「ばけもののような船じゃ!」アジア諸国へ出港する角倉船をみた人々はみな、そう叫んだ。

文禄元年(1592)天下を統一した秀吉は室町時代から続けていた勘合貿易を再開させるべく
国内各地の商人に参画を呼びかけた。
この秀吉の要請に名乗りをあげたひとりが京都の豪商・角倉(吉田家)だった。

当時はスペインやポルトガル、オランダなど西欧諸国が世界に進出した大航海時代。
角倉家ほかに同郷の茶屋家や伏見家、堺の伊勢家、長崎の末吉家らも朱印状を手に入れ、
安南(ベトナム)やルソン(フィリピン)、タイなど東アジア貿易へ打って出た。

その中でも角倉船の豪華さは当代随一で、なんとオランダ船の倍、
中国船の4倍半という桁外れの巨大船。

全長36m、幅16mであり、乗船人員も約400人、交易品の積み荷に至っては800t以上も
詰め込める当時ではおそらく世界最大級の唐型貿易船だ。

マストを3本も備え、後部の高殿には日本人の船長とポルトガル人の航海士が乗り込み、
黒人の姿も見える。中国人、朝鮮人の商人も乗船客だ。

この船は単なる交易船というだけでなく、豪華客船として旅行者を乗せていたとも
いわれ、その利益も莫大なものだった。
了以は異国人でも「信」を持って接するべきという精神を貫いた。

その威風堂々たる姿は、日本人だけでなく、角倉船に乗り込む為に長崎に集まった
ポルトガル人やオランダ人、中国、朝鮮など外国人商人たちの度肝を抜いた。

「この船なら難破や海賊船の襲撃の心配も少ない。
今回の渡航に成功すれば、利益は計り知れない。」

「京都には凄い商人がいたものだ。」と口々に語り、
船主である角倉家という存在を強く印象づけた。

歌舞伎の「天竺徳兵衛」の場面でも、徳兵衛が角倉船に乗船する様子が描かれており、
角倉船の豪華さを伝えている。

主な輸出品は銀で、日本から年間に輸出される銀の総量は
世界の年間生産数の30~40%に上っていたという。
銀は交易に際しての主要通貨だったので、日本の商人はきわめて
有利な立場になったという。

ただ、角倉船の特異性はその規模や豪華さだけでなく、
その貿易システムを支える`精神’にあった。

次回は異国とのビジネスを展開するにあたり、角倉家も最も重点を置いた

商人の精神について紹介したい。