1606年、保津川を開削し京都と丹波の間に舟運航路を開いた角倉了以は、

1614年に高瀬川の開削にも成功し、京都の洛中二条と伏見を結ぶ舟運航路を開通させ

物流の大動脈を築きました。

この舟運開通は、保津川が流れる京都の背後地・丹波の経済圏と京都洛中の経済圏、

さらに伏見の港をハブとし、瀬戸内海水路を含む大坂経済圏と

琵琶湖水運の日本海経済圏までも網羅する畿内ネッワーク化を可能した物流革命でした。

 

この物流革命は、政治の中心が江戸へ、経済の中心が大坂に移った

近世京都の衰退危機を救う、経済機能改造を目指す一大プロジェクトだったのです。

了以が着手した河川を活用した物流革命の成功が、

海の港がない首都・京都に果たした恩恵は計り知れません。

 

米や野菜等の食糧をはじめ、薪や炭などの火力燃料となる生活必需品の

安定供給を維持させ物価安定に寄与するとともに、

海外の最先端技術や文化面においても高水準に保つことができ、

江戸期の京都は日本文化の中心として、地方各地に影響を与え続け、

江戸、大坂と並び3大都市として発展しました。

 

海港のない首都・近世京都に河川舟運と川湊で物流ネットワークを構築し、

経済の活性化を実現した了以の卓越したビジネスモデルは

近代化へむかう京都の礎を築いたのでした