて重厚に一路邁進するやうな、その徹底した論理の進行が、特に私を魅惑した。私のもつともきらひなのは、一例が行政法のやうな、プラクティカルな、非論理的な学科であつた。

半ばは私の性格により、半ばは戦争中から戦後にかけての、論理が無効になつたやうな、あらゆる論理がくつがへされたやうな時代の影響によつて、私の興味を惹くものは、それとは全く逆の、独立した純粋な抽象的構造、それに内在する論理によつてのみ動く抽象的構造であつた。当時の私にとつて、刑事訴訟法とはさういふものであり、かつそれが民事訴訟法などとはちがつて、人間性の「悪」に直接つながる学問であることも魅力の一つであつたらう。(中略)「悪」といふやうなドロドロした、原始的な不定形な不気味なものと、訴訟法の整然たる冷たい論理構成との、あまりに際立つたコントラストが、私を魅してやまなかつた。(中略)

こんなわけで、私は大いに刑訴に興味を持つたが、それ以上専門的な勉強は何一つやらなかつた。これも当然のことで、法律学は私にとつて、いつか完全に文学的に変形され、法律学自体への、学問的興味はなかつたのである。(後略)

(引用をはり)

 

團藤重光氏は、もし三島が刑事訴訟法だけでなく、わたくしの刑法理論も同時に学んでゐたならば、あんなことにはならなかっただらう、と慨嘆してゐました。三島氏の刑事訴訟法の答案は、その年度におけるずば抜けて出来のいい答案三通の内の一通だったさうです。しかし團藤氏がその答案を書斎に置いてちょっと席を外した隙に、團藤家の飼ひ犬のカピに書斎に入られてしまひ、三島氏の答案はカピに齧られてびりびりになってしまったさうです(反骨のコツ 朝日新書 194頁)。三島氏は誰に行政法を習ったのでせうか。その当時だと田中二郎氏でせうか。これを読んで「もしも三島由紀夫が田中二郎行政法ではなく、柳瀬良幹行政法を学んでゐたら、あるいは行政法をきらひになることもなかったのではなからうか」と思ひました。柳瀬良幹氏の「法書片言 心の影」(良書普及会)といふ随筆集には次のやうな記述があるやうです(藤田宙靖著 行政法学の思考形式(増補版) 木鐸社 274頁からの孫引き)。

 

(引用はじめ)

≪一体私は中学生の時に幾何を習つて、一時幾何ほど面白いものはないと思い込んだことがあります。何故そんなに思つたか、今から考えてみると多分それは、幾何で用いる概念が極めて明瞭で且つヴイジブルであること、それからその概念を操つて最後の証明に到達する道筋が又論理一点張りで、些かの曖昧も含まないところが多分私の性に合つたのだろうと思います。その後論理学の書物を読んだときも、同様の意味で甚だ気持よく思つたことを覚えています。≫

≪恰度厳密な遠近法に従つて描かれた風景画を見るように、凡ゆるものが一つの観点から眺められ、又一つの視点に集まつている。従つてそれらのものはすべてお互いにこの眼に見えない視線に依つて繋ぎ合されて有機的の連絡をもつて、その結果全体が連絡のない異物を一つも交えない一つのコスモスを形作つている。≫

≪よかれ悪しかれ一つの観点から徹底してすべての物を眺め、一つの世界を作るということは、学問として非常に尊いことと言わなければならぬ。或はそれ以外には学問はないと言つても言い過ぎではないかも知れぬ。或る場合には或る立場から物を見、他の場合には他の立場から物を見るのでは、まだ習作であつて、完成した学問とは言えないであろう。完成した学問は、或る一つの観点からすべての物を眺め或る一つの立場から一切の問題を解明したとき、始めて言えるものではないか。≫

(引用をはり)

 

佐々木惣一氏の学風もさうだと言はれてゐますが、柳瀬行政法学の特徴は「後退する行政法」であるといふことだらうと思ひます。その主張の根拠は何か、さらにその根拠とされるものの根拠は何かと、どんどん思考をラディカル(根源的)な方向へと進めていき、つひには「無効の行政行為にも公定力は存在する」といふ、通説的見解からすると想像を絶するやうなラディカル(過激)な説を唱へるまでにもなりました。

 

通説的見解と目されてゐた田中二郎氏の見解は次のとほりです。「無効の行政行為とは、行政行為として存在するにかかわらず、正当な権限のある行政庁又は裁判所の取消のあるのをまたず、はじめより行政行為の内容に適合する法律的効果を全く生じえない行為をいう。すなわち、無効の行政行為は、その効力の点においては、行政行為のなされなかったのと同様、何人もこれに拘束されることなく、他の国家機関はもちろん、私人さえも、それぞれ、独自の判断と責任においてこれを無効として無視することができる。」、「行政行為に存する瑕疵が重大であり、かつ、その瑕疵の存在が客観的に明白である場合がこれで、かような行政行為については、取消争訟手続によってのみ争うことができるものとする必要は毛頭ない。このような行政行為は無効の行政行為として、何びとも独自の判断によってその効力を否定することができるものとしてよいわけである。」、「行政行為に重大な瑕疵が存在する場合であっても、その瑕疵の存在を誰もが認識しうる程度に外観上に明白でない場合には、権限のある行政庁又は裁判所の判断にまつのをむしろ当然とするであろう。したがって、無効の行政行為というためには、行為に内在する瑕疵が重大な法規違反であること(この場合には、通常は外観上にも明白である)のほか、瑕疵の存在が外観上明白であることを要するものと解すべきで、この二つの要件を備えている場合にはじめて、正当な権限のある行政庁又は裁判所の判断をまつまでもなく、何びとでも、その無効の判断をなしうるものと解すべきである。」(新版行政法上巻 全訂第二版 弘文堂 137、140頁)。

 

この説については三島氏ならずとも、疑問点が色々とわいてきます。「無効の」行政行為をなした行政庁自身は、自らなした行政行為に瑕疵はない、と当然思ってゐたはずです。さうすると誰の目から見ても瑕疵が明らかとは一体どんな場合なのでせう。法律のしろうとの一般国民の目から見ても瑕疵が明らかであるやうな、そんな行政行為をしてしまふボンクラな公務員が、果たして実際に存在するのでせうか。もしゐたら国家賠償モノだと思ひます。また、一般の国民にも瑕疵の存否等の認定権限を認め、「この行政行為には重大な瑕疵があることが明白だ。法律のしろうとである私にもわかる。」と私人が「思ひさへすれば」、その行政行為を無効として無視してよい、といふことで果たしてよいのでせうか。柳瀬氏は夙に戦前から「行政行為が無効となる為の要件を重大性にとるにせよ、明白性にとるにせよ、およそかくの如き何らかの要件を想定する限り、その認定権者如何がまた別に問題となり、要件それ自体から認定権者如何を見出すことは不可能である。」といふ指摘をしてきたのでした。このやうなことが藤田氏の「行政法学の思考形式」に詳しく論じられてゐます(ちなみに「夙に」といふ副詞は藤田氏の文章を読むと頻繁に出てきます。田中二郎氏の場合は「頗る」といふ言葉ですかね。閑話休題)。柳瀬氏自身は「元来行政法というものが抑々そう深遠な理論のあるものではなく、常識に毛の生えた程度のもの」であると述べてゐますが(柳瀬良幹著 行政法講義 良書普及会 例言)、思ったより想定外にむつかしいものだと思ひます。もしほんたうに行政法が「常識に毛の生えた程度のもの」であるならば、三島氏が行政法は非論理的な学科であってきらひだと思ふやうなこともなく、藤田氏が「行政法学の思考形式」といふ論文集を出すやうなこともなかったはずです。

 

その2に続く