徳川幕府は近世の京阪神開発を最も重要な戦略と位置づけ、京都の街の都市改造計画を

進めましたが、それには当時、最先端の学識と技術力、そして民間資金を有していた角倉家

協力があってはじめて可能になる計画だった私は考えています。

 

特に海外との窓口になる大坂―京都間の経済圏をつなぐことは、

首都が江戸に移り政治的な求心力をなくした京都にとっても、

都市再生に絶対に必要な計画だったに違いありません。

 

新時代を創造する為に重要なビックプロジェクトに、

角倉了以は生涯の集大成として、自身が持てる全精力を傾けました。

しかし、保津川の開削工事以来、数々の大工事の連続で

カラダは極度の疲労を伴っており、病床に伏す日も多くなっていました。

 

それでも「この高瀬川開削だけはどうしても成し遂げる!」

 

との強固な意志で気力だけを支えに工事の先頭に立ち、

無事に完成を見たのです!

高瀬川開削工事が完成し、初めて第一便となる舟が出航する記念となる日、

了以は息子・素庵や孫たちに付き添われ、河畔の屋敷から舟の出発点となる

二条「一之舟入」へ見送りに行っています。

 

その時

「いずれこの川や舟運を誰が造ったかなどは忘れてしまうだろう。でも、それでいい。便利になり地域が潤い、人が潤えばそれでいい」

と語ったといいます。

 

これが京都の「高瀬川」誕生ものがたり です!

この川の界わいは今も、人が集い、行き交い大変な賑わいです。

しかし、了以が語ったように、今、この高瀬川を眺めながら

「この川は誰が造ったのだろうか?」

と思いを馳せる人々は殆どおられないでししょう?

 

角倉了以の創業した保津川下りで、今も生業をさせて貰っている唯一の存在として、

了以の遺伝子を受け継ぎ、語り続けていくこと

私の使命であると思っているのです。