徳川将軍の月日の動向を記述し残した「徳川実紀」に、

慶長8年の冬、徳川家康に初めて拝謁した人物として

「角倉光好子與一玄之」という名が残されています。

この年の2月12日、家康は征夷大将軍の宮下があり、

同月21日に伏見城へ入洛した後に、二条城へ入った記されています。

 

了以親子が初めて家康に拝謁したのは、家康が二条城若しくは伏見城に在城していた

同年のことだと云われています。

その席には新たに御家人となった織田・武田ゆかりの武士たちも同時に拝謁していましたが、

彼らよりも先に、了以親子の名が呼ばれ、拝謁を許されているのです。

了以親子が家康からどれだけ信頼され、その能力を高く評価し重要視していたかがわかる記述です。

 

その際、家康より「角倉了以光好仰せを蒙りて安南国(ベトナム)に船を渡して通商す」と命じられています。
 

家康は豊臣政権のもとで、了以がアジア諸国との朱印船貿易を行っていたことを知っており、
貿易商としても優れた交易能力や航海力を有していたことを高く評価していたに違いありません。
 

了以は家康より、日本国の正式な使者「日本国回易大使」として「二国の友好と交易」を求めた書簡を預かり、
安南国(ベトナム)へ向かっています。
 

ちなみに、その時の了以の記名は、本阿弥光悦から書を学び後年「京の三筆」と称された息子素庵が代筆したものです。
 

了以と素庵親子の築いた安南国と交易は、寛永13年の「朱印船渡航禁止令」をもって終了するまで続いたのでした。
 

その両国の絆が今、400年以上前の交易の歴史を紐解くことで、再び交流できればと思っているのです。