《田辺朔郎博士 琵琶湖疎水の設計者》
千年の古都として日本人に愛される都市・京都。
しかし、その長い歴史の間には、幾度も衰退の危機に直面することがありました。
近世江戸幕府が開かれた時や明治維新後の東京遷都時もそうでした。
その危機を救ったのはどちらも「水」にからむ運河の整備でした。
さらに、そこには二人の志高き人物の活躍があったことも共通しています。
その2人の人物こそ田辺朔郎と角倉了以です。
田辺朔郎・・・東京工部大学校(後の東京帝国大学工学部)を卒業したばかりの 24 才の技師。
明治政府が行った東京遷都により京都は「朝廷」という精神的支柱すら失い、
政治的にも経済的にも衰退し苦境のどん底にありました。
古都の復興と発展のためには抜本的な基盤整備の断行が緊急の課題でありました。
その主事業計画こそが、琵琶湖疎水計画でした。
しかし、京都と大津(滋賀)の境にあり「難所」といわれた逢坂山と日ノ岡間を
隧道で貫通させて、近江大津と京都市内を舟運でつなぐというは、技術的にも経費的にも
当時の日本では不可能だと考えられていたのです。
そんな折、当時の京都府知事・北垣国道は一つの論文に注目します。
田辺朔郎が工部大学校(後の東京帝大工学部)の卒論で書いた「びわ湖疏水工事計画」です。
論文に惚れ込んだ北垣知事は、工事全体の責任技師として朔郎を抜擢します。
しかし、土木工事費予算として125 万円を要する疏水工事。今でいうと2兆円くらい!
当時の京都府の年間予算額でも 50~60 万円程度で、国家全体の 土木工事費予算が
約 100 万円と いう時代です。まさに桁外れの巨大プロジェクトです。
指導的立場にあった外国人技師たちも「今の日本の技術力では無理だ」といわれ、
かの福沢諭吉も『京都の風光明媚な景観を壊すだけで害有って益無し。』と酷評しました。
しかし、知事は「京都復興」という不退転の決意で、この若き技師の朔郎に賭けたのです。
近世・江戸初期、政治の中心が江戸に、経済の中心が大坂へ移り
衰退の一途を辿る都京都を復興させるために、一族や地域住民の反対を押し切り、
保津川と高瀬川開削に挑み、救った角倉了以と通ずるストーリーであり、
その子素庵とともに夢見ていた計画が、まさにこの琵琶湖疎水計画だったのです。
世紀の大事業といわれた琵琶湖疎水計画は、多くの難工事と犠牲のもと、
明治 23 年 4 月 9 日に開通し完成し、開通式には天皇・皇后両陛下の臨席を賜りました。
そして疎水は舟運だけでなく、その後近代化に欠かすことができない主エネルギーとなる「電気」を
水力で発電する事業を可能にするともに市民の生活用水の確保にも役割を果たし、
水源として、近代社会の生活基盤整備の確立へとつながっていきます。
まさに了以が保津川から丹波の木材資源を舟で運ぶことで、都の人々の木質火力エネルギーを供給し、
都の物価安定に生活向上に貢献したことともオーバーラップする事業です。
そして、朔朗が完成させた琵琶湖疎水は100 年以上経った今も
京都の人々の水資源を供給する生活基盤を支える施設として重要な役割を果たしています。
朔郎は後年、京都大学で教鞭を取り、京都で没しますが、戒名に「水力院釈了以大居士」と
付けてほしいと希望します。その戒名に「了以」とあることが、彼が生涯抱いた
角倉了以への強い憧れ、リスペクトをしていたことを表しています。
疎水工事に伴う殉難者17名の魂を慰めるため、田辺朔郎は私費で慰霊石碑を建てています。
銘は、「一身殉事萬戸霑恩(一身 事に殉じ/萬戸 恩に霑(うる)ほふ)」
「あなたたちが一身を投げ打ってこの事業に殉じてくれたからこそ、今、多くの人が潤っています。
あなたたちの死は無駄ではありません」という意味です。
ここも了以が生涯を終える地として建立した「大悲閣千光寺」において、
保津川開削で殉職した人々を慰霊し念仏を唱えながら晩年を過ごした姿を彷彿させます。
思想という‘志’は時代を超えて人を潤し、地域を潤し、受けつがれるものだということがわかります。
人はその生涯で、何を残すか?
伝統を受け継ぐ私たちもこのことをしっかり心に修めて、歩んでいかねばなりませんね。
先人たちの情熱が生み出した偉業により守り続けられる古都・京都。
その奥深さこそが世界中から訪れる人々の心をとらえて離さない魅力だと感じるのです。