京都の夏におくるこのシリーズも10話目になり、いよいよ日本怨霊界でも
最凶といわれる崇徳上皇の登場です!
菅原道真、平将門と並び、日本三大怨霊として知られる崇徳上皇。
その中でも最強の大魔王にして、日本の精神世界史上にその名を轟かせているのが
大怨霊崇徳上皇だと私は確信しています。
崇徳上皇は元永2年(1119)鳥羽天皇の第一皇子として誕生します。
母は美貌で知られた藤原璋子(たまこ)ですが、実は彼は鳥羽天皇の実子ではなかったのです。
鳥羽天皇は妻の璋子を祖父である白河法皇に寝取られていて、生まれたのが崇徳だったのです。
実の父白河法皇は当時、強力な権力を持っていたので鶴の一声で、
5歳と幼い崇徳を天皇に即位させるために譲位させたのです。
即位した崇徳天皇ですが、白河法皇が崩御すると厳しい立場に追い込まれます。
屈辱の念を持つ鳥羽上皇は自ら院政を敷き復讐を始めたのです。
鳥羽上皇は崇徳天皇に「自らの跡目を継ぎ,上皇になり院政を敷いたらどうか」とすすめ、
鳥羽院は「引退する」と崇徳天皇に約束します。
譲位を決心した崇徳天皇ですが、鳥羽院は引退せず、
自らの実子である弟の後白河天皇を即位させたのです。
院政も敷けず、天皇にも戻れなくなった崇徳天皇。
その後、鳥羽院と後白河天皇に苛め抜かれて、
鳥羽院の崩御を機に決起します。これが世に知られる「保元の乱」です。
しかし、平家や源氏を味方につけた後白河天皇に敗れ、
崇徳院は讃岐(香川県)へ島流しにされてしまいます。
自らに責のない誕生の運命により理不尽極まりない父や弟の仕打ち。
心が蝕まれていく崇徳院でしたが、気をとり直し、流刑の地で大乗経を写経し
「都に帰ることが叶わぬなら、せめてこの写本を都の寺に納めてほしい」
と送りますが、朝廷はそれを突き返したのです。
まさに筆舌に尽くし難い生涯に絶望した崇徳院は、
髪毛も爪も切らず、生きながら死人のような様相となり
「我、日本の大魔王となり、皇を取って民となし民を皇となさん!」
と遺書をしたため、舌を噛み切って果てました・・・
崇徳院の葬儀は国司により簡単に行われましたが、朝廷は一切無視を決め込みました。
崇徳の遺体は白峰山で荼毘に付され埋葬されましたが、運ばれる途中に
空がにわかに暗くなり、雷鳴が轟き出し棺から血が流れ出しました。
すると、都にも異変が起こりはじめ、後白河天皇の近親者が相次いで死に、
さらに平安京が焼失、比叡山の僧兵の決起など不吉な出来事が多発しました。
都で異変は「崇徳院の祟りの仕業」と天皇家はその後、崇徳の怨霊を極度に
恐れるようになったのです。
そして鎌倉幕府が成立し、天皇家は実質的な権力を失うのです。
南北朝時代には室町幕府を開いた翌年の1339年に、四条河原の勧進田楽での
桟敷倒壊で多数の死亡者が出て、その翌日の大雨で川が洪水を起こし、
死体が流れていくという地獄の様な光景となる都。
実はその数日前、愛宕山に金色の鳶の姿をした崇徳院が現れ、
強い念を持った怨霊たちを集めて「怨霊サミット」を開き、
天下動乱の計画を練ったという噂が広がりました。
崇徳院の怨霊はいつの時代も、天皇家を脅かす最凶の存在として
その影に脅え続けることになったのです。
700年ぶりに国の実権を朝廷に取り戻した明治天皇は即位後すぐに、
崇徳院への詫び状を書き、讃岐へ勅使を遣わして崇徳院の怨霊を
京へお迎えし祀ります。そのお住み場として創建されたのが「白峯神宮」です。
また昭和天皇は崇徳院800年忌に香川県の崇徳陵で式年祭を執り行っておられます。
いずれも国家が危機に直面しているという共通点がありますが、崇徳院が皇室にとって、
どれだけ恐ろしく蔑ろしてしてはいけない存在だったのかが伺えます。
そして今も京都の闇をひっそりと見続けているのかも知れません