京都市の北区に紫野という地域があります。

紫野は、奈良時代から朝廷や公家貴族の薬草園や狩地として知られ、

薬や染料に使用する貴重な紫草が自生していたその名の通り雅やかな地区でした。

 

また平安京に都が移された後も、製紙施設や大嘗会の「みそぎ場」となった重要な土地でしたが、

ここにはその対極ともいえるもう一つの地名がありました。

それが「蓮台野」です。

 

蓮台野は東の鳥辺野と並び死人の葬地として知られた地で、 死者が蓮台に乗って浄土へ行くと

信じられたことからその名がつけられたと伝わります。

 

平安京のメインストリートである「朱雀大路」の北延長上に位置することから、

いつしか朱雀大路の先は「現世」と「黄泉」の境界道とされ、死者の遺骸を運ぶ道となっていました。

 

江戸時代に出版された「山州名跡誌」によると、天慶2年(941)修験者の日蔵上人が修行中に急死し、

あの世で生前の罪で苦しむ醍醐天皇と出会い

 

「生前に左遷し無念の死を遂げた菅原道真を供養してほしい」

 

との願い事を託されました。

 

何とか生き返った日蔵上人は、天皇に言われた通り、蓮台野に続く道に

千本の卒塔婆を立てて道真公の霊を供養したのです。

 

 

卒塔婆は、もともと仏舎利をかたどった木の板で作られたもので、

今の墓地などに立てる細長い形ではなく、もっと幅のあるずんぐり形だったといい、

仏をに祈りをささげる目途でしたがいつしか死者供養する目途になったようです。

 

時代が進み、鎌倉時代に右京の水害や水はけの悪さが原因で疫病が流行り出すと、

都の中心は次第に今の京都御所がある東に移動し、旧大内裏へつながる朱雀大路は寂れ、

やがて千本の卒塔婆が立ち並ぶ、死者を送る道「千本通」へと呼び名を変えていくのです。

 

 

 

千本通から蓮台野への入口近くには本尊を閻魔大王とする「千本えんま堂引接寺」が建立され、

この世とあの世の境となる場所で、死者は閻魔大王の裁きを受けなければならない信じられました。

 

えんま堂が建つこの町内には、今でも閻魔町という町名が残っています。

 

また、この地は平安建都以前より疫神(えきしん)を祀る社があったといわれ、

平安京が造営された後も、疫病や災厄を鎮めるために御霊会(ごりょうえ)が行われました。

 

正歴5年(994)六月、当社地の疫神を二基の神輿を設けて船岡山に安置し、

悪疫退散を祈った紫野御霊会が行われた場所は今宮神社として祀られます。

 

 

今宮神社には阿呆賢さんと呼ばれる石があり、「神占石(かみうらいし)」とも「重軽石(おもかるいし)」とも呼ばれ、

病に苦しむ人が、この石に心を込めて病気平癒を祈り、軽く手で撫で身体の悪きところを摩れば、

健康の回復が早まるご利益があるといわれたり、また、手の平で三度石を打ち、持ち上げるに、

たいそう重くなり、再度願い事を込めて三度手の平で撫でて持ち上げた時、

石が軽くなれば願いが成就すると言い伝えられる不思議な石が祀ってあります。

 

気になる方はぜひ、試してみたください。

 

この地は元々、朝廷の禁御料地であり、歴代の天皇の御陵や火葬塚がある地なので、

どちらかといえば高貴な身分の人の埋葬地だと考えられます。

 

平安の昔は死体を燃やす薪は高価な貴重品で、たくさん薪を使用しなければならない

火葬は庶民には施されず、風葬地へ捨てていたので、

この地は他の野とは少し趣の異なる葬地であったと思われます。

 

 

私が生まれ育った衣笠は蓮台野からも近く、以前は蓮華谷という市の火葬場があったのも、

この地の伝統を継いでいたのかも知れませんね。