春が来そうで、なかなか来ませんね...と思っている内に暦は春を迎え、春一番も吹きました。
もう暖かい日には軽く汗ばむくらい。梅や水仙、タンポポも咲き始め、春は密やかに街を彩っています。でも私たちの街ってやっぱり桜なんですね。まだまだ蕾を蓄え切れていない枝桜が殆どで、通りは何処も寂しげに見えます。
それでも川津桜はふっくら蕾が満々、静岡辺りではもう見頃、週末から来週初めには千葉でも満開になるかしら?
お猫様がのびのびと通りを闊歩し、そのごろごろ鳴らす喉の愛歌に、耳をそばだてては心地よいいとまを楽しんでいます。
愛しの姪っ子ゾーイちゃんはもう直ぐ1歳。もうしゃきっと立っちゃうし、ブランコ大好きできゃあきゃあ言いながら公園デビュー。
動物の逞しさに比べ人間は甘いと思っていましたが、思い込みでした。パリジェンヌだけ?育つの早い。飼い猫3匹と暮らしているせいか恐れを知らぬ女の子で、おしゃまに育ちそうです。
少なくとも人を区別しない子に育つでしょうから、本当に楽しみ。
“知ると言うこと”とは、LGBT活動?啓蒙?には付きものですが、私も、その力にとても期待しています。
アンナだって私と出会わなければ、わざわざLGBTの事なんて考えもしなかったでしょうし、ゾーイをトランスジェンダーを知る子には育てないでしょうから、ひとつの出会いが今、少なくともひとりの"人を隔てない子"を育てます。
ぜひ、ゾーイには人を愛せる子に育って欲しい。
「嫌い」の無い人に。
LGBTを理解できなくていい。好きにならなくてもいい。ただ「嫌い」にならなくていい。
当然、フランスにもLGBTに対する偏見は少なく有りません。それを無くすのは、やっぱりアンナのような広く大きい包容力と、”私”を知る事も大事なのだろうなぁとつくづく思います。
そして私もゾーイのお陰で、人生におけるあるひとつの幸せをちょっとだけ得られてる。
出会いの力。奇跡に近い。
それがどれだけ素晴らしいものかを知ることが出来た。人との出会いは無駄じゃない、面倒なことじゃない。運良く1万人と付き合えるこのSNS時代。無駄にしたくない。
忘れないんだ。あの日を。
「私は女性に成りたいと願うトランスセクシャリティなんです。もし信念や信仰であっても嫌だと思うなら私と縁を切ってください」
「私の信仰は”愛”よ。あなたがどのようにあっても私達にとって関係無いわ。あなたは私達の縁を終わらせたいの?」
そんな親に育てられた娘はきっと人類が理想とする人に育つに決まってる。

河津桜、咲いてます。
幸せのメソッドを悟って、ほくほくの日々ですが、私、祖母から風邪を貰ってしまいました。
前回のインフルエンザの際は、胸の痛みと喉の詰まり、そして倦怠感が症状として有りましたが、今回はのぼせたような感覚と喉の痛み。必死でヨードでうがいして悪化を押さえ込みました。
一昨日はちょっと調子が良かったので桜を見に行ったら、その晩、顔が驚くほど熱ってしまい、頭がくらくらしてまるで酔っ払っているみたいに成りました。
でも、何故かしら?酷くはならない。女性ホルモンのお陰?そう願いたい。
そう言えば今冬も”しもやけ”に成りませんでした。女性ホルモン...本当に血栓症の恐れがあるのかしら?
七不思議です。
最後にオチとして私の風邪は母にうつり、私は回復しました...罪深し...
先日、とある記事を見ました。
リア・クーパーさんの話。英国の方なのかしら?
彼女...彼の言葉は、「私は男として生まれ、女に成った。今、私は再び男に成ることを望んでいる」と言うもの。実は全世界で多くのそう言った声が上がっているそうです。
多くのトランスジェンダーは遺伝子性らしく生きる事を息苦しい、生き辛いと感じ、トランスの人生を選ぶ。
多くの人はそうして解き放たれる。
しかし新しい人生を歩み始めて、社会の中で異分子のように晒されていると感じ、嘆く人も少なくない。
「何故、社会は私をこんなにも受け入れてくれないのか」と。
...分かっていたことなのに。
ただそう言った方に共通するのは、治療を始めた時期が若いこと。殆どが10代。
進む決断するも、諦めるも、焦らないで。
何せ、私達はみんな、人生の初心者なのだから。
私達はどんな世界でも幸せは見つけられる。
映画「ルーム」のように、例え世界がコンテナひとつ分しか無くても、恐怖で支配されていようとも、人はきっと幸せを見出す事が出来る。
だから見つけよう。男だろうが女だろうが、そこにある幸せの色は望まない色かもしれないけれど、それは確かに幸せなのだから。
今回は癖のある映画をちょっと紹介します。2本+2。
ひとつ目は「グレイスランド」。
妻を亡くした医学生の男は一台のキャデラックでメンフィスまでの車旅をしている。その途中、ひとりの男と出会う。男の名はエルヴィス、かのプレスリーを名乗る男...
まぁ、平凡な為すがまま系ロードムービーなのですが、これがすごくいい。自分を”信じること”でしか保てなくなっている男と、進むべき道を見付けらなくなってしまった男が、寄り添い促され、労り理解して明日を見出す話です。
題名の「グレイスランド」とは直訳は「祝福の地」、でももうひとつ、エルヴィス・プレスリーの家をアメリカの人はそう呼んでいます。
この映画はアメリカの人の”聖地巡礼”の旅でもあるわけですね。
エルヴィス役は本物エルヴィスに全く似遣わない風貌のハーヴェイ・カイテル。小太りの平凡なおっちゃん。
でも終盤には誰もが彼をエルヴィスかと見間違うくらいイカしてます。
でも、この映画のミソは、マリリン・モンローです。ブリジット・フォンダ扮するマリリンが良いアシストをして、映画を終盤に運んでくれます。
エルヴィスと私達の間にぬぐえず残っていた僅かな溝を、優しく温かく埋めてくれます。
私、一時期、凄く憧れてたわ、彼女の艶やかさに。
何と無くね、トランスって「私は女」「私は男」って言い張れない曖昧さを持っていませんか?
私は有ります。それは多分、"男"でも"女"でもしっくりこない。
自分とは?
分かる人なんて居るわけ無い。
「らしさ」を追い求めすぎて、自分が何なのか誰なのかさえ分からなくなってしまっている人も居るみたい。それは余所の話でも無い。意外と私も変わらない。
だから、ひと先ず、私達は嘘をつく。そう成りたい、そう在りたいと願う形に取りあえず彩っていく。時には容を変えてみる。
まるで悩めるままに桃源郷を求め歩く、巡礼者のよう。
そうして生きる。
私達はある意味、エルヴィス...ううん...マリリンなの。偽り、そして自分とする...自分になる。
映画のラスト、主人公が叫ぶ名前。それが何より愛おしい。
誰かが認めてくれた時、きっと私達は"ある形"になる。
それは...
同じく行き着く先を追い求める青年を描いた映画が有ります。それは「イントゥ・ザ・ワイルド」。
生きる目的を見失ってしまった青年はさ迷うように旅に出る。目的はアラスカ。
彼はたくさんの人に出会い、たくさんの別れを経験していく。それは裕福で将来に悩まずに生きられたかつての人生とは全く違うもの。
如何にも、「らしい人生」?
彼は2年の放浪の末に22歳でアラスカで命を終えた実際の人物。映画は想像の域を越えないけれど、彼にはたくさんの安らぎや幸せを感じれる場所はあった筈だけど、ただ、答えを求めるようにアラスカを目指した。
何故かしら?思えば幾つもの見出だせる可能性。不思議と理解できちゃうのよ、彼の無謀さを。あぁ...もしかしたら彼の想いは人の常か。
戻れない、止まれない、終わりにだけは出来ない切望。
それは、私達がトランスして選んだ人生の先に見ているものに近いのかもしれないね。
終盤、ちょっと期待が残ります...あの出会いは彼を救ったかもしれない...と。そのシーンは誰もが感じられる至福の出会いです。
もう一本はハーモニー・コリン監督の「ミスター・ロンリー」。ここではマイケル・ジャクソンが登場する。
マイケルとしてしか生きられない青年がある日、老人ホームでパフォーマンスをする事になった際、マリリン・モンローと出会う。ふたりは意気投合し、同じような生き方をしている人達の集うスコットランドのコミューンに誘われる。
こちらは爽快な「グレイスランド」に比べてちょっと病質。そう言っちゃうと元も子もないけれど、過去に目を背けながらも今を歩こうとする「グレイスランド」に比べ、「ミスター・ロンリー」は現実逃避する若者達を描く。
非情で惨たらしい現実も其処彼処に見せ付けられ、「楽だろうさ、幸せを感じるだろうさ、でもお前の傍らには常に現実が在り、今にもお前を飲み込もうとしているのさ...」そう言っているように感じさせる。
トランスしてもね。テレビに出ている人のように生きられる訳じゃないのよ。骨も老けも運も人さえも、そう私達に手を差し伸べてはくれていない。
所詮、私達は私達なの。天使や王女に成った訳じゃない。映画はそれを見せ付ける。
このハーモニー・コリンって監督はそう言う感覚を持っているよう。
後に作られた「スプリング・ブレイカーズ」と言う映画は「春休み」に自分を変えようとするかのように飛び出した4人の女の子達が、麻薬や暴力に晒される。それは飛躍的に彼女たちの現実を変えていくけれど、元の自分に戻れなくなってしまう。
自分とは、とても頼り無く弱い。だから人は虚勢を張ってみたり偽ったりして自分の容を作り出して行く。
しかし、それは決して自分を救わない。でも強くなれる。
トランスの人達に言いたい。奢れる無かれ。
私は「埋没」と下に見る現象が好きでは有りません。女として嘘を吐き、誰かを騙そうとしているのでもなく、ただ自分らしく存在したいだけなのだ。それは過度に女ぶったりする事も無く、ただありのままに自然で居たいと願う人たちなのだ。
トランスとして髪を靡かせ、誇り高く生きることはさぞや強いだろう。しかし、真っ直ぐ自分として生きる全ての人たちの根強い強さは計り知れない。
何より、人はどう生きたっていい。
エルヴィスでもマイケルでも、マリリンでも良いのだ。歩き続けよう。
私も奢らぬよう...