《嵯峨釈迦堂・清涼寺》

「嵯峨釈迦堂」の愛称で親しまれる清涼寺は、嵯峨が誇る国宝「三国伝来の人間釈迦像」を祀り、

庶民の念仏信仰のお寺として約千年も親しまれています。

 

平安中期に東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が宗に留学した時、釈迦37歳の姿を刻んだ三国伝来の釈迦像と出会います。

 

五臓六腑まで描かれた人間釈迦像に深く感動した奝然は、その像と同じ姿を掘らせて日本に持ち帰りました。

 

その模様は室町時代の画家「狩野元信」が絵巻にした「釈迦堂縁起」に描かれています。

 

現在の本堂は、元禄14年(1701)徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院、

大阪の豪商泉屋(後の住友)吉左衛門らの発起により再建されたもの。

 

 

清涼寺の地は、平安の昔、源氏物語の主人公・光源氏のモデルと言われる源融(みなもとのとおる)

建立した山荘・棲霞観(せいかかん)の跡地でもあります。

 

 

「嵯峨野の御堂」の物語によると、光源氏は「紫の上」の目を盗み、

大堰川のほとりに呼び寄せて住まわせた「明石の君」との

逢瀬を楽しんだ物語はよく知られたいます。

 

 

数々の女性と浮名を流した源融は、晩年この「嵯峨野の御堂」で過ごし、生涯を終えました。

 

稀代のプレイボーイ・源融の墓は多宝塔の裏にひっそりと立ち、悠久のときを見守っています。

時は巡り、江戸時代初期。

 

住友財閥の初祖の政友は、この清涼寺の裏で、貧のどん底生活の日々を送っていました。

当時の政友の職業は山師。金銀銅など採掘し、一攫千金を夢見る所謂、博打的な仕事です。

 

彼は熱心な釈迦信仰者だったので、日頃から深い信心で祈りを捧げていたところ、

突然、お釈迦さまが姿を現しになられ、西南の方向へ指を差されました。

 

政友は「これはきっと、自分へのお告げだ!」と信じ、西南の山々の鉱石を探し歩き始めたのです。

 

政友は、大坂難波へ辿り着いた政友はさらに西南を方向・四国を目指し船に乗り込み

幾多の苦労の末に愛媛県の別子銅山を掘り当てたのです!

 

その後、二代目の泉屋吉右衛門が事業を拡大し、現在の住友家の基礎を築いていくのです。

清涼寺には、住友家のルーツと企業精神を学ぶため、幹部社員を対象とした錬成道場もあります。

 

毎年3月15日に嵯峨大念仏狂言とともに執り行われる、生身釈迦如来を荼毘にふす儀式「清涼寺のお松明」は、

元来住友財閥の資金支援で行われていましたが、昭和50年にその支援が止まったことで継続が危ぶまれました。

 

しかし「伝統の火を消してはいけない!」という地元住民の強い思いから保存会が立ち上がり、

地域ぐるみで現在まで継承されています。まさに京都の町衆の底力を感じる「炎の儀式」です。

霊宝館には、阿弥陀三尊像、十大弟子像、四天王立像、文殊菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像、

兜跋(とばつ)毘沙門天立像(いずれも重要文化財)等が安置されいて、

他に境内には、奝然上人源融嵯峨天皇檀林皇后や遊女夕霧太夫十萬上人のお墓があります。

 

中国伝来の釈迦信仰の中心として嵯峨・京都のみならず、日本の仏教文化を築いてきた

嵯峨釈迦堂・清涼寺が今も、地元住民の厚い信仰心により支えられています。

 

雅な紅葉を愛でながら、悠久の時に刻まれた幾多の物語に思いを馳せるのもいいですね。