私が育った街・衣笠に等持院という名刹があります。

小学校の友人の家が等持院の境内にあったことから、よく自転車で遊びにいった思い出の地です。

この院を創建したの征夷大将軍の足利尊氏。

夢窓疎石が開山した等持院(中京区)の別院として衣笠山の山麓に「北等持院」を建造します。

その後、尊氏の菩提寺となり、応仁の乱後に等持院と合併し北等持院が「等持院」となりました。

堂内には足利氏歴代将軍の木像13体が安置されています。

尊氏は後醍醐天皇の「建武の新政」に反旗を翻し、光明天皇を拝して北朝を立て、

建武式目を発令し「室町幕府」を京の都に樹立します。

 

尊氏はなぜ?それまでの幕府があった鎌倉ではなく、京都に幕府を開いたのでしょうか?

 

建武式目の諮問の時「幕府は鎌倉か?他所に置くべきか?」という回答を求められた時、

尊氏は「鎌倉に置くのが妥当だが、人々が望むなら他所でもいいのでは?」と明確な回答を避けています。

 

以前、本拠をおいた鎌倉で幕府を開く方が簡単だっただろうが、やはり後醍醐天皇の残党勢力が

主張する吉野の南朝の動きを恐れての判断だったのでしょう。

また、幕府の主力武士たちが畿内近郊にいることも、京都に幕府を開く要因になったと云われています。

 

この判断のもとに京都は再び政治の中心地に返り咲いたのですね。

 

三代将軍・足利義満の頃には雅やかな北山文化が花開き、その後の東山文化へと

受け継がれ「室町文化」が京の都に新たな風情を生み出すことになるのです。

 

しかし、等持院は後醍醐天皇を裏切った「逆賊」尊氏ゆかりの寺として汚名が付きまとい、

特に江戸時代中期以降の尊王論の高まりで、第二次大戦後までは

とても厳しい苦難の道を歩むことになりました。

 

今も境内地に民家が建ち並んでいる風景は、土地を切り売りして生き抜いてきた

等持院の歴史を物語っているのです。