角倉了以は息子素庵とともに地元嵯峨を流れる保津川(桂川)の開削計画を立案し、
保津峡という激流が岩を噛む自然の要害に保津川下りの原型である川船の通行に
成功した。今から415年前(2021年現在)の慶長11年(1606)の8月だった。
それまでにも東アジア(ベトナム)まで朱印船貿易事業を行っていた了以だったが、
海外貿易とは一回の渡航で巨額の富が手に入るという点では
魅力的な事業ではあったが、難破や海賊船からの襲撃などリスクも高い事業だった。
所謂、半博打的な要素のある事業であり、一攫千金は手に入るが、安定的なものではなかった
その事業形態に満足するのではなく、子々孫々まで安定的に収入を生む商売の仕組みを模索していたところが、了以が同じ時代の他の豪商たちと大きく異なる視点だった。
そして了以が、利益は薄くても長期的に安定した収益があがる事業として目を付けたのが
生まれ育った京都の嵯峨を流れる保津川(桂川)だった。
ここで保津川という川の名称が流域によって異なることに触れておこう。
桂川は今の統一名称だが、当時では保津川は、嵯峨辺りでは「大堰川」と呼ばれていた。
保津川とは丹波亀山(現在の「亀岡市)から嵐山までの保津峡の間を保津川と呼んだ。
さて、その保津川だが、水運の歴史は古く、天平6年(762)法華寺阿弥陀浄土院・金堂造営の用材で丹波材を使用したと「正倉院文書」に記されている。また、延暦3年(784)の長岡京遷都の造営時に
活発化し、奥地の京北黒田(現在の京都市右京区京北)から山国庄(南丹市日吉)から保津(現在の亀岡市保津)などを経由して嵐山まで筏に組まれた材木が流下と記録されている。
この筏流しの有効性を見抜いた桓武天皇は延暦13年(794)二度目の遷都事業となった
平安京の造営時に、さらに数が増やされ都建築の用材を供給する重要な水運として
新都‘京都’の形成に大いに寄与した。
嵯峨に住まいをしていた了以は、ひっきりなしに上流から流れてくる筏を見て育っており、
その有効性は当然知っていたことは想像に易く、おそらく彼のビジネスセンスなら、この川を
使用した物資輸送の重要性を熟知しており、以前から目を付けていたと思われる。
その了以の思いが事業イメージとして現れたのは、朱印船の港を視察した帰りに寄った
岡山県北部(美作国)を流れる和気川(現吉井川の支流)を行き来する
高瀬舟を見たことによるといわれている。
嵐山の中腹に建つ角倉了以のゆかりの大悲閣・千光寺にある林羅山(蘭学者)
が書いた「吉田(角倉の本姓)了以碑銘には、「凡そ百川、皆以て舟を通すべし」と
保津川へ舟を通す決意が詳しく記録されている。
時代は桃山から江戸へと移り、幕府は日本全国に藩制を敷いた。
諸藩の領地から出る年貢米の輸送た丹波地域の豊富な木材や薪炭
商人米や野菜など産物の流通が活発化することを見越していたのだ。
これらの産物を効率よく畿内各地へ運ぶには、丹波から京都へ向かって流れている保津川に
舟を流すのが最適であり、そうすれば京都をはじめ畿内と丹波の双方の利益となる。
ビジネスモデルを思い立つと行動するのも早いのが、いつの時代もできるビジネスマンの条件だ。
了以は早速、川の実施調査を実施し事業化可能の確信を深め、息子素庵を徳川家康がいる江戸に遣わし、流通の新航路整備の効果を説いた。そして幕府より
「古より未だ船を通せざるところ、今開通せんと欲す。これ二国(山城・丹波)の幸いなり」
という開削許可を得たのだった。
保津川の開削は慶長11年(1606)の春とされ、8月までの約5ヶ月で
完成させるという当時では最も早い工程で仕上げた。
とはいえ、保津川が流れる保津峡という渓谷は、巨岩が奇岩がむき出しと
なる狭くて流れが渦巻く複雑な河川形状で、筏流しでも度々事故をする‘自然の要害’と
いわれた場所だ。舟を通すのは容易ではない形状をしている。
先の碑文によれば「大石あるところは轆轤(ろくろ)索を以て之を牽(ひ)き、石の水面に
出づるときは則ち烈火にて焼砕す。瀑(たき)の有る所は其上をうがって準平にす」と
記してあり、大石を大勢の人で引き動かし、水面に出て航行の邪魔になる石は焼き砕く
などの難工事を各箇所で施した。
そんな複雑で難しい河川開削工事を繰り返しながら、僅か5ヶ月で丹波から嵐山までの
舟の航路を開き、物資輸送の舟運を整備した技術は、当時の土木技術では最先端のもの
であり、日本土木史に燦然と輝く画期的な工事だったことは間違い。
この自然の要害・保津川の開削工事の成功は幕府をも驚かせ、角倉一族の土木技術の
高さを見込み、その後、駿河の富士川や岐阜の天竜川の開削工事を依頼したのだった。
富士川の規模は河川幅の大きさも流れ勢いも保津川以上あり、かなりの難工事だったが
慶長13年(1608)に完成させ舟運を開いている。
この富士川開削の成功には、家康自らが現地に視察いくほど期待度の高い事業だった。
また、慶長16年(1611)了以は京都の洛中に鴨川の水を引いた人工運河として
高瀬川の開削工事に着手し、3年後の慶長19年(1614)に京都二条から伏見の港
まで工事を完成させている。
高瀬川開削と舟運開通により、洛中のど真ん中の京都二条から、河川港日本最大の伏見港へつなぎ、そこから淀川を経由して大坂までの畿内最大の舟運ルートを成立させたのだ!
これがどれだけ画期的なことであったか!強調しても強調し過ぎることはないだろう。
丹波から生活基盤となる物資が京の都へと運ばれ、都市機能整備の需要材の調達を容易にし
都の景気、物価の安定を支えた。さらに天下の台所・経済の中心地大坂をつなぐことで、
西廻り、東廻りの海運や長崎から伝わる西欧の最先端技術や異国文化の導入可能な河川流通を
整備したことは、丹波経済圏―京都経済圏―大坂経済圏を舟運で結ぶ物資流通ルートを京都が手に入れたたいうことだ。
京都は恩恵を受けることで、政治の中心が江戸に移り、経済の中心が海の港を持つ天下の台所・大坂へ移ったことで、地盤沈下が杞憂された当時の京都も衰退することなく、文化都市として発展していくことができたのだ。その礎を角倉家はまさに、近世京都を救った恩人に違いない。
多くの京都人がこの了以たちの事業価値をあまりご存じないのは残念なことだが・・・
角倉了以とその子素庵は朱印船貿易の大商人であり、国内では河川開削の技術集団を
組織し、舟運を開き利益を得るという手法を編み出した初の事業家で、日本産業経済史
の流れからみても極めて重要な人物であることは間違いない。
海外貿易と河川開削による舟運事業という先見性、事業の合理性と計画性の高さ、
そして何より冒険心と志に裏付けられた意志の高さと強さ、スケールの大きさは
現在の企業家たちにも多くのヒントを与えてくれるのではないか。
現在社会でいえば大手商社と大手ゼネコンを兼ね備える財閥や総合企業グループ
の総帥と呼べるのが角倉了以・素庵親子なのだ。
角倉家は、3代将軍・家光の鎖国政策により朱印船貿易が禁止された後も
保津川を通行する舟からの通行料を徴収することで、明治時代まで継続性
のある経済的利潤を確保することに成功し、水利長者として栄えた。
この稀代の実業家に創設され、現在も当時の姿を変えることなく現存している保津川下り。
この川にはハード面でもソフト面でも、世界文化遺産にも匹敵する要素が詰まっていると
私自身は確信している。皆様はどう感じられるだろうか?