中国史(12) 隋唐帝国 | 歴史と折々の随想

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日常に隠れた「歴史」について語ります・・・

【隋帝国】


 隋帝国は北周の外戚だった楊堅が、581年に華北の地方豪族を統合して建国した地方分権的な政権でした。このため初代文帝(楊堅)と二代目煬帝は、南朝の陳を滅ぼして中国を統一すると、江南地方(長江下流域)の経済力を華北と直結させて、中央の権力を増大させるために、大規模な運河を建設しました。もちろん建設予算は地方豪族に捻出させるわけですから、王朝基盤は強化され、地方豪族は弱体化するという一挙両得の政策でした。しかしこれに加えて、煬帝による3度の高句麗遠征がおこなわれ、この失敗は、地方豪族の財政を逼迫させました。追い詰められた地方豪族たちは、ついに李淵をおしたてて隋に反抗することになったのです。


【唐帝国】


1.唐帝国の成立と貞観の治


 618年、李淵によって建国された唐は、第二代の李世民の時に隋を倒して中国を統一しました。皇帝となった李世民(太宗)は地方には州県制を施行し、律・令・格・式の法体系を整備して、中央官制に三省六部(法案起草の“中書省”、審議機関の“門下省”、執行機関の“尚書省”、各執行部門としての“六部”)を設置しました。李世民の治世は“貞観の治”といわれる安定した治世でしたが、それは地方豪族から所領を召し上げるかわりに、都で貴族として生活を保障して、門下省で国政に参与させたからです。唐が貴族政治であるといわれる理由はここにあります。したがって隋で創始された官吏任用制度の科挙制も、「蔭位の制」と呼ばれる“父祖の官位によって任官できる制度”が採用されたため、貴族に優位な制度でした。


 対外関係では、南はヴェトナムへ進出し、北はモンゴル高原の東突厥を服属させ、この時に第二代太宗は北方遊牧民の族長達から“天可汗”という称号を受けています。東は第三代高宗の時に新羅の朝鮮半島統一を援助し、西は第六代玄宗の時に中央アジアでアッバース朝と「タラス河畔の戦い(751)」をくりひろげました。唐は新領土に6つの都護府を設置し、現地の異民族を羈縻政策によって懐柔しました。また唐は周辺国家と形式上の君臣関係を結んで朝貢貿易を促し、冊封体制による“東アジア文化圏”を形成するにいたりました。


 経済制度では自作農民による均田制とそれに基づく租庸調制という税制を施行し、軍事制度も均田農民を徴兵する府兵制がおこなわれました。



歴史と折々の随想-唐帝国と都護府

2.武韋の禍


 第3代高宗の皇后(皇帝の妻)であった武后(則天武后)は高宗の病に乗じて実権を握り、高宗が死ぬと子の中宗、ついで睿宗を廃位して、国号を周と改めて自ら皇帝を称しました。武后は自分に反対する門下省の貴族達を厳しく弾圧する一方で、科挙官僚を重く用いたために、中央集権化が推進されることになりました。


武后の死後、中宗が復位して唐を再興しましたが、中宗の皇后であった韋后が武后の政治をまねて自らも皇帝になろうと、中宗を毒殺したために再び政治的な混乱が起こりました。しかし睿宗の皇子であった李隆基が韋后一派のクーデタを鎮圧し混乱を鎮め皇帝に即位します。この李隆基が第六代の玄宗です。


3.開元の治と安史の乱


 玄宗は、大土地所有が進展し均田制が崩壊しつつあり、府兵制による国家防衛が困難であると判断し、新しく“募兵制”を導入しました。また唐帝国に服属していた周辺諸民族の反抗や自立が活発化し、都護府を監督官とする羈縻政策が破綻したことから、辺境を強大な軍事力で防衛するために“節度使”を設置しました。玄宗が皇帝となった頃は貴族勢力の大半が武后によって排除されていたために、皇帝権の強い中央集権体制が現出され、比較的安定した治世であったので、“開元の治”といわれます。


 しかし晩年の玄宗は楊貴妃への寵愛が過ぎ、血縁者の楊国忠が宰相をつとめるなど、楊一族の独裁が起こりました。この楊国忠に対して、玄宗の寵臣で3つの節度使を兼ねる安禄山が対立し、ついに反乱がおこります。これが“安史の乱(755~63)”です。反乱そのものはウイグルの援軍も得て鎮圧するにいたりましたが、これを契機に唐帝国の支配力は弱体化していきました。



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4.唐帝国の滅亡


 安史の乱以後、唐王朝の統制力が弱まると、節度使は辺境だけでなく内地にもおかれるようになり、彼らは支配する地域の行政と財政の実権を握り“藩鎮”と呼ばれて独立した勢力となりました。またモンゴル高原からはウイグルが、チベットからは吐蕃が相次いで唐帝国の領土を侵犯しました。


 傾いた帝国を財政的に立て直そうと、780年に宰相の楊炎が両税法を制定したが効果は得られず、塩の専売制に困窮した民衆を中心に、塩の密売人によって起こされた黄巣の乱(875~84)で、唐帝国は壊滅的な打撃を受け、ついに節度使の朱全忠によって滅ぼされました。907年のことです。


それでは、今日はここまで。

          明石智彰


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