新岳噴火の話「人生に気合い入った。」①【口永良部島】 | 島暮らし大学生【口永良部島】

島暮らし大学生【口永良部島】

慶応大学を1年間休学。鹿児島、屋久島の隣にある離島「口永良部島」で一人暮らしをしていた22歳の奮闘記。

昨日で1年間が終わりましたが、東京に一時避難してからえらぶの夏祭りに行く途中のフェリーで噴火のことを書きました。
島のリアルを伝え続けるには、リアルタイムじゃなさ過ぎたこのブログですが、堂々と振り返っていこうと思います。

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ふと東京に帰っていました。
これにはこれでいろいろと背景があったのですが、
ふと今はまたしても屋久島に向かうフェリーの中で書いています。
テーマは妖精みたいな感じで東京にいたり口永良部島にいたりすることです。

冨永真之介、健在です。
8月3日に口永良部島の活火山【新岳】が噴火しまして、僕の島暮らしは激変しました。
そして今も僕のMac book proは火山灰のにおいがしていて、しっかりウェットティッシュで拭いたのに、硫黄のにおいというのは特殊なちからをもってますね。

この18日間ぐらい、あまりに人生においてヴァージンなことしかなかったので、まったくもってまとめられませんでしたが、忘れない努力だけはちゃんとしました。
それはまた30年後かもしれない噴火のためか、自分の明日のためか、後輩のためか、いろんな強い想いがブレンドされて理解不能です。
そしてまた明日(8月22日)から口永良部島に3泊して、僕の島暮らしは一段落します。そこでの情感のエネメーターが振り切れる可能性があるので、到着する前に掃除機の箱をデスクにして文字をうっています。知る人ぞ知るフェリーはいびすかすというやつです。いまこうしてパタパタとローマ字をうっていても、特定のだれか、あるいは不特定多数みなさんに伝えたい想いがたくさんあることがよくわかります。もうちょっとはやくやってもよかったかもしれませんが、命をテーマにしたときに目の前の人たちと最高の日常を過ごすことに精一杯でした。

■人生に気合い入りました。
8月3日は日曜日だったんですね。8月序盤と言えば、ここ数年ぼくが所属する長谷部葉子研究会口永良部島プロジェクトの夏の活動の大目玉が絶対きます。高校生を島のみなさんのお家にホームステイさせていただいたり、いろんなふれあいを学生がつくりだしていきます。1日に来る予定でしたが、台風12号で屋久島で足止めしていました。

先発隊の建築系の池田研の4人は到着していて、大勢の大学生、高校生が宿泊する環境をうんぬんかんぬんしてくれていました。彼らと長谷部研レジェンドじょーじさんとサークルの先輩じゃすみんの7人の生活が少しずつなれてきた昼間でした。

最近えらぶにはシェアハウス「和在家」という中長期滞在者向けの施設があって、まじいかしてます。8月13日に予定されていた口永良部島なつまつりに、僕がいままで本気出してきたアカペラサークルの仲間達をよんで、島でみじんも存在しなかった「アカペラ」がえらぶの一世を風靡する企画を企てていました。想像以上にみんなが協力してくれて「和在家」にお願いして10人ぐらい泊めさせてください!みたいなお願いをずっとしていました。お願いは最初から快く受け入れてもらえて、ただ、「そんな大人数とまったこと無い!」ということで、掃除やトイレシャワーの整備、草刈り、そしてエアコン導入までしてもらうことになりました。室外機おくから草刈りしなければとかで、3日は午後、じょーじさんじゃすみんさんと和在家掃除の手伝いにいくことに。船は欠航。午後からいきます!っていって偶然早めにお昼ごはんたべていくかーっていって12時22分ぐらいに3人で家を出ました。

家を出たとたん、戦闘機が低空飛行してんのかなあっていうような
ごぉおおおおおお
っていう音がして、いやでもすごい音だなと思って、空を見上げると少し遠くの方から黒煙が空一面覆うんじゃないかという勢いで舞い上がって、自分の方に迫ってきました。このときは山とか火口とかそんなことはなにもイメージできず、あまりに黒煙が大きいので、島の東側が全部大爆発したんじゃないかっていうような感じでした。




この瞬間から、15秒ぐらい記憶がありません。
とりあえず、「噴火」というか「フンカ」というか「爆発」みたいな判断をして、みんながいる家に戻って「噴火した!」と叫んでどうしたらいいかもわからず、隣人の森さんが逃げるために車に乗り込んでいるのをみて、ほかのみんながどう逃げるか考えることも無く、森さんの車にはしって乗り込みました。後ろから車に乗り切らなかった学生メンバーが走ってくる状態で、かなり何がなんだかわかりませんでした。
とりあえず森さんは、「走れ!!!」と何度も叫び、ある程度進んだところで、止めて、残りの学生も車に乗ることができました。5人乗りの箱バンに13人ぐらい乗って、港の方まで、行きました。港にはぞくぞくと人があつまってきました。そこで、池田研の学生が一人別行動になっていることに気づき、半々の確立でアウトかなと言う心づもりまでしました。あの黒煙がなんなのか、とくに問題ないのか、それとものまれたら死ぬのかわからなかったからです。でも2、3分後別の車でその彼も現れ、慶応の学生はとりあえず全員揃いました。

島の50代ぐらいまでの男性陣は全員消防団です。港まで行く途中、すでに漁師のたけしさんは消防車でサイレンをならしながら走っていて、ぼくらを港まで危険な中つれてきてくれた森さんも気付けば消防車からアナウンスをながしていました。
「番屋ヶ峰に避難してください。」ということでした。
みんなで車を分担しつつ、森さんは消防で動くので、森さんの車を僕の運転で、森さんの家族と慶応の学生で番屋が峰までいきました。そこに一通り全島民が集結しました。

最後にそこに現れたのは、山のボーリング工事をしていた業者の方々5名でした。もっとも危険な場所にいた人たちです。作業中に音がして急に真っ暗になって、石が飛んできたので、「逃げろー!!!」といって車には乗れず、5人で手をつないで灰が目にも口にも入る中、必死に歩いていたところを、栄一さんが久木山運送の箱バンで救助にきて、無事避難できました。火山灰が目に入り、いたいということで目薬を看護師さんが用意していました。

死傷者がいないということがわかり、一段落しました。
僕は、最初に港にいった時点で携帯が中身は動いてるんだけど、操作ができず、だれかに連絡とるにも、かかってきた電話にでることもできず、むしゃくしゃしていました。なんども画面タッチしていると、下の方からどんどん割れ目がみえてきて、森さんの車に乗り込んだときに
農協のきよしさん、久木山運送で自動販売機もあるのでかずきさん、の2人がジュースを大量にもってきて、全員に配りました。1、2時間してから、
・マグマの関係のない水蒸気爆発である。
・夕方から前田、田代、寝待、向江浜の人は本村公民館に避難する。
・公民館避難のために炊き出しするので、手伝える婦人の方は車に乗ってほしい。
という話がありました。
消防団の人たちと役場のひさしさんの感じ的に、あんな大爆発でも、きっとそこまで大きいものではなくて、そして今後噴火の可能性もそんなにないんだろうなという感じがしました。
夕方までまって、本村におりました。

本村温泉が開放され、公民館でおにぎりや煮物漬け物をいただいてから温泉にいきました。
シェアハウスの古賀さんが、「空けるから、学生とまっていいよ」ということで、慶応のメンバーはそっちにうつることになりました。

夜20時ぐらいだったかとおもうんですが、ぼくは携帯が壊れて、さすがに連絡とれないとやばいとおもって残された手段はPCからLINEを開くことでした。ただPCは火山灰にのまれた前田の家においてきたまま。池田研のひのきくんと一緒に、森さんに断りをいれて、とりにいくことにしました。無事戻ってきてからとりあえずアカペラのKOEのみんなに状況を報告。まだなにがどうなるかわからないのでまってくれといっておく。
じょーじさんの指示で、噴火おきたら怖いので男が当番で外で車の中から見張っておくことに。
じょーじさんはかなり気になるみたいで車から5分おきぐらいにおりてちょっと先までみてきてもどるというのを繰り返してた。たぶんここまでする必要もないし、そわそわしていることにまちがいはないけど、島外者の僕らには必要な緊張感だったんじゃないかとおもう。

僕は島の人たちと同じように動くとして、学生はみんな翌日帰京することで決まっていました。
夜中の12時半ぐらい。栄一さんから電話があり、「まだ町長の許可はとってないけれど、明日全島避難することになった。台風と噴火が一緒にこられたら困る。」と伝えられました。
明日は島中が台風の準備をして、みんなで外に出る、大変な一日になるんだと思いました。慶応メンバーは自分たちのことはすぐに終わらせて、ほかの島民の方々を手伝えるように6時に起きようと決めました。

1時ぐらいから少し寝て、2時半ごろじょーじさんにおこされ、じゃすみんさんと3人で夜明けまで山を眺めていました。6時に公民館にみんなでいき、今日の流れを確認しました。
とりあえず昨晩の時点で避難要請したけれど町から避難指示はでなかった。自主避難になるということ。も伝えられました。
栄一さんが端で電話で、もう一回考え直せないかという話を役場の誰かにしてました。
とりあえず、学生は帰る支度、ぼくは避難所生活の準備をしに、前田の家に。僕らからは15分あれば終わると話し、森さんは1時間は観て大丈夫といわれました。でも一旦土足であがり、やっているとなんだかせかせかしてくる。たしかに前田か本村でこれだけ状況がちがうのかというのもあったし。いざいってみると5分ぐらいでみんなぱぱっと外に出てしまい、本当に一瞬でした。噴火の記憶は心に強く刻まれていると思いました。
みんなで荷物をもって公民館に戻り、僕は久木山運送のシャツに着替えました。
そこで正行さんに、田代(民宿くちのえらぶ)の雨戸をしめるのを手伝ってほしい。と言われました。ひのきくんと2人で行くことに。庄二さんの民宿はすごく大きいから、雨戸だけで200パーツぐらいあるんじゃないかという勢い。ほんとにすごい。「いま朝ご飯つくってるから。」という衝撃的な一言目にはじまり、朝飯前に雨戸を全部とりあえず床下からだして、朝ご飯をいただく。庄二さんは全島避難の話はきいていたみたいだけれど、ぼくら同様ほとんど情報がつたわっていなかった。通常の時間に船が来ると伝えると、「そんなのみんなが避難するのに時間がなさすぎる。そんなのちょっとまってって、言うよ。」とか話しながら、「今度の台風は、屋根を吹き飛ばすとおもうんだよね。」ということで布団をビニールシートで覆ってから、雨戸の作業にうつりました。途中かずきさんに電話して、船が11時出航予定だということをききました。その時、たぶん9時20分ぐらいでそれすごい時間ないと感じました。久木山運送の船の仕事もすっかり忘れて死にものぐるいで雨戸を設置しました。途中じょーじさんから電話が来て、久木山運送の箱バンが必要だから至急もどってこいということで、飛ばして帰り、箱バンを船に乗せることがわかったので乗せました。
そこで、実際全島避難になるのかとか、町長がどう決断してるのかとか、なんにも自分が分かっていないことに気付きました。
とりあえず、ちぐささんといちろが歩いてきたので、荷物をもちながら、「全員避難するんですかね?」と聞き、「いや残る人もいるみたい。」と言われました。フェリーの中では古賀さんが、宅急便を屋久島で受け取るかえらぶにくるまで待つかを島民にきいて回っていました。それを手伝いながら、「社長って島でるんですか?」ときき、「いや、残るらしい」と言われました。そこで、全然全島避難ではないんだとわかりました。それでもフェリーには70人ぐらいました。お年寄りと発電所と消防団が残っている感じでした。とりあえずそのまま11時20分くらいに出航し、かなりのしけのなか屋久島に向かいました。僕は甲板のベンチで寝ました。

ここまでが噴火による避難までの出来事でした。つづきます。