京都の保津川には1300年もの昔から今日まで生息している・いきものがいます。
それは河川の水運を担う「川人」です。
天平の時代に、奈良の平城京内に寺院を建立する時、なんと!
遠い丹波山地から建築用の木材を切り出し、保津川(桂川)を
筏に組んで流したのが、保津川の川人である「筏士」でした。
その後、都を今の京都へ移し、平安京を造営した時の建築用の材木も
この保津川の川人が筏を操り、運んできたのです!
川人の地元・保津村(現在の亀岡市保津町)では、
~川で働かんモンは男やない‼!
という土地柄で、男子は高等小学校を終えたらすぐに、身内の者に連れられ
地元の木材問屋に挨拶を行くのが掟でした。
そこで筏に同乗する先輩筏士に引き合わされ、乗り込み組が決められ、
次の日から操縦技術を厳しく叩き込まれます。
保津川の筏流しは冬の仕事です。
川の水が必要な農繁期の終わりを待ち、大量の木材丸太が筏に組まれ流れていったのです!
極寒の冷たい川の水で、手はかじかみ、足はしもやけだらけ・・・体もずぶ濡れになる過酷な仕事。
それでも地元経済の屋台骨を担う重要な仕事であることは間違くなく、「
集落の若い男衆にとっては花形の仕事で、競うように大勢の者が川へ出ていきました。
奈良時代から続いた保津川の川人たちは、後年豊臣秀吉から「筏流しの仕事にだけ専任してくれ!」
と「諸役免除」の朱印状が出され保護されるほど、重要な地位になっていました。
江戸時代から保津川下りの原型となる荷船も運航を開始し、筏士のほかに船頭という
新たな川人を加え、明治中期まで京都や畿内の木材需要を支え、
地域経済と木の文化を担ってきたのです。
河川水運が地域を経済を潤わせ、川人の生業を支えた時代。
世界に誇れる京都の発展と文化の振興の影には、
真冬の川に挑んだ、血気盛んな名もなき勇者・川人がいたことを、
私は日本人として忘れることはないでしょう。