唐突に、孤独と自由が欲しくなった。一人で遠くへ行くことにした。
やって来たのは、メキシコ中部の小さな街タスコである。首都メキシコ・シティから南へ約百六十キロ。人口約二十万人。昔は銀山で栄えたという。
バスを降りると、南国の五月の太陽は西に傾いて、山の彼方に沈もうとしている。銀鉱石の黒ずんだ石畳には、行き交う人びとの影法師がゆっくりと流れ、低い白壁は茜色に染まっていた。少年を乗せたロバの蹄がカツカツと響く。インディオの女性が豊かな乳房を赤ん坊に含ませながら、椰子の葉で編んだ手提袋を道端に並べて売っている。
どことなく気だるく、まるで町のすべての時計が止まっているようだ。
銀細工の店先には、ペチュニアの花が赤くかがり火のように燃えている。狭い通りが尽きると小さな広場に出た。中央には緑濃い木が数本、ベンチに長い影を投げかけている。腰を下ろし、空を見上げた。向かいの古びた教会から低い家並みを突き抜けるように、二本の鐘楼が高くたかく夕暮れの空に伸びている。
すべては斜陽の中にあった。カンバスに絵筆を走らせる少女、袋を提げたもの乞い、手持ちぶさたな靴磨きの老夫。そしてベンチに座った男たちは、目の前を通る人びとを眺めながら、いつまでも動こうとしない。いつの間にか私もその風景のひとこまとなっていた。と突然、
「Are you Jpanese ?」
隣に座っていた老人が話しかけてきた。ヤングコーンのような口ひげをはやし、白い背広に白い靴、ブルーのネクタイにブルーのズボン、どことなく粋で気さくな雰囲気が漂う。
「日本って、とても良いところだってね」
「まあね。ところで貴方はこの街の人でしょ」
「うん。でもシカゴで四十年暮らしていたよ」
彼は長い外国生活の末、今は生まれ故郷のこの町に戻って静かに暮らしている。毎日昼間はこの広場で過ごし、夕食になるころ奥さんが迎えに来てむつまじく帰ると言う。
六時、教会の鐘が鳴ると広場の光が急に弱よわしく色あせて、セピア色に移り変わった。美事なバロック建築で知られる教会が、夜のとばりに消えて行く。私は広場をあとに足をホテルへ向けた。
こじんまりとしたホテルは、その昔スペイン貴族の屋敷だったとか。狭いロビーを抜けて庭に出ると、夕闇にハイビスカスの赤とブーゲンビリアの紫が仄かに浮かんでいた。
その夜、ホテルの中庭のこじんまりとしたレストランで遅い食事をとった。ほかに客は一組だけ。白人の女性と、インディオの混血、メスチーソの若者が額を寄せ合っていた。小さなステージで、数人のバンドマンが「コンドルは飛んで行く」を演奏をしている。
バンドマスターは偶然にも昼間広場で会った老人だった。薄暗いシャンデリアの灯なのに私を目敏く見つけて手を挙げた。ラテンの静かな調べにつれて、そこはかとない旅愁が蝋燭の灯とともにかすかに揺れる。やがてバンドの交代時間がくると、彼はそばにやって来て、
「今度は奥さんと一緒に来なさいよ」
と別れの握手をして消えた。
テキーラの酔いがほんのり身を包むころ、山の彼方に稲妻がひらめいた。雨期がもうそこまできているようだ。
やって来たのは、メキシコ中部の小さな街タスコである。首都メキシコ・シティから南へ約百六十キロ。人口約二十万人。昔は銀山で栄えたという。
バスを降りると、南国の五月の太陽は西に傾いて、山の彼方に沈もうとしている。銀鉱石の黒ずんだ石畳には、行き交う人びとの影法師がゆっくりと流れ、低い白壁は茜色に染まっていた。少年を乗せたロバの蹄がカツカツと響く。インディオの女性が豊かな乳房を赤ん坊に含ませながら、椰子の葉で編んだ手提袋を道端に並べて売っている。
どことなく気だるく、まるで町のすべての時計が止まっているようだ。
銀細工の店先には、ペチュニアの花が赤くかがり火のように燃えている。狭い通りが尽きると小さな広場に出た。中央には緑濃い木が数本、ベンチに長い影を投げかけている。腰を下ろし、空を見上げた。向かいの古びた教会から低い家並みを突き抜けるように、二本の鐘楼が高くたかく夕暮れの空に伸びている。
すべては斜陽の中にあった。カンバスに絵筆を走らせる少女、袋を提げたもの乞い、手持ちぶさたな靴磨きの老夫。そしてベンチに座った男たちは、目の前を通る人びとを眺めながら、いつまでも動こうとしない。いつの間にか私もその風景のひとこまとなっていた。と突然、
「Are you Jpanese ?」
隣に座っていた老人が話しかけてきた。ヤングコーンのような口ひげをはやし、白い背広に白い靴、ブルーのネクタイにブルーのズボン、どことなく粋で気さくな雰囲気が漂う。
「日本って、とても良いところだってね」
「まあね。ところで貴方はこの街の人でしょ」
「うん。でもシカゴで四十年暮らしていたよ」
彼は長い外国生活の末、今は生まれ故郷のこの町に戻って静かに暮らしている。毎日昼間はこの広場で過ごし、夕食になるころ奥さんが迎えに来てむつまじく帰ると言う。
六時、教会の鐘が鳴ると広場の光が急に弱よわしく色あせて、セピア色に移り変わった。美事なバロック建築で知られる教会が、夜のとばりに消えて行く。私は広場をあとに足をホテルへ向けた。
こじんまりとしたホテルは、その昔スペイン貴族の屋敷だったとか。狭いロビーを抜けて庭に出ると、夕闇にハイビスカスの赤とブーゲンビリアの紫が仄かに浮かんでいた。
その夜、ホテルの中庭のこじんまりとしたレストランで遅い食事をとった。ほかに客は一組だけ。白人の女性と、インディオの混血、メスチーソの若者が額を寄せ合っていた。小さなステージで、数人のバンドマンが「コンドルは飛んで行く」を演奏をしている。
バンドマスターは偶然にも昼間広場で会った老人だった。薄暗いシャンデリアの灯なのに私を目敏く見つけて手を挙げた。ラテンの静かな調べにつれて、そこはかとない旅愁が蝋燭の灯とともにかすかに揺れる。やがてバンドの交代時間がくると、彼はそばにやって来て、
「今度は奥さんと一緒に来なさいよ」
と別れの握手をして消えた。
テキーラの酔いがほんのり身を包むころ、山の彼方に稲妻がひらめいた。雨期がもうそこまできているようだ。