以前、京都に奈良の大仏さまを超える巨大な大仏があったことは
書きましたが、大仏殿があったこの場所こそ、日本の歴史が大きく動く
きっかけとなった事件が起こった「方広寺」の梵鐘がある場所です。
その事件は天下人・豊臣秀吉の死後、三回目の大仏さまが完成した
慶長19年(1614)の大仏落慶供養の時に起こりました。
大仏さん完成からさかのぼること7ヶ月前、この方広寺の梵鐘も建立されました。
秀吉の子、豊臣秀頼はこの梵鐘の表面に「国家安康・君子豊楽」と刻みました。
これを見た徳川家康は、烈火のごとく激怒しました!
家康の怒りの理由は、鐘の梵字に書かれた「国家安康・・」という文字にありました。
家康は「この梵字は、家康という名前の間にわざと安という字を入れ、引き離している。」
「これは我が家康を無き者にしようと願う、念の証拠!」と
いいがかりを付け、落慶法要すら中止にしてしまったのです!
何と、無茶な言いがかりでしょう!!
関が原の合戦で勝利して以来、虎視眈々と天下を狙っていた家康にとって、
日本一の金持ち大名・豊臣家の存在は目障りであった事は想像に難くないでしょう。
何か口実があれば、豊臣に喧嘩を売り、葬っておきたかったに違いありません。
家康がこの梵鐘の銘文を見たときの小躍りして喜んだ姿が目に浮かぶようです。
そもそも、この大仏さんも建立自体、豊臣家の私財を削減さす狙いから、
家康本人が秀頼と淀君に再建を進めたといわれています。
家康の老獪な陰謀に、時勢を読むのが甘いぼんぼんの秀頼では太刀打ち出来なかったのでしょう。
この事件を境に、慶長19年(1614)10月に「大坂冬の陣」と翌年5月には「大坂夏の陣」が起こり、
秀吉一代で築いた豊臣家は滅亡の道へと向かいます。
豊臣家の滅亡により、徳川幕府の基盤は磐石のものとなり
その後、約300年近くも日本国を統治していくことになるのです。
時代は伏見桃山時代から江戸時代へ。
時代を動かしたこの梵鐘は、今も方広寺の境内に静かに佇んでいます。
*写真が方広寺の梵鐘です。