わたしは、1977年冬に産まれました。
10こ、と、9こ上に兄がいます。

私の父は、3人兄弟の真ん中。
私の母は、7人兄弟の末っ子。

まず、私から見えていた父は、
家では、亭主関白な怖いイメージ。
みな、父に気を使っての生活。
怒ると、怒鳴ったり、ビンタしたり、または、黙って自室にこもったり。
兄が父と、しゃべってる光景を子どもの頃には見ていない。

私から見えていた母は、
優しい、いや、怖くないが、正しいか。
父より亭主関白がきつめな、おじいちゃんと、嫁である、おばあちゃんとの関係で、私は母を守りたいと思っていた。
とゆうのも、母は、おばあちゃんに、よく怒られていたのを、私は、こっそり見ていたから。

そして、兄たちは、私が物心ついた時には、家を出ていたので、兄とゆうより、年に1回か2回会う、親戚レベルなイメージ。

私が産まれて、少ししてから、私の家族は、おじいちゃんの家に同居します。

なので、私が覚えいる最初の家は、おじいちゃんの家。
二世帯住宅とかではなく、普通の、でかめな家の一階が祖父母。
二階の二部屋が、私たちの部屋。

私から見えていた、おじいちゃんは、
しゃべった覚えはない。
怒鳴られた記憶はある。
母を責め立てて、裁判みたいにしてるのを見た記憶もある。
こんな感じ。
可愛がってもらったなんて記憶は、全くない。

私から見えていた、おばあちゃんは、
私には。これ、大事。私には優しかった。
厳しかったけど、大事にされていた実感はある。
そして、おばあちゃんは、目が悪く、母がごはん作ったりして、一つ一つ、お皿におばあちゃんに何が入ってるか説明したり、もちろん、どこに、おかず、汁物を置くかも決まっている。
とはいえ、家の中では、おばあちゃんは自由に動く。
どこに何があるかなど、記憶力は素晴らしい。


こんな人たちの中で、私の幼少期は育まれた。

この頃、強く記憶に残っている映像は、
やはり、母が責められている絵。
あ、私の記憶は、絵や写真のような記憶なんです。
そして、責められている母を助ける人は、誰もいなかった。
父は、しらんぷりしているのを覚えている。

そして、責められ泣いている母の顔。
幼かったので、なぜ責められていたかは、覚えていない。

そんな時、私はいつも、二階にいた。
二階から、母をこっそり見ていたのだ。
ただ、一階で見ている記憶もあるが、それも、こっそり見ていた。

私は、おばあちゃんが大好きだったが、同じくらい嫌いだった。
母を責めるから。
母を守りたい。そう思っていた。

幼い私が何かミスをしたら、父も、おばあちゃんも、母を叱った。
だから、できるだけ、ミスのないようにしていた。
そして、私がニコニコしていれば、平和がやってくると知った私は、ニコニコするようにしていた。

私は、誰かに守られたかった。
怖かった。悲しかった。
この頃から、怖いや、悲しいと感じるのをやめる、やめようとする、もう一人の自分にその感情を任せた。
守りたいと感じるのではなく。
一階のおじいちゃんに気を使って、二階では静かにしなければならないのも、嫌だった。


幼少期の私の記憶は、こんな感じ。
愛されていなかったわけではない。と今はわかる。

これを読んでくれてる方に言いたいのは、これは、私の記憶であって、母や父、祖父母を責める為に書いているわけではないことを、理解していただきたい。
祖父も祖母も、父も母も、それぞれの人生を歩み、彼らなりに、私と関わっていたのだと思う。
また、後日、続きを書きますが、私が、どんなチョイスをしながら生きてきたかに、焦点を当てて読んでいただければ。と思います。