同性愛だって愛 | まりのブログ

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性同一性障害者の私が、思いのままに生きるために頑張って生きてます。
性別適合手術をしてから2年になりました。
私はトランスジェンダーとして誇りを持って生きてます

41日から、渋谷区で同性愛関係にある方への社会保障が得られるように成るそうですが、あまりテレビで特集されなかったのが残念でした。

表面的に聞いていると、結婚と同等の権利、恩恵を得られるように聞こえますが、実の所、家族用区営住宅に入居出来る事と、一部の病院で家族以外面会謝絶の状態の時に家族として立ち会える事、そのくらいらしいのです。

基本、大いに皆が喜んでいるのは、その恩恵よりも結婚のような証明書が貰える事のようです。

ふむむ

この程度でもアンケートによると45%程度の人がこの渋谷区の事例に、反対の意見を持っているそうです。

同性愛者ってこんなにも嫌われているのですね。

 

私は日本人ってすごいなって思っていました。

世界では同性愛者だと言うだけで殺されたり、虐められたり、社会的に立場を失ったりしています。

ですが、現在の日本では表だって侮蔑したり石を投げたりする事は無くなっています。それどころかBLや男の娘に代表する様々な文化として受け入れられています。

アメリカ映画などに観るような侮蔑の言葉は、日本では、映画でも巷でも、ほぼ耳にする事は有りません。

私はオタクです。アニメや漫画に代表する文化が大好きです。そんな10万人もの人が集るコミックマーケットでも、何事も無く女装する男性や男の娘が闊歩しています。前述、男性同士の愛を描くBLや女性同士の愛を描く百合が自然な形で受け入れられています。

まったく差別の気配は見られません。彼等はそれを愛と言う括りであり、人の生き方やポリシーとしても受け入れられているのだと思います。

ですが、こんな事も起こります。

先日、ある性同一性障害を抱えている区議員の方が街頭で演説をしていると、こんなヤジが上がったそうです。

「この辺は治安がいいのに性同一性障害なんて気持ちが悪い、こっちは夕御飯のおかずを買いに来ているところなのにやめてよ」と。

その方は性同一性障害は治安を害し、不快に成るほど目に触る存在なのだと言う事のようです。

きっと同性愛も同等に思うのでしょう。

私は日本人ってすごいなって、かつては思っていたのです。ですが、今は、その自信が揺らいでいます。

 

 

同性愛とは何か?

遺伝子的欲求を超えた愛、と言えないでしょうか?本能が求める遺伝子保存と生殖の欲求が求める条件がここには無いのですもの。

 

まあ、そのような言い方をするほど立派なものでは有りませんが、愛する相手がただ同性だったというだけであり、それを貫くには、並大抵でない度胸と覚悟が必要だと言う事実が、単純であまりに素晴らしい想いを潰してしまう事さえあるのです。

現実は、私の信じるこの国にであっても厳しいのです。

 

批判する人に問いたい。

貴方の好みがその子の好みと噛み合わない可能性は有るわけで、その子が同性を愛する可能性も否定できないわけで、その子が貴方の同性愛批判のせいで心に悲しみを抱え続けているとしたら、それでも、貴方は幸せを求める愛と言う心を否定するのでしょうか?

 

 

私はどうなのかと言う問いには、はいで有り、いいえで有ると言えます。

まだ同性を愛した事は有りませんが、愛せると思っています。例えば自分を労わってくれる人が居たとして、愛を感じるかと言われたら、当然、こう言います。感謝しているし、明日の形はどうあれ、私は彼を愛してる、と。

愛してくれる人を愛さずに何て、いられません。

愛とは、年齢や国籍、生まれや育ち、時には平民と国王の間にも愛は生まれ、性別にさえとらわれないものであると私は信じます。

今日から同性愛とかでは無く、ずっと生まれながらに私達は人を愛して止まないのです。誰を愛そうと変わりません。