1型糖尿病と診断された僕の診断から3ヶ月経った振り返り | 25歳で1型糖尿病になった僕の新しい日常

25歳で1型糖尿病になった僕の新しい日常

ご覧いただきありがとうございます!
このブログでは25歳で1型糖尿病と診断された僕が日々の悩みや、誰かのためになるような情報、今までの体験を綴っていくブログになります。

ブログを始めて1回目の投稿どうしようかな?と考え、あまり僕の事を知らない方も多いかな?と思いまして、自己紹介も兼ねて振り返りをしようと思います。

 

現在25歳、今年の7月で26になります。

今年の2月14日に自宅で倒れ、救急搬送された先で1型糖尿病の診断を受けました。

血糖値は食後7時間経っているのに610

HbA1cは18.4%もありました。

運ばれた時の病名は糖尿病性ケトアシドーシスでした。

 

救急外来で僕は先生から「急遽入院が必要」と申告されました。

しかし、点滴を打ち元気になった僕は帰る選択をしました。

先生からは「帰ってもいいけど、明日必ず病院に来てほしい」こと

「入院は必ずすることになるから心の準備と入院準備をしてほしい」と言われました。

次の日、僕はまず職場に電話をしました。

この時の様子はぜひ血糖おじさんのyoutubeチャンネルで上がっている、インタビュー動画を見てほしいです。(詳しくお話ししています)

 

https://youtu.be/rJlgoheodwc?si=6Ga0TFCvgBRgaf3m

 

採血や検尿をして診察室に呼ばれそこで改めて

あなたは1型糖尿病という病気です。しかも数値が高すぎて、緊急で治療を進めなければ命の危険があります。この状態ですと検査しても適正な判断ができません。

緩徐、急性、劇症の三種類が主にありますが、あなたはどれかが判断できないほどの状態です。今までこの数値で生活できていたことが奇跡だと思ってください。

即入院をお勧めします。医師として、このままだと死ぬかもしれない人を帰せない。」と言われました。(この時この衝撃強すぎて一生治らないの話は抜けてます)

 

入院生活の話をする前に、僕自身のその時の生活環境のお話しをします。

僕には当時、付き合って3年目になる彼女がいました。

2年間の遠距離恋愛を経て、ようやく同棲をすることができ、もうすぐで1年経つ頃でした。

2/13日は彼女の誕生日でした。同棲後初めての誕生日です。

2/14日にバレンタイデーと一緒にお祝いしようと、仕事が終わりチョコを作るための買い物をして、サプライズのプレゼントを買って、家に着いた矢先に僕は倒れました。

救急車に乗った時、虚な意識の中で僕に見えたのは、初めてみる彼女の泣き顔でした。

 

なんでもっと早く無理矢理でも病院に連れて行ってあげられなかったんだろう。

気づいてあげられなかったんだろう。優しくしてあげられなかったんだろう。

 

これは彼女が入院の時、こっそり忍ばせていた手紙に書いてあった言葉です。

 

入院生活は孤独な時間でした。

見ず知らずの土地で、友人と呼べる人もおらず、ただ毎日を検査、採血、血糖測定

勉強をする日々でした。しかし、僕にはまだその時に自分が「1型糖尿病」という病気だと理解をしていませんでした。

僕は当時同棲のために、千葉⏩新潟へ引っ越していました。

医師から「検査結果が出揃ってきたので、改めてお話をさせてほしい。誰か同席しますか?」と聞かれ、僕は『いえ、一人で聞きます』と答えました。

その話を家族にしたら、次の日には千葉から新潟の病院に来てくれました。

片道4時間超えの道のりです。季節は冬の終わりかけ。雪が降れば凍結する危険もあるのに、母と妹は来てくれました。

一緒に診察室に入り、そこで改めて「息子さんは1型糖尿病という稀な病気です。

今の医学では完治することが望めない病気です。一生インスリンというホルモンを体外から投薬しないと生命維持が困難な病気になります。」と説明されました。

泣き崩れる母、絶句する妹、一生治らないという事実を突きつけられ放心する僕。

診察室は地獄でした。

 

様々な検査をし、僕は自己分泌は枯渇していると言われました。

僕の日常は2/14から大きく音をたてて崩れていきました。

 

2週間の検査、治療、教育入院を終え久々の外へ出ることができました。

先生は「インスリン注射をして、血糖コントロールを頑張れば、みんなと同じ生活ができるからね。一日四回の注射と、血糖測定を欠かさずね」こう言われて

僕はまた日常生活へ戻ることになりました。

 

僕を待っていたのは、そんな簡単じゃない、孤独と苦痛と苦難の日常でした。

 

続きはまた後日に!!次回は退院後の日常を!