この連休中に古いパスポートの点検・整理をしていたところ、珍しい記録が
  見つかりました。

  随分と古い昔の話で恐縮ですが、沖縄県民以外の皆さんで沖縄が戦後長らく
  米国の施政権下にあったことをご記憶あるいはご存知だった方々は果して
  どの位おられるのでしょうか。
  沖縄には未だに数多の米軍基地が存続して、米将兵による暴力事件が
  後を絶ちません。
  実は基地問題とは別件ですが、長らく施政権が米側にあったのでした。

  私が初めてパスポートを取得したのは、1969年7月に東京都から
  交付されたものでした。この初めてのパスポートの通し「旅券番号」は
  何と D15**** だったのです。(数字は6桁)
  つまり、今となっては貴重(?)な若番ですが、明治維新以降日本政府が
  発行した、僅か3百15万番代に過ぎなかったのですから。エヘン。
  ちなみに昨年の6月に千葉県から交付された、私の最新の旅券番号は
  TH351**** という気の遠くなるような番号でした。(数字は7桁)
  つまり通し番号では、3億3千3百51万番代ということになるのです。
  日本の海外旅行が自由化されてから、如何に多くの日本人が海外旅行を
  楽しんでいるかという証左でもあるのですが。

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                       出国は1973.8.20 入国は1973.8.21

  余談はさておき、沖縄の施政権が米国から日本へ正式に返還されたのは
  1972年5月15日でした。
  それ以前の沖縄渡航には、当然外国扱いでしたので、我々日本人といえども
  パスポートが必要だったのは言うまでも有りません。

  あれは沖縄の施政権が日本に返還されて間もない1973年8月のことで。
  突然会社から私に1泊二日の沖縄出張命令が出されたのです。
  何人も居た通信課員の中で、若輩の私が選ばれた理由は、唯一私だけが
  「既にパスポートを所持していた」という理由に他なりませんでした。
  何故なら、前年に日本へ施政権が移管されましたが、諸々の法整備が整わず
  沖縄渡航に関しては、未だパスポートの提示が必要だったのです。

  当時の我が那覇空港事務所には、本土から持ち込んだ通信機材が有り
  通常の日常的な点検・保守業務は沖縄のO社へ依頼しておりました。
  しかし、その時はある重要部品の交換を要する程の重大障害が発生し
  私が急遽部品を持って沖縄へ出張・修理する事になったのでした。

  1973年8月20日、羽田国際空港で航空機への搭乗前に当局から
  「出国スタンプ」を受けてから日本航空便で沖縄の那覇へ。
  到着後直ぐに修理に取り掛かり、その日の内に予定した全ての作業を
  無事に終えると那覇市内で一泊しました。
  翌日の午前中は現地事務所がアレンジした沖縄南部の観光に当てました。

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                    多くの犠牲者を出した第3外科壕
  
  戦争末期に看護要員として召集を受け、1945年6月19日、
  第3外科壕で米軍の黄燐手榴弾などの攻撃を受けて、女学生の
  8割以上もの死者を出した記念碑である「ひめゆりの塔」などを
  駆け足で見学すると、急ぎ午後の日本航空便で羽田国際空港へと戻り
  「入国スタンプ」を受けたのでした。
  当時の沖縄は完全な外国扱いだったのです。
  そのお陰で那覇市の国際通り商店街で、当時の酒好きには垂涎の
  的だった「ジョニ黒」を免税扱いで購入出来たのを未だに
  昨日のことのように鮮明に記憶しております。

  日本で唯一の地上戦闘があって、幾多の人命が失われた沖縄の事を
  私は「ひめゆりの塔」下にあった『第3外科壕』の強烈な印象とともに
  永遠に忘れることは無いと思います。合掌。
  私は、一日も早く全ての紛争や戦争が地上から完全に無くなる日が
  早く訪れるよう願って止みません。