《滝口寺》
奥嵯峨の祇王寺にから少し隣へ歩みを進めると滝口寺があります。
知名度は奥嵯峨の寺院でも低いのですが、隠れた紅葉の名所といえるでしょう。
もとは平安時代に念仏道場として栄えた往生院の子院のひとつ「三宝寺」でしたが、
その後退廃し、久しく空地になっていたものを昭和初期に杵屋佐吉(さねやさきち)によって再興されました。
この滝口寺は、その名前に物語があります。
平安時代、平清盛の側近であった滝口の武士・斎藤時頼(さいとうときより)は
建礼門院徳子(高倉天皇の皇后・清盛の娘)の下女であった横笛と深く愛し合います。
これを知った時頼の父は、身分が釣り合わないという理由で横笛との恋愛に猛反対でした。
そして偽りの手紙など策を講じて二人の仲を引き裂きました。
横笛が心変わりしたと勘違いした時頼は未練を断ち切るために、
とうとう出家してしまい、滝口入道となり
嵯峨の往生院にこもったのです。
横笛も突然、出家した時頼に「これは策略」だということを伝えたくて
何度も院を訪ねますが、仏道に身を投じた入道は横笛に会おうとはしません。
そしてとうとう女人禁制の高野山へ旅立ってしまったのです。
誤解が溶けないまま引き裂かれた二人。
叶わぬ恋愛に絶望し悩み抜いた横笛も、奈良の法華寺・尼寺に
髪をおろして仏門に入ってたのです。
その後、時は流れ、ある秋の日のこと。
伏見深草を通りかかった滝口入道は、里外れの小さな庵を見つけます。
そこにはまだ新しい塚があり、道行く人々はこの塚を「恋塚」と呼んでいるのに気が付きました。
気になった入道は近くを歩く老婆にこの塚のことを尋ねました。
老婆は「もういつの頃やろか~この庵に一人の尼さんがお住みになり、
毎日念仏を唱えておられたが、この月のはじめに病に伏し
ひっそりと息を引き取りなさった」と話したのです。
入道は胸騒ぎを覚え「その尼の俗名はわかるか?」と尋ねました。
老婆は「たしか横笛とか申す方で、昔、建礼門院さまにお仕え、
たいそう美しいお方だったといいます」
「やはりそうか・・・」入道はつぶやきました・・・
そして、若き頃、身を焦がす恋愛をしながら、誤解がもとで別れた横笛との日々を思い起こしながら、
幸薄い横笛の眠るこの塚に向かって、ひとり静かに手を合わせるのでした。
以上、この悲恋物語は『平家物語』巻第十に語られています。
その話を題材にした高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の歴史小説『滝口入道』は、
多くの人々に読まれ、平安時代を生きた人々の情念を伝えていくのでした。
奥嵯峨を歩くと、人として最良の心情が呼び戻されます。
じばし、日常を離れ、本当の自分を見つめてみるのもいいですね。