【水運からみる京都映画の誕生と秘話】シリーズ1

丹波の山地の良質な木材資源を筏に組んで京の都まで輸送した桂川(保津川)水運。

 

江戸時代に発展の一途をたどり、桂川下流の嵯峨・梅津・桂の三ヶ所の川浜(川湊)は

筏の揚陸地として栄えました。

 

その1300年も続く水運の歴史を辿ると、林業経済として消費産業としてだけではなく、

近代京都に生み出された「新しい文化」といえる「映画」産業の誕生期にも

深く関係していることがわかってきました。

 

しかしこれまで、水運に携わる「材木屋・問屋」や「筏士・浜仲仕」といった物資や人が、

映画という新たな産業へどのような形で関わっていったのを詳しく語られることはありませんでした。

 

というより、侠骨的な側面を持つこれら川人についてはあえて触れない傾向があったのです。

 

しかし、材木という物資を扱い、流通を担ってきた川人たちが映画産業の黎明期を下支えしたことは紛れもない事実であり、そこの構造がなければ京都に映像文化が根付くことはなかったとさえいえると思えます。

 

令和という新たな時代を迎え、少しその側面から見る京都映画史を綴ってみてもいいのではないか。

 

水運を継承し、今も川人として生きる者として、また京都映画の大成の地である北野西陣を故郷に

持つ者として、忘れ去られた映画発展の道を戻り、その道中に地面に落ちた数々の物語を

丁寧に拾い集めることで、とっておきの「京都の映画史」が綴れるのではないか?

 

その発露により、このシリーズを始めることにしました。

 

もし、とっておきの話をご存じの方はおられたら、ご教示もぜひお受けしたいと思います。