大仏といえば奈良の大仏さんや鎌倉の大仏さんが有名ですが、
京都にもそれらを凌ぐ大仏さんがおられたことをご存じでしょうか?
時は天正14年(1586)関白・豊臣秀吉は奈良東大寺の大仏にならい京都・六波羅の地に大仏の建立を計画し、9年後の文禄4年(1595)に大仏殿が完成、高さ18mの木製金漆塗りの大仏坐像が安置されました。
しかし、不運にも翌年文禄5年閏7月13日(1596)9月5日に発生した慶長伏見大地震により大仏は大破してしまいます。
これが京都の大仏さんの長い不運のはじまりでした。
それから13年後の慶長14年、徳川家康は秀吉の子・秀頼に太閤秀吉公の供養として、秀吉の悲願だった京都の大仏再興を進言します。これには幕府の基盤を確固なもととしたい家康が、日本最大の大名となった豊臣家の資産を吐き出させる思惑があったといわれていますが、狡猾で口の上手い家康の進言に乗ってしまった秀頼は大仏の再建計画に着手していきます。
その際、多くの巨木や土台となる礎石など建築材料を六波羅の方広寺に集める必要性があることから、保津川開削に成功した角倉了以に白羽の矢が立ち、資材運搬を請け負うようにと幕府から呼び出され命令が下されました。
了以は建築現場近くを流れる鴨川に目を付け、河川利用の許可を幕府に求め許可を受けます。素早く鴨川本流の開疏工事に着手、舟運航路整備を施し巨木や石などの資材物を現場荷揚げまで運ぶことに成功しました。
了以の流通整備の成功により再建建築工事も順調に進み、慶長17年(1612)に大仏は完成したのでした。
しかし、水量が安定しない鴨川は水運航路として不向きであることを見抜いた了以は、その後、鴨川水道整備を続けることはなく、その鴨川の水を取り込み、鴨川に平行するように運河を開削する計画を思いつきました。それが「高瀬川運河計画」のはじまりとなったのでした。
秀吉の悲願だった京都の大仏でしたが、寛政10年(1798)に落雷を受け炎上し、まるで豊臣家滅亡を象徴するように焼け落ちていきました。
京都の大仏は、江戸後期の天保年間に再び復興されましたが、昭和48年(1973年)に失火によりまたしても焼失し、その後は再興されていません。
なんとも不運な京都の大仏建立ものがたりですが、秀吉、秀頼、家康といった歴史を彩る人物の思惑が交差した京都の大仏計画に、角倉了以も関わり、再興事業に端を発した高瀬川運河計画が、近世京都の流通に革命を起こし、上方経済圏を潤すことになったのです。