京都有数の歓楽街・木屋町。

その真ん中を流れる小さな川が高瀬川です。

鴨川に架かる二条大橋南で鴨川西岸を併走して流れる「みそぎ川」から水を取り込み、木屋町二条を起点とし京都・伏見までを流れる人工河川であり運河跡です。

高瀬川を開削したのは保津川下りの生みの親・角倉了以。

同じ木屋町二条を下がった所に建つ、現在は高瀬川二条苑・がんこ寿司のお料理屋さんが角倉了以邸跡で「樋の口屋敷」とよばれ、その向かいにある島津製作所創業記念館から日本銀行・京都支店の一帯が敷地跡です。

角倉家はこのお屋敷で水運業務を執り行い、高瀬川水運の使用料を徴収する経営管理を行っていたのです。

 

東海道五十三次の終着地であった京都三条大橋西詰の北側二条を高瀬川の起点とし、

伏見から淀川を経て、海の輸送航路とを結ぶ画期的な物流改革に成功しました。

高瀬川には船を着岸させ陸揚げする為の「舟入」」が整備され

「一ノ舟入」から「二ノ舟入」「三ノ舟入」・・・と川筋と東西の通りが

接続する箇所・九か所に造られていました。どの舟入も、通りに面して、

川から直角に突き出す形で水を引き込み人工の浜を整備したのです。

また、四条通りから六条通りまでの間には船の方向転換をする「船廻」と

七条には「内浜(うちはま)」とよばれる船溜まりも造られていましたが、

現在では木屋町二条の「一ノ舟入」のみが現存し、

その他はすべて埋め立てられています。

また高瀬川の両側には、当時の船頭(曳子)が、

高瀬舟に荷を乗せて綱で曳いて上がった

細い道「曳舟道」の跡がそのまま残っています。

石造りで敷き詰められた曳舟道跡を見る時、

当時の船頭たちの活気と苦労が生々しく伝わってきます。

京都のど真ん中、洛中から北南へ流れる「高瀬川」。

舟の往来は大正9年(1920)に姿を消しましたが、川の流れは今も絶えることなく、

一ノ舟入や曳舟道といった史跡もひっそりと当時の面影を残しています。

高瀬川は近世京都の交通物流改革の貴重な遺産ですが、

単なる歴史的・文化的な遺産ではなく、京都の社会構造の歴史的な変遷を今に伝える

生きた産業遺産でありモニュメントだと思えるのです。