桃山から江戸時代へと移り変わる中、西国の大名や京都・堺・長崎などの商人が、幕府から与えられた朱印状を持って東南アジアなどへ大型の船を出して貿易を始めた。これを朱印船貿易という。

代々医師の家系で名医を父に持つ了以だが、生来、腕白で手に負えない子供だったことから、
父も医師にすることをあきらめ、もう一つの家業であった土倉業(金融、質屋・倉庫)を
継がせることにした。了以自身も真面目で堅苦しい父を避けて、医学よりも土倉業に

専念した。その時初めて、屋号「角倉」を名乗ったのだった。

しかし、父の影響を全く避けていたか?といえばそうではなく、父・宗桂が明に留学で渡航した際に

持ち帰った交易品を売りさばく事業を了以が請け負うという関係だった。
宗桂が乗り込んだ船は、策彦周良(さくげんしゅうりょう)が仕切る嵯峨の天龍寺が仕立てた船で、

渡航費や積荷の交易品は角倉一族で受け持っていたというから、了以たち角倉家の貿易事業は

もう、その頃から始まっていたといってもいい。

そして正式に角倉船を仕立て貿易事業に乗り出したのは、文禄元年・豊臣秀吉の許可を得て始まった。
船は長崎から出航するのが常で、冬の北風を活かし安南(ベトナム)やカンボジア、ルソン(フィリピン、)シャム(タイ)などアジア諸国をめざし、翌年の春から夏にかけて南風を受け帰国するコースだ。

朱印船の船体は白色で、長さ20間(約36m)、横幅9間(約16m)で帆は舳先から4枚設置され、
最高乗船人数は397人との記録もあり、推定トン数で700トンという
当時では最大級の規模の船だったといわれている。(天竺徳兵衞物語)

輸出品は銀や銅、硫黄などのほか絹織物、刃物、甲冑、屏風などの工芸品で、
輸入品は薬の原料や漆、生糸、象牙、絨毯、鹿皮など。
輸入品だけで諸経費を引いても10割の利益があった(オランダ商館日記)というからまさにドル箱船だ。

乗船者は日本人だけではなく、中国や朝鮮の商人も乗り込み、船員も操縦技術に優れていたポルトガルやスペインなどのヨーロッパ人を先頭に、黒人やインド人などの航海経験豊かな外国人を多数雇用しており、まさに国際色豊かな日本籍の船だった。

この国際色豊かな交易船事業を相互の国々がともに益する為の仕組むとして

「舟中規約」という理念と規則を掲げ、貿易を実践した。この規約については、あらためて紹介したい。
とにかく了以は時代を先取り、すでに国際化を果たしていた。その先見性には感服しかない。

そして、当時の角倉朱印船の姿を詳しく教えてくれるものに、清水寺に奉納されている絵馬がある。
この絵馬は角倉了以の子・素庵が江戸時代・寛永11年(1634)に、渡航安全に感謝して角倉船を描いた絵馬を奉納したもの。国の重要文化財として、今も京都の清水寺の賽蔵殿に収蔵されている。

ちなみに清水寺と角倉家のつながりは深く、江戸時代に荒廃していた同寺を
三代将軍・家光が再興を決意、その経済的援助を角倉家などの豪商に依頼して
当時の建物をそのまま造立させた。
歴史家の奈良本辰也氏は「清水寺の桃山風の雅な建築は、御朱印船による海外貿易で、
はるか遠くのジャワやマラッカのあたりまで船を出し、外国人との接触で自覚した「日本」を意識することになる彼ら豪商の、新時代を担う気概が、桃山のおおらかで、しかも優雅な世界をつくりあげたものだ」と著書で述べており、京都を象徴する世界遺産・清水寺建築に、角倉など豪商たちの影響力が相当あったことを強調している。

海という国境を越えた世界に身を置いた角倉了以は、国に先駆け、国際化を進め、
その利益を、外国人との接触の中で認識した「日本人として自覚」の上から
清水寺など仏閣の再興に還元し、今の京都の風景や文化を構築するのに
大きく寄与した人物なのだ!

この偉大な日本人にして、実業家だった角倉了以が創業した、もう一つの事業であり文化が
私たちの保津川下りであるということは、この上ない誇りである。