今日は家内の病院への付き添いでした。術後から半年。結果は良好。ホッとした。

本来なら夜勤のシフトを変更してのお休み。1日ずれるだけで気持ちはホッとする。たまには自分が背負っているものを降ろす事も大切だなと思う。明日はリーダーさんやらなくていいんだから。

さてと、生い立ちとお金の第3話。この話に需要はないとは思うけど、フォローしてる方の真似をして今回は書き切ろうと思う。でも、今回も話は終わらないんだろうな。

就職で故郷を離れる私に付き添ってくれたのは父でした。上京したのは平成7年の4月1日。この年は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件の年でもある。地下鉄に乗った事が修学旅行ぐらいしかない私。世間知らずな私の上京初日。会社から与えられた社宅に引っ越す予定でした。

父と2人の珍道中。今まで父と出かけた事がない私にはドキドキ。不安いっぱいな私だけど、大都会東京に出る訳だから、きっと今までよりも便利で快適なのだろう。そんな幻想がありました。一瞬で砕けたけど。

まず、羽田空港に到着。ここまではいい。それから電車を乗り継いで会社の独身寮に向かう訳なのだが、ん?んん?電車がわかんね。

当時は乗り換え検索なんてものもないし、パソコンも高価な時代。携帯だってない。手に持ってるものは全国時刻表だけだった。路線図を見て行きたいのだが、地下鉄直通ってものを知らなかったせいで到着が1時間も遅れた。

ヘロヘロになりながら、手元にある地図を頼りに独身寮へ。古びたコンクリート作りの建物だった。多分、私が産まれるより前に建てられた建物だ。

寮母さんにご挨拶。鍵を受け取り部屋に案内してもらう。与えられた部屋は4畳半の畳の部屋。それはいいとしてもゴキブリが3体死んでた。ここはどうやらゴキブリも生きていけないらしい。

台所は共同。トイレも共同。洗濯機も共同。ご飯は自炊禁止。外に食べに行く事がルールらしい。お風呂は銭湯が近くにあるとのこと。今まで家にお風呂があったので今時風呂のない家があるのかと驚いた。電話は公衆電話が下の階にあった。

台所が共同と書いたけど、ホントお湯沸かすぐらいしか出来ない作り。流しには湯沸かし器もないので、春先の4月でも寒かった。

到着は昼だったが、すぐに生活しなくてはいけない。早速父と買い物へ。父は布団を2組買ってくれた。テレビも電子レンジも冷蔵庫も買ってくれた。お金がないのは知ってた私はこれはすごく父は無理をしてると感じた。

入社は3日だったので、それまでに父が身の回り必要なものを買い揃えてくれた。そのおかげで入社式までには必要な家電と家具は揃えられた。父は入社式を見たかった様子だが、当然見られるわけもなく、近所でその日を過ごしてから、飛行機で実家へ帰って行った。仕事を終えて解放された私は空港まで向かっていた。会えない父の飛行機を探して。デッキで見送る事が出来たが父には会えなかった。寂しかったんでしょうね。私。涙が出て泣いていた。

無理してお金を捻出してくれた父。家に帰ると50万入った袋が置いてあった。これで当面の間生活しなさいって意味だと思った。給料が支給されるまでの間出来る限りで節約をして食い繋がないといけない。

自炊禁止は知ってたがお金のない私は自炊を試みる。またにやってる人もいるので、あまりルールは守られていないみたいだ。今まで料理なんてほぼした事がなかった割に母の後ろ姿は偉大だった。何となくでそれなりに食べられるものが作れた。

ほとんど白ごはんが主食な私。会社の人にはまともなモノを食べろと怒られた。だからといって誰かが助けてくれるわけではない。それは社会に出たのだから。

身寄りのない東京で生きていく事は自分自身でお金を稼ぎ身の丈にあった生活をしない限り破綻する。祖母みたいに金借りて破綻する。祖母の生き様は反面教師となった。

お金の事は信用問題だと働く以前に自覚出来てたのは良かった事だと思う。やっと食いつないで初めての初任給は約11万。寮費が引かれてるので住まい分は気にしないけど、それでも共益費と電気やガスに水道代は請求がくる。それを支払うと約10万。定期代で2万円。残りは8万円。洋服とか買わなきゃいけないものが多かったこの時期に私はとち狂う。その8万円で何故か電話線を引いてしまった。当時は電話引くのに権利を買わなきゃいけなかった。今じゃ紙くずだけど。それに全額突っ込んだために就職から3ヶ月ぐらいは苦しい生活を強いられた。

社会的信用もない。友達も家族もいない暮らしは孤独を極めた。きつかった。寮の同期が仲良くしてくれたのが嬉しかった。その付き合いも今ではほぼないのだけど。

父が残してくれた50万は多少すり減る事はあったけど、夏には少しだけボーナスが出たので、元の形に戻す事が出来た。そのお金はもう使えない。今でも郵便局の定期預金に入っている。