京都保津峡の流通史をみる時、筏流しを進めた桓武天皇、船運を開いた角倉了以に加えて、
近代文明の象徴である鉄道を敷設した田中源太郎を忘れる訳にはまいりません。
JR(国鉄)山陰本線と嵯峨野トロッコ列車の生みの親であり、近代期における京都政財界の大御所だった方で、地元亀岡が生んだ実業家です。
衆議院議員として、第一回帝国議会が開かれた明治23年。
新年度予算をめぐり紛糾し、第一回の国会開会で解散という恥ずべき事態になりかけた時、自らソロバンを取り出し折衷予算書を作成し、国会解散を救ったという経済人ならではの逸話もあります。
財界で35年、政界で31年。まさに生涯を実業と政治でまっとうした人物で、創設また関係した会社は銀行などをあわせ約30社という大実業家でした。
その中でも、特に力を注いだ事業が近代技術の象徴である「鉄道」で、後の国鉄山陰本線(JR山陰本線)の前身となる「京都鉄道株式会社」を設立。自然の要害であった大峡谷・保津峡に、明治初期の技術と巨額の資本を投入するという不退転の決意と実行力で果敢に挑み、保津峡区間も含む京都~園部間を鉄道開通に成功されました。
平成の世になり、保津峡区間は廃線となりましたが、その産業遺産は嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車として復活し、今も国内外から訪れる大勢の観光客に愛されています。
源太郎氏の鉄道開発への思いは、後に京都市電となる「京都電気鉄道株式会社」や京阪電気鉄道の創設にも注がれ、京都の近代化へ尽力されるのです。
大正11年4月、自らが敷設した京都鉄道の保津峡鉄橋での脱線事故で転落し、69歳の生涯を閉じるという悲劇の終幕でしたが、田中源太郎が残した遺産は、嵯峨野トロッコ列車をはじめ、関西電力や西陣織物、京都銀行様々な企業体として継承され、現在も京都経済を支えています。
自然の要害である保津峡に、当時の最先端の技術と資本を投入し、国や地域の発展に力を尽くした先人たちの足跡。
ぜひ、その熱き鼓動に思いを馳せながら、保津峡を訪れてみてはいかがでしょうか?