女はいつも光輝いている。自由は更に輝かす。そんな映画。 | まりのブログ

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性同一性障害者の私が、思いのままに生きるために頑張って生きてます。
性別適合手術をしてから2年になりました。
私はトランスジェンダーとして誇りを持って生きてます

日付が分からない...
と言うか、瞬く間に日が過ぎていく。
9日から12日まではコミックマーケットが催されました。
一応、自称コスプレイヤーなので、行きたかったけれど、気付けば始まっていました。
病院にWi-fiが入っているので、ポケモンGoを始めたので、ビッグサイト行ってみたかった...(*^^*ゞナニガイタヤラ
逸る気持ちを表しております。

今日も母の付き添い看病の一日です。
体も慣れてきたのか、疲れてダウンなんてことは無くなりました。膝も良好。
ですが。そんな時に購入した、世界一期待していた「フィフティ・シェイズ・フリード」の4Kブルーレイが...到着しません!ヤマト便の追跡サイトには配達完了になってる~。行方不明になりそうです。
...弱り目に祟り目です...(*T^T)。
と思ったら、届きました。ヤマト便、暑さで呆けたわね。怖かったよ~。


なので?...映画...観ました。
「カリーナ、恋人の妹」。ロシア映画です。
サーシャは心を病むほど、囚われていた。
それは友の死。
サーシャはピートと自棄っぱちのようにクラブに繰り出し、アーティストのバシリスクに誘われるまま彼の工房に赴き、ピートは性に乱れた。しかし、サーシャは何も出来なかった。
翌朝、ピートは酸を口に含んだ。そう、ピートも心を囚われていたのだ。
ピートは回復後もバシリスクの工房に入り浸り、サーシャは恋人ヴィカの妹、カリーナと知り合う。
ロシア版。アメリカ版もこの画を使ってます。サーシャでは無くピートがメインなんですよね。現題の意味は分かりませんが、英語題は「Acid」"酸"なんですね。ピートが使う以上にも、考えると奥深い。
日本だとこうなります。海外版が好きではないのでこちらの方がまだ好きですが、何だか内容と違います。エロス売りしたかったんでしょうね...

映像は繊細で、男女が体を絡めるシーンの美しさと言ったら、はっとさせられるほど目を惹き付けます。
性とは時に醜いものと考えられがちだけど、この作中では、表わしようの無い美しさ...としか言えないくらい視覚に訴えます。美しいは語弊かもしれない。あまりに生命力に満ちていて、その波打つように繰り返される体の動きは生々しく、脈動のようであり、無数の人たる人そのものに彩られた...熱そのものだ。
またカリーナを迎えに行くシーン。そこはバレエカンパニーなのでバレエが披露される。ゆったりと肉体の極限を垣間見るその麗しさと言ったら、目が離せなくなるほど。
しかしカリーナは体が小さい。スタイルも細身で麗しいけれど、他のバレリーナに比べたら落ちている。ああ、見せられるのはスタントかな?と思った矢先、私達の知らないほどの柔軟で器用な床体操?を見せられる。
サーシャは「忍者みたいだ」と言う。まさにである。
引き画を挟みながらカットを紡ぐので、どれだけカリーナ役の子の才なのかは分かりませんが、バレエの動きを始める際のまごうことない彼女の所作は、並々ならぬ美しさでした。
マンションの屋上に行き、排気ダクトか何かの間を抜け、ロシアの街が見えてくる...そしてカリーナは手摺に飛び乗り、ひょいひょいと歩き、片足立ちをする。それを1カットで見せる。大したカットでは無いが、私達はカリーナが命綱も着けず危険な行為をしていることに、自然と危険な香りを受けとるのだ。それは、衝動に似ている。始めて男に抱かれる時、頭を巡らせるだろう。人生の始まりだが、同時に終わるものもある。その焦りと不安は、確かに断崖の突端に立つ恐れなのだ。
そう。だから人は恐怖を感じると求めたくなるのだ。あの身を強張らせて吐き出した、恐怖に震える感覚が、至福と開放、そして快感と解放に、心と体の髄まで痺れさせることを覚えているから。
カリーナは15歳。その話っぷりは幼くも無軌道だ。予測不能で、かつシンプル。それは年の差が有るわけではないサーシャにも新鮮だった。
まあ、そのカリーナはぶすっとして化粧気も無く、決して一見の美人ではない。しかし、ふとした際の可愛らしさは煌めいている。サーシャを茶化した時や、ヘッドホンを付けてちょこんと座っている時...じっと見つめる瞳...
カリーナはサーシャと体を交わす。しかし、いざと言う時、下着を剥がされるのを躊躇う。強く。しかし、その手は放れる...
幼い愛は幼い。カリーナは「愛してる」と口にする。サーシャも「俺も」と言うが、ふたりの想いは確実にズレている。カリーナの「本当に?」にはサーシャは答えなかった。
友人の死は衝撃的に描かれます。一瞬、冗談?と思うような突然で呆気ない。それはサーシャにも同じでした。
彼は割礼を理由に、周囲を遠ざけている。比べてピートは亡き友の親の嘆く姿に「あんたは何を知ってる?!好きな音楽、好きな女を知っているか?!」と怒鳴り付け、「俺は気にしない」とばかりに揚々と振る舞って見せる。クラブに女に派手に行く。
しかし、彼は酸を口に含む。もしかしたら、ピアノの天才が途端に指を折りたくなる衝動に似ているかと思います。
彼の憤りは性交でも、自傷でも晴れなかった。
彼等は思い知る。どれだけ大人ぶっても、自分たちはまだ子供。しかし確実に背負わされている責任はあまりに重い...
映画は両親、そして親子のドラマも兼ねて、様々な人の繋がりを描いています。そして、この作品の真意は、だからこその子供たちの閉塞感だ。
無敵だと思っていた。しかし、どんなに自分を見出だせたとしても、結局は親たちの決めた決まり事やルールの上の足掻きでしかない。ユダヤ人は割礼をしなくてはならず、親には親と言うだけで敵わず、親たちの決めたルールの下にささやかな想いも果たせない。
全て親たちの決めたこと。しかし、彼等は確実に社会へ放り出され、その責任を自ら背負わなければならない。
ピートは言う。「俺達の問題は問題がないことだ。何もかも用意されてる。だから自分が何者で何が出来るかを考えてばかりいる。結局出来るのはスマホの充電くらいなのに...」
彼等の無力感は自身をじわじわと蝕み、身動き出来ないとこぼす戸惑いと嘆きは、非常に身につまされます。
終盤は、こう語る。無理をするな。幼き時を思い出し、もう少し子供でいればいいと。
そしてサーシャは愚かな事をする。子供のように。
しかし、彼はもう大人でもある。悩み、焦り、恐れ、彼は間違いを止める。
現実に向き合う時が来た。どんなに辛いことが有っても、そこには何処までも続く人生と言う道しかない。
サーシャは道を前にし、まだ幼すぎるその心を抱えたまま、ただ心に溢れる涙に濡れていた...

逸品では有りませんが、素晴らしい青春映画でした。
生きる重責と言うものは、歳に関係無く重くのし掛かるもの。誰もが一度は経験したろう。早すぎる思春期の終わりに、追い詰められるように向き合わなくてはならなくなった若者の苦悩は、やはり、胸に来ます。

カリーナ役のアリナ・シェフツォヴァの肋骨の浮き上がる細い肢体はあまりに繊細で壊れそうで愛らしかった。
ロシアではソチ・オープン・ロシア映画祭で26歳の若手監督アレクサンドル・ゴーリチンが新人賞を獲得したそうです。
分かる。それくらい好きな映画です。


そして「快楽を貪る本能」。カナダ映画です。
女性教授マリークレール。夫と子ふたりとの安泰な生活を送る中、彼女はある研究に囚われていた。
それは性的刺激による皮膚の変化。
マリークレールは夫との理解の上で他人との性関係に身を委ね、そして研究のサンプルを集める。
しかし...
フランス語圏のカナダ映画は繊細で奥深い映画が多い気がします。中でも性と心を描いた作品は特に巧みに描かれたものが多い。
今作はまず、画作りにセンスがある。特段に秀でてはいませんが、壁の色彩から窓外の夜景、階段、雪...様々な空間が刺激的に目に飛び込んできます。その色から空間の狭さまで、非常に印象に残り、美しく魅惑的です。
撮影にもわざわざフォーカスをずらして、ボケ画のまま服を脱ぐシーンを描いたりしていて、これがなかなかの焦らし効果があったりするんです。その際、手前に映る男性の頭部にはフォーカスが有っていて、首元の皮膚が見え、まるで彼女の実験である皮膚の変化が起こっているのを見せられているようでした。
じわり濡らす汗...総毛立つ産毛...口に溢れる唾液...
それだけ焦らしたら、準備は万端。ビートの効いた打音が流れ、性は一気に走り出す。
何しろマリークレールの笑顔が素敵で、一気に引き込まれていきます。
彼女に体を這わせる男の高揚感はまさにビートのごとく、いや、少々、負けている。彼女が彼を飲み込んでいく...
マリークレールは満足だった。何が?それは実験が進むから。しかし様々なものが壊れているように感じ始める。歯止めが分からなくなり、彼女は研究を理由にしなくなってくる。その感情のたぎりは皮膚ではなく心を変えていた。
物語の核は、"性は、どんなに割り切りと理解を持っても、人の心を乱す。夫婦ならそこに愛がないと分かっていても、確実に壊れるものがある"
なかなか難しい命題です。愛する人が誰かと関係を持つ。どうすれば割り切れるか。許せるか。映画の創始から繰り返し題材にしてきながら、未だに答えは出せていないものだ。
またマリークレールの夫がひどく優しい。だからこそ彼が心を乱した時、マリークレールも私達も、どうすれば良いのか分からなくなる。
些細なこと。体など。でも、費やされるものはそれだけじゃない。
終盤、マリークレールは娘の告白に心乱し、自分のしてきた事を振り返る。失った幾つもの"もの"に胸を痛める。焦燥に駆られたマリークレールは、雪の積もる空港に夫を迎えに行く...人はたくさんの歪みを埋めようと笑顔を交わし、そして抱き合う。まさにそれを実践する。夫が優しいからか、マリークレールの想いが伝わったからか、ふたりは体を交わす。
笑顔の朝。労り合う家族...
しかし。解き放たれたマリークレールの衝動は終わらない...

マリークレールは決して目映い美人ではない。体にも肉があり、太っては居ないがモデルのようではない。でも、彼女の性に向き合った瞬間の笑顔...女が花弁を開くその時。あまりに眩しく光輝いている。
性描写はセンシティヴな映像で描かれ、とても美しい。
妄想のシーンはちょっとドキッとさせれます。している行為もそうですが、そんな時に妄想するの!と目を塞ぎたくなります。
...指の隙間からしっかり見ちゃいますけれど。:p

映画は、非常に繊細な解き放たれた女の物語。
多く、女は何かを制限しがちだけれど、もし解き放ったら...男と同じなのさ。少し形が違うだけ。
原題"Les salopes ou le sucre naturel de la peau."
意味は"あばずれか、肌の蜜"
素晴らしい、煌めきに満ちた"女"の映画でした。


そしてもう一作。
「ビッチ・ホリデイ」。スウェーデン映画です。
正直、この映画は、この邦題が大嫌いで、観たくなかったんです。
でも、スウェーデンだし...アリシアの国の映画だし...それにエロス映画らしいし...なんて邪な気持ちで観てみました。:p

サーシャは裏社会で幅を利かせているマイケルの愛人だった。今はエーゲ海のリゾート地で優雅に過ごしている。マイケルは時に優しいが、その扱い方は笑顔を生むようなものではなかった。
そんな時にサーシャは若いトーマスと出会う...
女は生きている。...だろうか?
女は常に男の傍らに生きている。
サーシャは悩む。
自分とは何処に在るのか?自分とは何か?
愚かな女は男の掌の上で、空しく踊ることしか出来ない。昼間は下らない社交に明け暮れ、一日はただ過ぎていく。
サーシャはいつも何処か遠くを見ている。
夜は男の受け皿。男はただ女の"かたち"が有ればいい。どんな時にも男の都合に従い、男達の会話の合間に、見せびらかす彫像であればいい。それを求められる。
男は金と力をを見せびらかし、女の身を飾る。上手く行かなければ、自分だけが苦しんでいると嘆く。
女は倒れても、ひとり。
気付けば何もない。その手にも未来にも、果てない海の向こうにも...何もない。
だから。ここに居るしかない。例え、男の"もの"でも。
不毛である。哀しげでもある。欧州の人達はよく、日本の男性上位社会を貶すけれど、スウェーデンにも確実にあると分かる。上っ面は放し飼いのように見えるけれど、確かに見えない首輪がある。
非常に物悲しい女性映画です。心揺さぶられはしなかったけれど、その哀感に胸が少し濡れました。
映画は引き画が多く、バカンス感はよく出ていて映像も美しいけれど、感情にビビッドに来辛く、淡々としがちです。でもそれこそがこの映画の狙い。
引き画で描かれた、華やぎ、美しいリゾートに、ぽつりと立ち尽くすサーシャの姿は、あまりに物悲しい。女の心の虚無感がよく出ています。鏡の前で身繕いをするサーシャ。彼女のため息や静止した時に溢れる感情が堪りませんでした。
今作は前2作のようにサーシャは羽ばたけません。繕った美は自分のためには奮えません。
これ、多くの妻、そして女が味わうことです。確かに。
終局。サーシャは感情のままに愚かな事をしてしまいます。そして逃げる。力の懐ろに。
...ちょっと、後味悪し。掌の上の自由。それも答えか...
まあ...ビッチでいいか。


☆思春期がそうだったように、私はストレスが掛かると私の中の闇が湧き出てきます。
悪いことはしません。ただ、無性にホラー映画が観たくなります。古い駄目駄目ホラーを引っ張り出して、恐怖と畏怖に彩られた草場の世界を垣間見ます。
そんな闇心はリメイク版「13日の金曜日」のBlu-rayを買ってしまう暴挙も。後悔するかな...と思いき、もう4回観ちゃった。:p
ホラーの良いところは、人の様々な感情が乱れ、溢れること。それは聞き覚えがある。あぁ...「カリーナ、恋人の妹」や「快楽を貪る本能」にも言えること。
少し、私の心と体の何処かが、波打ちます。