やぁ( *・ω・)ノ
日付け変わったけど、昨日はちょっと特別な日だったんだ。
今日はそのお話ね!(´▽`)すげぇ長いよ!
◎知子と卵巣癌◎
何回か書いてるけど、ちょうど13年前の2月15日に、卵巣癌の摘出手術をしたんだ。
最初の異変は2009年の春。彼氏(旦那)とのデート中、ものすごい目眩がして倒れたの。
すぐに救急車で病院に運ばれて、それが旦那とウチの両親の初対面www
だけど、その時は『貧血だね、元々持病あるんでしょ?気をつけてね』で帰された。
なんなら『貧血ごときで救急車呼んで来るんじゃないよ』みたいな空気だった(´;ω;`)
まあ、昔から貧血持ちだったし、小さい時に貧血が分かった時点で『大きくなるにつれ悪化するかも知れない。』とは言われてたんだけどさ。
だけど普段の貧血とはちょっと違う、急な脱力感と目の前がフワッとする感じ??
まあ、様子見るしかないよなー、と思ってた。
それから数ヶ月後、夏休み前のテスト期間。学校へ行く途中、バスを降りて駅に向かっている途中にまた例の貧血?が来て、バタリと倒れたのよ。
居合わせた親切なご婦人が救急車を呼んで下さって、近くの救急病院へ搬送されたのね。
でwその日大切なテストだったから、救急車の中で『テスト…テスト』と、うわ言を言っていたw
病院に着いてからも『テスト…テスト受けなきゃなんです』を連呼していた為、血液検査だけして点滴打ちながら学校へ行き、テストを受けてきた(笑)
病院とママンから連絡をもらっていた先生は、ガラガラと点滴しながら来た私に『え?!病院から来たの?大丈夫なの?』って動揺していたけど、私はテストをどうしても受けたかったの。
当時私は短大5年生。この1年の間に卒業に必要な単位を取らなくては除籍になってしまう。
卒業に必要な単位は、この時点ではあと6単位。この日のテストを受けたら2単位貰えるのだ。
大好きで、大切にしてもらった短大。卒業することが恩返しだったから、是が非でも受けたかったんだよね。
で、ヘロヘロになりながらテストを終えて、ロビーで待機していたママンと病院へUターン。
そこで初めて医師に
『ちょっと血液検査の結果がおかしい。ウチよりも大きな病院で診てもらった方がいい』
って言われて、都内の大きな病院の紹介状をもらったのね。
紹介状の先は『婦人腫瘍科』
この時点で
『ん?もしかして癌?』
って思ったよねw
腫瘍が何を意味しているのか位は、病気だらけな人生だった私にも分かったからねw
ママンの方が動揺してた( 'ω'; 三 'ω' ;)"
で、そのデカい病院で色々検査をした結果。
医師『卵巣に悪性と思われる腫瘍がありますね』
私『それは癌ですか?』
医師『はい、ハッキリとは言いきれませんが、おそらく癌かと。』
私『そうですか。』
実に淡々とした説明を、私はかなり冷静に聞いていた。
後ろにいた看護師さんだけが曇った表情をしていた。
そこから、ママンの知り合いが看護師をやっている病院にセカンド・オピニオンをしに行くことになったんだけど、ママンはやっぱり落ち込んでいた。
パパンは『知子が生まれる前に自分が癌だった(胃癌)せいだ』って言ってたし、ママンは『私の子宮筋腫の家系のせいだ』って言ってたけど、ぶっちゃけ2人のせいじゃないし、癌の家系だけど、不可抗力なんだから仕方ないじゃないかって思ってた。でも親としてはやるせなかったみたい。
セカンド・オピニオン先の病院は、更にデカい病院(よく政治家が利用する病院w)
東京タワーがすぐ近くで『そういや都民なのに行ったことねぇなw』とか思ってた(^ω^)
そこで改めて
『癌です。』
ってなった。
さて、私はどうしたら良いのだろうか…。
けど、前の病院よりここの病院はもっともっと設備が整ってるし、先生は親切で説明も分かりやすいし、知ってる看護師さんも居るし、政治家が雲隠れする病院だしw
というわけで、この病院でお世話になる事に決まった。
病院では何回かに分けて更に詳しい検査をし、その間に学校へ行くという日々を過ごしていた。我ながらすげぇな。
詳しい検査の結果、私の癌は
『卵巣癌ステージⅡb期』というものだった。
癌が左の卵巣に出来ていて、更に卵管へ転移していた。
要するに『初期の癌』では無かった。
私はぼんやりしながら『そっかぁー。初期じゃないんだー』『手術するよね?嫌だなぁ』『あと何年生きられるのかな』とか考えていたら、医師(Y先生)が
『とりあえず今年中(2009年12月)に入院して、年明けにすぐ手術しましょう』
って言ってきたので、そこで( ゚∀ ゚)ハッ!とした。
それは困るw
この時点で、私は卒業まであと4単位というところまで来ていた。
だが、今入院してしまったら単位が取れなくなる。つまり
卒業出来なくなる!!!
5年間必死で頑張って、病気と闘って、休学と留年を繰り返して、ようやく見えてきた卒業。
ここで諦めてしまったら、絶対一生後悔するし、優しい看護師さんやY先生を恨んでしまうかもしれない。
長い長い話し合いを重ね、Y先生が
Y『では、最後にもう一度聞きます。』
Y『命と学校どっちが大事ですか?』
私『学校です』
ついにY先生が折れて、
Y『癌はあと少しだけ待てる状態です。授業が全て終わった1月末日に入院して下さい。あと、その間学校と家の往復のみにして下さい。風邪を引いてはいけません。絶対に人混みに出ないで下さい。』
と、約束をして、私の通学が許可された。
最後の授業の日、学校近くの居酒屋の2階を貸し切って、クラスのお疲れ様会をやったのね。
私は1時間だけという約束で参加をしたら、最後に皆から
『手術頑張って!一緒に卒業しようね!』
と、花束と色紙を貰い、ワンワン泣いた。
1番仲良しだった友達(2人合わせて『2組のマイナスイオン』と呼ばれていたw)と抱き合ってワンワン泣いているのを、周りから『マイナスイオンが大量放出されてる!(笑)』と言われたw
私は皆に励まされ、入院した。
入院中、2人部屋だった私は、隣のベッドのお婆さんとお見舞いに来ていた娘さんと仲良くなって、一緒にバンクーバーオリンピックを見たりしたよ!
お婆さんは『若いのに癌だなんて…』と泣いてくれた。
娘さんも『きっと、将来子どもが出来ない事を色々言われるけど、気にしちゃダメよ!』と励ましてくれた。
そこで私はある事を思い出していたのね。
中学3年生のある日、家庭科の授業で『自分の人生設計をしてみよう!』みたいな授業があって、まぁ『大きくなったら〇〇になりたい』を細かく書くやつねw
で、私が書いたのが
『20歳で結婚して、25歳で小学校の先生になって、30歳で可愛い家に住む!』
ってやつ( 。∀ ゚).。இ
それを見た先生が
『ちょちょ!知子さん(笑)あなた20歳で結婚って書いてるけど、学生結婚して教師になるの??小学校の先生になるには四年制大学出なきゃならないのよ?』って言ってきたのねwそりゃそうだw
おバカさんな私は『…ああ!そうかぁ(笑)じゃあ22歳で先生になって25歳で結婚にするぅ!』って言って書き直して提出♡
そしたら先生が何か言いたげだったんだよね、『…まあ、今の時代コレもアリよね。強制は良くないし』とブツブツ言ってて。
私は隣の給食室から漂うミートソースの香りにウットリしてたんだけど、おそらく先生は
『ライフプランに子育てが無い?』
って思ったっぽい。
だけど『知子さんはアホだから(笑)ライフプランに書き忘れているのかも…でももしかしたら敢えての子ども持たないパターンかもしれないから、口出す事じゃないわね』
って思っていたんじゃないかな?
そう、それからもその前も、私の中で『将来先生になりたい』とか『アイドルやりたいw』とかはあったけど、『子どもを産み育てる』って言うのが不思議な事に無かったのね。
手術の前の説明でも『左の卵巣と卵管を全摘し、その後状態によって化学療法をする事になります。なので、若い女性にこの話をするのは酷なのですが…』
『将来、子どもは望めません』
『卵子を凍結させておく方法もありますが、時間も手間も費用もかかります。どちらにせよ、右の卵巣も機能出来なくなる可能性が高いので、凍結させるなら今のうちですが…万が一子宮内に癌が転移していたらそれも出来ません。どうしますか?』
と聞かれたけど、割と秒で
『あ、結構です。』
と答えていた。
先生は『もっと慎重に考えた方が…パートナーと話し合ったり??とか!』って言うけど、卵子凍結させても子どもが出来るか分からないし、時間も費用もかかるし、私はきっと長生き出来ないから、子どもを育てる事は考えてないし、彼(旦那)もそこら辺は理解してるから、最初から私の答えは決まっていたのだ。
『私は子どもを持たない』
って。
その時に思い出していたのが『ライフプラン』の授業ね。
そっかぁ、あの時と同じになったんだなぁ…。ってね。
あ、他の夢は形は違えど、なんだかんだで叶ったよ(笑)
そんで、2010年の2月15日。私の手術は3時間の予定だったけど、結果5時間に及ぶ手術が無事に終了したの。
ってか麻酔の女医さんが凄かったw
手術前日にも説明に来てくれて、『大丈夫!寝ている間に終わっちゃうよ!』って言ってたけど、マジそうだったからね(笑)
手術台に上がって、麻酔の先生と『パジャマ可愛いの着てたねー!どこで買ってるの?』とか雑談しているうちに
『はい、眠くなるよー』
って言われて、次に
『知子さん!終わりましたよー』
だからね(笑)
で、手術の結果、私はギリギリの所でステージⅡa期を保っていた。
本当に少しだけ子宮内に浸潤していたけど、顕微鏡レベルだったから大丈夫だった。
ただ、あと少し遅かったら、確実にステージは上がっていたらしい。
無事に手術が終わって、1番仲良くなった看護師さん(同い年だった)が本当に喜んでくれた。
リハビリと、治療方針が決まり(通院型化学療法になった)2月25日に退院した。
3月1日。
私は学校がある駅にいた。
その日は卒業の結果が出る日。
ママンから『タクシーで行きなさい』と言われたけど、自分の足で5年間通った道を歩きたかったのだ。
杖をつきながら、一歩一歩。
普段なら20分の道のりを1時間かけてゆっくりと学校へ向かった。
そして、学校の会議室でもらったのが
卒業『可』
文字通り、命懸けで手にした卒業だった。
電話口でママンは号泣していた。
私は最終的に8単位取得していた。
あの時、諦めなくて本当に良かった。命をかけて得た卒業は、私の宝だ。
そしてY先生を初めとする病院スタッフさん、家族、友達、先生、皆に支えられて得た卒業だ。
私は本当に幸せだ。
そんな事を感慨深く思い出していたら
バレンタイン忘れちゃってたΣ(ノ≧ڡ≦)
ってか長かったでしょ(笑)
読んでくれてありがとう!お疲れ様(((o(*゚▽゚*)o)))