やっぱり避けて通れない
マイルスのアルバム

「ハービー聴き」を始めた時に、「マイルスのアルバムは、入れるのは止めよう」と決めたのですが、ハービーの音楽を理解したいと思うと、いつもマイルスのアルバムに戻ってしまうのです。これは仕方がないので、ハービーを聴くという観点から、はじまりと終わりのマイルスのアルバムも聴いてみることにしました。そりゃー、そうだろう!!パチパチパチ(笑)。
オイラ最近、マイルスのアルバムに感激することが多いからね。

●tommyの「今日のハービー・ハンコック聴き」
Tommy's Jazz Caf'e ジャズ ブログ
Seven Steps to Heaven/Miles Davis(1963/Columbia)
Miles Davis(tp)Ron Carter(b)
1, 3, 5:Victor Feldman(p)FrankButler (ds)
Columbia Studios, Los Angeles, CA, April 16, 1963
2, 4, 6:George Coleman(ts)Herbie Hancock(p)
     Tony Williams(ds)
Columbia 30th Street Studios, NYC, May 14, 1963

1. Basin Street Blues
2. Seven Steps To Heaven
3. I Fall In Love Too Easily
4. So Near, So Far
5. Baby Won't You Please Come Home
6. Joshua

◎ハービー初参加のアルバム。まだ、ウェイン・ショーターは加入していない。ハービーとヴィクター・フェルドマンを比べると、オイラはこの時点ではフェルドマンの方がピアノも音楽的素養も高いと思う(スコット・ラファロのことも調べていたので、多少はフェルドマンの音楽歴も知っているぞ)。
フェルドマンのピアノはデリカシーの塊だ。マイルスがビル・エバンスのようなピアニストを望んだのなら、確実にフェルドマンになったと思う。いや、ホントはフェルドマンに加入して貰いたかったと思うが、フェルドマンは「L.A.を離れたくない」と断ったらしい。
メンバーを見るとベースはロン・カーターで決定。フェルドマンのやりやすさを考えてのフランク・バトラーなので(かなりフェルドマンに気を使っているマイルスが分る。そうでなければトニーもついていったはず。実際ジョージ・コールマンは連れていっているのだ)、ドラムもトニー・ウィリアムスで、ほぼ決定していたと考えていい。
問題は楽曲を扱える才能が欲しかった。マイルスは作曲、編曲のスコアが書ける人材が欲しかったと考えるのが妥当だと思う。この時点で考えるとフェルドマンの方が優れている。
しかし、マイルスはすでにフェルドマンから「NO!」の返事は貰っていた。「オレが誘ってもか~っ」とマイルスは思ったに違いない(笑)。そこでフェルドマンの勧誘は諦めたが、楽曲は提供させたのが《セブン・ステップス・トゥ・ヘブン》《ジョシア》だ。
L.A.のショービジネスっぽい、白人好みなメロディー。フェルドマンが弾いていたらもっと軽く優雅なものになっていただろう(これは是非探して聴いてみたい『セブン・ステップス:ザ・コンプリート・コロンビア・レコーディングス・オブ・マイルス・デイビス1963-1964』という7枚組のボックス・セットに収録されている)。
ハービーをスタジオに呼んだ時点で、フェルドマンの不参加は決定していたと思う。決してマイルスは二人を天秤に掛けた分けではない。
このアルバムのハービーのピアノはフツーです。「才能の片鱗が伺える」などと云う方がいますが、それはウソ。当時のジャズピアニストはこのくらいはできないとダメだったと思いますよ。まぁ、平均点以上ってところ。「もうクセのある黒っぽい、タメの強いピアニストはいらない!」と思っていたマイルスには、ハービーは丁度良かった(笑)。

この時期、マイルスのトランペットの色艶はスコブルいい。次に行くためにも楽曲を扱える才能の確保が重要だった。ハービーは悪くなかったが、まだ音楽の幅が狭かった。できればクラシックのオーケストラのスコアが書けるくらいの人材が、メンバーに欲しかったのだ。
実際、それからの1年間はライブばかりで、マイルスの大きな音楽的な変化はない。ハービーも、まだ発展途上だったのだ。
一年後、前に誘って断られたウェイン・ショーターの参加が決った時、マイルスは飛び上がって喜んだ。すっかり安心していたジョージ・コールマンは、奈落の底に突き落とされたのだ。「えっ、オレがクビ?どういうこと?フザケンな!」とガッカリ肩を落とした。
でもマイルスは、恨み辛みがショーターにいかないように、スポットでサム・リバースを挟む気遣いの人でもあったのだ(Miles in Tokyo/笑)。
万事物事はそうなるように流れていくものである!それ以上にマイルスは、若い黒人メンバーの音楽に対する情熱と仲の良さが気に入っていたのだ(メンバー間のトラブルには懲りていた/笑)。

$Tommy's Jazz Caf'e ジャズ ブログ
Miles in the Sky/Miles Davis (1968/Columbia)
Miles Davis(tp)Wayne Shorter(ts)
George Benson(g)Herbie Hancock(p)
Ron Carter(b)Tony Williams(d)
Columbia Studio B, NYC, Januari 16, May 15-17, 1968


◎ハービーのマイルスとの最後のアルバムは、『マイルス・イン・ザ・スカイ』ではない。このアルバムの後にも、ハービーはちょくちょくスタジオに呼び出され、1972年の『オン・ザ・コーナー』までズルズルと手伝わされているのだ。ジョー・ザヴィヌルが1969年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』は自分の曲だ!と言っていることだし。"黄金のクインテット"と呼ばれたメンバーが、最後に揃って録音した『マイルス・イン・ザ・スカイ』を、ハービーとマイルスの最後のアルバムとしたい。
「俺たちの関係は、とっくに終わっていたんだぜ」ということだろう(笑)。
ホントは1967年の『ネフェルティティ』くらいにしておきたいところだが、エレクトリック・サウンドの導入の影響は、それからのハービーにとっても大きいので、『マイルス・イン・ザ・スカイ』くらいがいいだろう。
どうですかね?雲さん(笑)。

まず、この方向に行くことに難色を示したのは、ロンとトニーだということはすぐに分かる。「ワンパターンのリズムを繰り返しているなんて、俺たちのやることではない!」といいたそうだ。エレベを弾かされたロンは諦めて「エレベの奴でも入れればいいんだよ」と、地味に弾くことに徹しているが、トニーがまだ諦めていないのだ。ガンガンに揺さぶってくるので、ちよっと浮いていま~す(笑)。
マイルスは「そろそろ、トニーのドラムがじゃまだなぁ、もっとタイトに叩く奴にしよう」と決心するのですが、情が邪魔して『イン・ア・サイレント・ウェイ』まで引張ってしまいます(笑)。
ハービーも困っています。ジョージ・ベンソンがフレーズ間にコードの刻みを入れはじめたら、やることがなくなってしまいました(笑)。
しかし、ベンソンがソロを弾きはじめたところでマイルスは「この音だとフツーのジャズになってしまう、ここはやっぱり歪ませたエレピで行こう!」と気づきます。まぁ、ベンソンのプレイ・スタイルが古かったのですが(笑)。
なぜ、ジョージ・ベンソンだったんだろう?

レコーディングを終わってマイルスは頭を抱えてしまいます。「悪くはないんだけど、新しくはない!ロックには勝てない!これは卒業記念アルバムつーことで、とりあえず解散~!!」
マイルス・イン・ザ・スカイ』は'60年代のマイルス"黄金のクインテット"の卒業記念スタジオ・セッション・アルバムです。来賓、ジョージ・ベンソン(笑)。

●tommyの戯言
マイルス・イン・ザ・スカイ』はそれ程、エレクトリックなアルバムではありません。それよりも、このアルバム前後にチック・コリアやジョー・ザビヌル、キース・ジャレットがマイルスの前に現れたのが、ハービーは驚異だったのだと思います。
音楽的な考え方、方法論の多くをマイルスから学んだハービーにとって、マイルスが次のキーボード・プレイヤーを探し始めた事に落胆はあったと思いますが、ここはグッと堪えて'68年以降もマイルスのアルバム制作に協力します。そこで見た事、やったことがハービー流の解釈となってジャズ・ファンク『ヘッド・ハンターズ』の大ヒットに繋がるのです。まぁ、元ネタとしては『オン・ザ・コーナー』あたりが怪しいと言えばあやしい~(笑)。
'68~'72年にマイルスの"エレクトリック実験室"に訪れた面々は、マイルスから次の音楽を伝授され、それぞれの解釈で新しいジャズに取組んでいきます。ウェザ・リポート(1971)、リターン・トゥ・フォーエヴァー(1972)、ヘッド・ハンターズ(1973)は、この時期にマイルスの実験室に参加していなければ、実際に結成されたのかどうかは疑問。まぁ、影響とはそんなものです。
チック・コリアは、「マイルスによって視野が開けた、ジャズがこんなにも自由な音楽だということをはじめて体験した」と語っています。