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お腹が空いていないのに冷蔵庫を開けるとき、

私が探しているのは、

たいてい食べ物ではありません。

 

夢中になれるものが見つからないから、

とりあえずゆで卵の在庫を確認しています。

 

そして残念ながら、冷蔵庫の奥に、

人生を面白くする何かが冷やされていたことは、

まだ一度もありません。

 

今日の私は、

朝からきちんとご飯を食べていました。

 

空腹ではありません。

 

胃からも、特に緊急の連絡は届いていません。

 

それなのに、少し時間が空くと、

何か食べたくなりました。

 

甘いものでも食べようかな。

さつまいもなら身体に良さそう。

ゆで卵ならタンパク質だから、

これは間食ではなく栄養補給ということにできる。

 

人は食べたい理由が見つからないと、

急に栄養学を持ち出します。

 

けれど、本当は何が食べたいのか、

自分でもよく分かっていませんでした。

 

お菓子が食べたいわけでもない。

お腹を満たしたいわけでもない。

口寂しいと言えば、

たしかにそうなのかもしれません。

 

でも、もっと正確に言えば、

私は退屈していました。

 

何かやらなければならないことが

あるわけでもない。

 

いや、あるんだけど、

緊急性ではない。

 

急いで終わらせたい仕事が

あるわけでもない。

 

観たい映画も、読みたい本も、

今すぐ取りかかりたい文章も浮かばない。

 

いや、あるんだけど

観ようという気になれないし、

読もうという気になれないし、

書こうという気になれない。

 

時間はあるのに、

その時間を渡したい相手が

いないような感覚でした。

 

だから私は、食べることで

時間に小さな予定を入れようと

していたのだと思います。

 

冷蔵庫を開け、中を眺める。

 

何を食べるか考える。

 

冷蔵庫から取り出し、口に入れる。

 

味を感じる。

 

食べている数分間だけは、

「何をしたらいいか分からない」

という状態から離れられます。

 

食べることは、手軽です。

 

準備もそれほどいらないし、

始めればすぐに刺激が返ってくる。

 

おいしい、甘い、温かい、冷たい。

 

少なくとも、退屈よりは

分かりやすい感覚を与えてくれます。

 

だから私は、

お腹を満たそうとしていたのではなく、

何も起きていない時間を

埋めようとしていたのでしょう。

 

食べ物が欲しかったというより、

今の状態を変えたかった。

 

もっと言えば、

私は夢中になりたかったのです。

 

何かを考えているうちに時間を忘れる。

 

言葉を探しているうちに、

さっきまでの退屈が消えている。

 

誰かと話しているうちに、

自分でも知らなかった考えにたどり着く。

 

私は、そういう時間が欲しいけど

それが見つからない時、

代わりに冷蔵庫を開けてしまっている。

 

これは、食べることに限った話

ではないと思います。

 

寂しいから、誰かに連絡する。

不安だから、買い物をする。

自信がないから、

もっと実績を増やそうとする。

自分が何を感じているのか分からないから、

とりあえずスマホを開く。

 

どれも悪いことではありません。

 

食べることも、買うことも、

誰かを頼ることも、実績を積むことも、

それ自体には何の問題もない。

 

ただ、ときどき

本当に欲しいものとは少し違うもので、

自分を満たそうとしてしまう。

 

そして、それがうまくいかないと、

食べたのに満たされない。

買ったのに気分が晴れない。

人と会ったのに寂しい。

結果を出したのに安心できない。

そんなことが起こります。

 

欲しかったものと、手に入れたものが、

ほんの少しずれているからです。

 

けれど、このずれは、

自分を責めても見つかりません。

 

「また食べようとしている」

「意志が弱い」

「暇なら何かすればいい」

 

そうやって自分を取り締まると、

行動だけは止められるかもしれません。

 

でも、自分が本当に欲しかったものまで、

見えなくなります。

 

だから私は、冷蔵庫を開けた手を

すぐに引っ込めなくてもいいと思っています。

 

食べたいなら、食べてもいい。

そのうえで、扉を開けたまま一度だけ、

自分に聞いてみる。

 

私は今、何を食べたいんだろう。

それとも、何かを始めたいんだろう。

誰かと話したいのか。

頭を使いたいのか。

気分を変えたいのか。

安心したいのか。

何もしたくない自分を、許してほしいのか。

すぐに答えが出ないかもしれない。

 

「分からない」と気づくだけでも、

何も考えずに食べるときとは少し違います。

 

そして、何かが食べたいのではなく、

退屈から抜け出したいのだと分かったなら、

いきなり人生を変えるようなことを

探さなくてもいいと思うんです。

 

今日一番引っかかったことを、

一行だけ書いてみたり。

誰かに話したかったことを、声に出してみたり。

読みかけの本を、二ページだけ開いてみたり。

外の空気を吸いながら、

自分は今どんな時間を欲しがっているのか考えてみたり。

 

夢中になれるものは、

いつも壮大な目標の姿で現れるわけではない。

 

何気ない違和感に

少し長く立ち止まった先に、

見つかることがあります。

 

今日の私にとっては、

「なぜ、お腹が空いていないのに食べたくなるのか」

という小さな疑問が、それでした。

 

こんなことを考えて何になるのだろう、と言われれば、

すぐには何にもならないかもしれません。

 

冷蔵庫は相変わらず冷蔵庫ですし、

ゆで卵が急に人生の答えを

話し始めることもありません。

 

けれど私は、こういうところから

人のことを知っていくのが好きです。

 

大きな夢を聞くことよりも、

その人が何気なく繰り返していること。

 

立派な目標よりも、なぜか手放せない習慣。

 

「幸せになりたい」というきれいな言葉よりも、

その人にとって、どんな瞬間を幸せと呼ぶのか。

 

私は、目の前の人から

仕事の目標や将来の望みを聞くことがあります。

 

多くの人は、きちんと答えてくれます。

 

もっと売上を上げたい。多くの人に届けたい。

誰かの役に立ちたい。自由に働けるようになりたい。

どれも嘘ではありません。

 

その人は本当に、そう思っているのだと思います。

 

でも私は、その言葉の奥に、

まだ別の何かがあるように感じるんです。

 

売上が欲しいのではなく、

もう誰かに生活を握られたくないのかもしれない。

 

多くの人に届けたいのではなく、

たった一人に「分かってもらえた」

と思いたいのかもしれない。

 

自由に働きたいのではなく、

自分で決めたことを

自分で変えられる人生が欲しいのかもしれない。

 

本人が話している言葉を

否定したいわけではありません。

 

むしろ、その言葉が

どこから生まれたのかを知りたいのです。

 

その目標は、本当にその人の望みなのか。

誰かに立派だと思われるために

選んだものなのか。

叶えた先で、どんな感情を味わいたいのか。

本当は何を守りたかったのか。

 

私は、表面に出てきた言葉を、

きれいに並べるだけの仕事には

あまり興味がありません。

 

言葉になったものよりも、

その言葉になる前に、

その人の中で何が動いていたのか。

そこに興味があります。

 

仕事の話を聞いているようで、

私はその人の生き方を聞いています。

 

恋愛の話を聞いているときも、

人間関係の話を聞いているときも、

見ているものは同じです。

 

その人は、何を大切にしてきたのか。

何を失うことが怖かったのか。

どんなときに自分らしくいられたのか。

本当は、どんな人生を選びたかったのか。

 

仕事、恋愛、生活、人間関係。

 

分かりやすく伝えるために

名前を分けているだけで、

その人の中では全部つながっています。

 

仕事では他人の期待に応え続け、

恋愛だけでは自由に生きるということは、

簡単ではありません。

 

人間関係で

自分の気持ちを飲み込み続けている人が、

発信のときだけ本音を語るのも難しい。

 

どこかで自分を後回しにしていれば、

その癖は形を変えて、別の場所にも現れます。

 

反対に、自分が何を感じ、何を望み、

何を大切にしたいのかを知ることができれば、

それは仕事だけでなく、恋愛にも、

暮らしにも、人との関わりにも表れます。

 

だから私は、日常の小さな行動を、

ただの癖として片づけたくありません。

 

お腹が空いていないのに

冷蔵庫を開けたことも、

約束が近づくと窮屈になることも、

誰かの何気ない一言がずっと心に残ることも。

 

そこには、その人が言葉にできていない

願いが隠れていることがあります。

 

もちろん、すべての行動に

壮大な意味があるわけではありません。

 

本当にただプリンが食べたい日もあります。

それは、ぜひ食べたほうがいい。

 

けれど、何度満たしても

同じ場所に戻ってしまうときは、

目の前にあるものとは

別の何かを求めているのかもしれません。

 

私は、その「別の何か」を、

本人より先に決めたくありません。

 

あなたが欲しいのは安心です。

あなたが求めているのは承認です。

そんなふうに、分かった顔で答えを渡したくない。

 

その人自身が、

「私が欲しかったのは、これだったのかもしれない」

と、自分の言葉で見つけるところまで一緒にいたい。

 

なぜなら、自分で見つけた答えだけが、

その人の人生を動かせると思っているからです。

 

私は、誰かの正解を

作りたいわけではありません。

 

その人が、

自分の中に眠っていたものに気づき、

自分で選び直せるようになるための対話をしたい。

 

冷蔵庫を開けた手の奥に、

夢中になりたいという願いがあったように。

 

立派な目標の奥にも、

誰にも見せてこなかった

小さな願いがあるかもしれない。

 

私は、そういう願いを見つけることを

大切にしています。

 

それが仕事だからではありません。

 

私は、人と関わるときも、

自分の人生を考えるときも、

同じようにありたいからです。

 

目に見える行動だけで、その人を決めつけない。

口にした言葉だけで、分かったつもりにならない。

 

すぐに正しい答えへ連れていくより、

その人の中から出てくる答えを待つ。

 

人は、自分でも気づいていないほど深いところで、

ちゃんと何かを願っています。

 

私は、その願いが

言葉になる瞬間に立ち会いたい。

 

たとえ始まりが、

冷蔵庫の前だったとしても。

 

 

 

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私は今年、42歳になります。

 

結婚もしたことがありますし、

離婚も経験しました。

 

自分の人生くらい、

自分で決められる年齢です。

 

……と、頭では分かっています。

 

分かっているのに、

愛媛に引っ越すことを母に伝えるのが、

ものすごく怖かったのです。

 

41歳にもなって、母親に

「なんて言おう」と

何日も考えている自分を冷静に眺めると、

なかなか味わい深いものがあります。

 

いや、味わい深いとか

言っている場合ではありませんでした。

かなり真剣でした。

 

私は頭の中で何度も何度も

リハーサルをしていました。

 

「愛媛に行こうと思っていて」

軽すぎる。

 

「実は大事な話があって」

重すぎる。

 

「人生がちょっと動きそうで」

怪しすぎる。

 

どの言い方もしっくりこなくて、

言葉を選べば選ぶほど、

逆に何も言えなくなっていきました。

 

それは、ただの引っ越し報告では

なかったからです。

 

私にとって愛媛へ行くことは、

しげちゃんとの暮らしや仕事、

これからの人生に深く関わる、

大きな選択でした。

 

そして私は、しげちゃんのことを

母にどう伝えたらいいのか分からなくて、

ずっと立ち止まっていました。

 

しげちゃんは、25年前の交通事故で

首の骨を折り、頸椎損傷で肩から下が動かず、

電動車椅子で生活しています。

 

日常生活には24時間の介助が必要です。

 

そう書くと、多くの人はきっと

「介護」を想像すると思います。

 

家族がつきっきりで身の回りのことをすること、

誰かが生活を背負うこと、

大きな覚悟をして支えること、

身内が犠牲になること。

 

私も、しげちゃんに出会う前は、

そういうイメージを持っていました。

 

障害のある人の暮らしや、

自立生活というものを、

私はほとんど知りませんでした。

 

でも実際には、

しげちゃんは自立生活をしています。

 

自立生活というのは、

何でも一人でできるという意味ではありません。

 

自分の暮らしを自分で選び、

必要な支援を制度やヘルパーさんの力を借りながら

組み立てていく生き方です。

 

できないことがあるなら、

必要な人に頼む。

 

介助が必要なら、ヘルパーさんの力を借りる。

 

暮らしを、自分の意思でつくっていく。

 

それは、誰かが犠牲になって

成り立つ生活ではありません。

 

少なくとも私がしげちゃんと過ごして感じたのは、

そういうことでした。

 

もちろん、私も最初から

分かっていたわけではありません。

 

何日も一緒に過ごして、

暮らしを見て、関わる中で、

「ああ、こういうことなんだ」

と少しずつ体で分かっていった感覚です。

 

でも、その感覚を、

母にどう説明したらいいのか

分かりませんでした。

 

私は普段、人の背景や思いを

言葉にする仕事をしています。

 

プロフィールを書いたり、

リールのシナリオを作ったり、

その人自身もまだ気づいていない価値を

言葉にする仕事です。

 

なのに、自分にとって

本当に大切な話になると、

急に言葉が出てこなくなる。

 

これはかなり悔しくもどかしいものです。

 

「いや、普段あれだけ

人の人生を言葉にしてるでしょ!」

と、自分で自分にツッコミを入れたくなりました。

 

でも、本当に大切なことほど、

うまく説明できないのだと思います。

 

それはきっと、

その人を雑に伝えたくないからです。

 

私が一番怖かったのは、

自分の選択を否定されることではありませんでした。

 

たぶん、自分のことなら何とかできます。

 

私は自分の選択にいつも

絶対的な自信があるタイプではありません。

 

むしろ、選んだあとで

「これでよかったのか」と

布団の中で反省会を開くタイプですし、

しかもその会議はだいたい長い。

 

でもそれでも、

結局やらないと気が済まないところがあります。

 

反対されても、心配されても、

最終的には「でも私は行きたいんだよね」

と言ってしまう。

 

説得なのか、言いくるめなのか、

もはや分からない何かで押し切る力は、

たぶんあります。

 

けれど、今回怖かったのは

そこではありませんでした。

 

私が一番怖かったのは、

しげちゃんを誤解されることでした。

 

私の伝え方ひとつで、

しげちゃんが「大変な人」として

見られてしまうかもしれない。

 

「一緒にいるには覚悟が必要な人」として

受け取られてしまうかもしれない。

 

「あなたが全部背負うことになるんじゃないの」

と、母に思わせてしまうかもしれない。

 

それが、どうしても嫌でした。

 

なぜなら、私にとってしげちゃんは、

背負う相手ではなかったからです。

 

母に話せなかった本当の理由は、

愛媛へ行くことではありませんでした。

 

私が怖かったのは、大切な人を誤解されることでした。

 

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もう動けないと思っているのに、

なぜか、きれいには手放せない。

 

もう考えたくないはずなのに、気づけばまた、

うまくいかなかった理由を考えている。

 

それは、決断できないからではありません。

 

本当はまだ、終わっていないからです。

 

何度挑戦しても、

思うような結果につながらなかった。

 

自分なりに考えて動いても、

なかなか伝わらなかった。

 

やり方を変えたり、学び直したり、

ときには自分の感覚まで疑いながら、

どうにか前へ進もうとしてきた。

 

それでも結果がついてこなければ、怖くなります。

 

もう一度動いて、

また何も変わらなかったらどうしよう。

 

今度こそと思った分だけ、

また傷ついてしまったらどうしよう。

 

次の一歩が重くなるのは、

覚悟が足りないからではありません。

 

これまでの一歩一歩に、

それだけの思いを込めてきたからです。

 

表面だけを見れば、

止まっているように見えるかもしれません。

 

けれど、本当に何も感じなくなった人は、

こんなに迷いません。

 

もっと簡単に離れられます。

 

もうどうでもいいと、別の方向へ進めます。

 

何度考えても戻ってくる。

 

離れたほうが楽だと分かっているのに、

離れきれない。

 

もう期待したくないと思いながら、

心のどこかでは、まだ何かを待っている。

 

そのスッキリしなさは、

往生際の悪さではありません。

 

諦めきれないほど、

大事にしているものがあるということです。

 

まだ届けたい人がいる。

 

まだ伝えきれていないことがある。

 

まだ、自分が信じてきたものを、

間違いだったことにはしたくない。

 

だから、前にも後ろにも

進めなくなるのだと思います。

 

前へ進めば、また思うような結果に

つながらないかもしれない。

 

勇気を出して差し出しても、

必要な人に見つけてもらえないかもしれない。

 

けれど、ここで終わりにしてしまえば、

これまで大切にしてきたものまで、

自分の手で捨てることになる気がする。

 

どちらを選んでも痛いから、動けなくなる。

 

それなのに外からは、

「迷っている」

「もっと行動すればいい」

「覚悟を決めたほうがいい」

と見えることがあります。

 

でも、その迷いは、

気持ちが弱い証拠ではありません。

 

まだ消えていないものがある証拠です。

 

もう信じたくないと思うのは、

信じることに疲れたからです。

 

もう期待したくないと思うのは、

期待するたびに傷ついてきたからです。

 

それでも完全には手放せないのは、

本当はまだ、信じているものが残っているからです。

 

その気持ちは、自信のようには見えません。

 

「絶対にうまくいく」と

言えるほど強くもありません。

 

むしろ、未練や執着や、

諦めの悪さのように見えることがあります。

 

けれど、本当に消えてしまった思いは、

こんなふうに何度も心を揺らしません。

 

別のことをしていても戻ってくる。

 

考えないようにしても、

どこかに引っかかっている。

 

終わらせようとすると、

心の奥で何かが止める。

 

それは、まだ答えが出ていないからではなく、

まだ終わりにしたくないからかもしれません。

 

だから今は、無理に

前を向かなくてもいいのだと思います。

 

もう一度頑張ろうと決めなくてもいい。

 

次の方法を探さなくてもいい。

 

自分を信じようとしなくてもいい。

 

信じられなくなった心には、

信じられなくなるまでの時間があったからです。

 

何度も期待して、何度も考えて、

そのたびに自分を立て直してきた。

 

一度つまずいただけではありません。

 

動けなくなるところまで、

何年も何度も動いてきたのです。

 

そこを飛ばして、

次の行動だけを求めなくていい。

 

まずは、

「こんなに悩んでいるのは、

まだ諦めていないからかもしれない」

と気づくだけで十分だと思います。

 

自分を信じるというのは、

「次はきっとうまくいく」

と確信することではありません。

 

結果が出る保証がなくても、

自分の中から消えなかったものを、

なかったことにしないことです。

 

思うような反応がなかったとしても、

伝えたことを必要としている人が

いないわけではありません。

 

まだ、その人に

見つけてもらえるところまで

進んでいなかっただけかもしれません。

 

結果がついてこなかったからといって、

大切にしてきた考えまで

間違っていたことにはならない。

 

うまく届かなかったからといって、

届けようとしたものまで否定しなくていい。

 

見つけてもらうまでには、

時間がかかることがあります。

 

言葉と必要な人が出会うまでに、

何度か届け方を変えなければならないこともあります。

 

それでも、まだ出会っていないことと、

誰にも必要とされないことは、同じではありません。

 

だから、すぐに

信じ直せなくても大丈夫です。

 

今はまだ、怖さのほうが大きくてもいい。

 

慎重になったのは、

弱くなったからではありません。

 

これ以上、自分を

雑に扱いたくなくなったからです。

 

本当は、やめたいわけではなかった。

 

もうどうでもよくなったわけでもなかった。

 

ただ、もう一度信じて、

また傷つくための力が残っていなかった。

 

そう考えると、

止まっている自分の見え方は、少し変わります。

 

諦めた人ではなく、

まだ大切にしているものがある人。

 

動けない人ではなく、もうこれ以上、

自分を置き去りにしたくない人。

 

自信を失った人ではなく、何度傷ついても、

完全には消えなかった思いを持っている人。

 

それは、立派な勇気には見えないかもしれません。

 

胸を張れるほどの自信でもないかもしれません。

 

けれど、何度終わらせようとしても

残っていたその気持ちは、

自分の中に残された、いちばんの信頼です。

 

今すぐ、それを強く信じなくてもいい。

 

次の一歩に変えなくてもいい。

 

ただ、

「まだ、ここにあったんだ」

と気づいておく。

 

自分を信じ直すことは、

大きな決意から始まるのではなく、

消えずに残っていた気持ちを、

今度は自分で見落とさないことから

始まるのだと思います。

 

 

 

 

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相手の事情を考えられる人ほど、

自分の気持ちを後回しにします。

 

そして最後には、

「これくらいで傷つく私がおかしい」

と、自分まで自分の気持ちを否定するようになります。

 

父が私の車にぶつけた日も、

事故を起こした父ではなく、

私が謝りました。

 

話の通じない人を説得するより、

話の通じる人に我慢してもらうほうが、

早くその場が収まる。

 

怒っている人を落ち着かせるより、

怒らない人に折れてもらう。

間違いを認めない人を説得するより、

事情を理解できる人に、

「今回は分かってあげて」

と頼む。

そのほうが、圧倒的に楽だからです。

 

「分かってくれる人」に我慢させる

相手の気持ちを想像できる人は、

周囲から「分かってくれる人」として扱われます。

 

それ自体は、悪いことではないし、

人を一部分だけで決めつけず、

背景まで考えられることは、

優しさでもあると思います。

 

ただ、その優しさがある人ほど、

なぜか我慢する側に回される。

 

「あなたなら分かるでしょう」

「大人なんだから」

「相手にも事情があるから」

 

そう言われるたびに、

自分の気持ちより相手の事情を優先し、

嫌だったことも、悲しかったことも、

少しずつ飲み込んでいきます。

 

そして何度もそれを繰り返しているうちに、

誰かに我慢させられなくても、

自分で自分に我慢を命じるようになります。

 

「相手にも事情があったのだから、

これくらいで傷ついてはいけない」

「私が気にしなければ済む話だった」

「いつまでも怒っている私のほうが、

大人げないのかもしれない」

 

私は長い間、そうやって自分の気持ちを消すことを、

大人になることだと思っていました。

 

父が私の車にぶつけた日

その日、私は自宅の駐車場に車を駐めていました。

いつもなら父のほうが先に帰っているのですが、

その日はたまたま私のほうが早く、

すでに車を駐めていたところへ父が帰ってきて、

私の車に気づかないまま勢いよくバックし、

そのままぶつかりました。

 

ここまでなら、話はとても簡単です。

 

止まっている車にぶつけた人が謝り、

ぶつけられた人が謝られるという流れは、

事故にそれほど詳しくない私でも、

おそらく一般的だと理解しています。

 

ところが、父は謝るどころか怒りました。

 

いつもは自分のほうが先に帰宅しているのに、

その日は私の車が止まっていたこと。

 

普段と状況が違ったせいで気づかなかったこと。

 

それを強く主張し始め、つまりは、

「いつもと違う時間に私が帰宅して、

そこに車を止めていたせいで事故が起きた」

という理屈になりました。

 

私の車は、ただ駐まっていただけです。

 

突然飛び出したわけでも、

父の帰宅時刻を狙って待ち伏せしていたわけでも、

駐車場を自由意思で徘徊していたわけでもありません。

それでも、なぜか私が悪いことになりました。

 

事故を起こした人ではなく、話の通じる人が謝った

父がキレ散らかし、

まともに話し合える状態ではなくなると、

母が私に言いました。

 

「お父さんに謝ってきて」

 

母も、父が悪いことは分かっていました。

 

私の車が先に止まっていたことも、

父が確認せずにバックしてきたことも理解していたはずなのに、

父に謝らせるのではなく、

私に謝るよう求めました。

 

父に間違いを認めさせようとすれば、

さらに怒るかもしれない。

けれど、私なら話が通じる。

事情も理解できる。

私が一度謝れば、この場は収まる。

 

事故を起こした人ではなく、

話の通じる人が謝ることになったのです。

 

私は母に、

「私は一ミリも悪いと思っていないから」

とだけ伝え、それでも父に謝りました。

 

悪いと思ったからでも、

父の言い分に納得したからでもありません。

 

これ以上怒鳴られるのが嫌だった。

母を困らせたくなかった。

何より、私が折れることが、

この理不尽な時間を終わらせる

最も早い方法だと分かってしまったからです。

 

たしかに、その場は丸く収まりました。

 

ただし、その丸の中に、

私の気持ちは入っていませんでした。

 

相手の事情は考えられるのに、自分の痛みは後回しにする

今なら、父のことも少し理解できます。

 

自分が車をぶつけたことに驚き、

自分の非を認められないまま、

引くに引けなくなったのかもしれません。

 

母も私を傷つけたかったわけではなく、

とにかくその場を早く収めたかっただろうし、

父を説得するより、私に我慢してもらうほうが

早いと判断したのだと思います。

 

私は昔から、何か嫌なことをされても、

まず相手の事情を考えます。

 

疲れていたのかもしれない。

余裕がなかったのかもしれない。

本当は悪いと思っているけれど、

素直に謝れなかったのかもしれない。

 

相手を悪者にしないための理由なら、

頼まれていなくてもいくらでも作れるのに、

自分が傷ついた理由だけは、

いつも後回しにしていました。

 

けれど、相手を悪者にしない理由を探しているうちに、

私が傷ついた事実まで、

一緒に無かったことにしていました。

 

私は悪くありませんでした。

 

止まっていただけの車をぶつけられ、

そのうえ私が謝らされ、

母にも味方をしてもらえなかったのだから、

傷ついて当然だったと思います。

 

それなのに私は、

自分がどれだけ理不尽な扱いを受けたかよりも、

父や母にどんな事情があったのかばかりを考えていました。

 

相手を理解することで、見ないようにしていた痛み

ただ、私が相手を理解しようとしていたのは、

優しいからだけではありません。

 

父が理不尽だったことも、

母が私ではなく父の感情を優先したことも認めてしまったら、

「私は家族の中で守ってもらえなかった人だった」

という事実まで認めることになってしまうからです。

 

それを受け止めるより、

「父にも事情があった」

「母も仕方がなかった」

と考えるほうが、

まだ耐えやすかったのだと今なら思います。

 

相手を理解することで、

自分が大切にされなかった痛みを

見ないようにしていたのもあります。

 

父も仕方がなかった。

母も仕方がなかった。

家族なのだから仕方がなかった。

そうやって全員に「仕方がなかった」という判決を出したあと、

私の感情だけが行き場を失いました。

 

相手の事情が分かっても、傷は消えない

誰かの事情が分かると、

もう怒ってはいけないような気がしてしまう。

 

相手が不器用だったと知れば、

許さなければならない。

 

悪気がなかったと分かれば、

傷ついた自分のほうが気にしすぎ。

 

家族なら、いつまでも根に持ってはいけない。

 

そんなふうに感じます。

 

でも、父が引くに引けなくなったことを理解できても、

私が謝らされた理不尽さは消えません。

 

母がその場を収めたかったことを理解できても、

私の気持ちより父の怒りを優先した事実は変わりません。

 

父には父の背景があり、

母には母の事情があり、

そして私には私の感情があります。

 

この三つは、どれか一つを正解として選ぶものではありません。

 

相手の背景を理解することと、

その人の行動を正しいことにするのは別です。

 

誰かを悪者にしないことと、

自分が傷ついた事実を消すことも別です。

 

「相手にも事情があった」と理解しながら、

「それでも私は嫌だった」

と認めていい。

「悪気はなかった」と分かっていても、

「私は悲しかった」

と言っていい。

「家族を愛している」という気持ちと、

「家族に守ってもらえなかった」という痛みも、

同じ自分の中に存在していいのです。

 

自分の話になると、急に閉店時間を早める

相手の背景を理解できる人ほど、

ここを飛ばしてしまいます。

 

相手の話は丁寧に聞くのに、

自分の話になると、急に閉店時間を早めます。

 

「はいはい、私にも悪いところがありました」

「相手も大変だったので仕方ありません」

 

そうやって自分の気持ちだけ、

十分に聞かないまま話を終わらせてしまいます。

 

でも、本当に必要だったのは、

相手の事情をさらに深く考えることではなく、

ずっと後回しにしてきた自分の気持ちを、

一度きちんと聞くことでした。

 

相手の事情を考える前に、自分の感情を書く

相手の事情ばかり考えてしまう人が、

自分の気持ちを取り戻すために必要なのは、

相手を理解するのをやめることではありません。

 

優しくなくなる必要もなければ、

突然すべての人に怒りをぶつける必要もありません。

 

ただ、相手の事情を考える前に、

私はほんの少しだけ自分の話を聞く時間を作るようにしています。

 

スマホでも、AIでも、なんのメモでも構いません。

 

まずは、自分が感じたままに、

その気持ちを書き出します。

 

このとき、

「嫌だったけれど、相手にも事情があった」

と、すぐに続けないことが大切です。

 

私のような人は、

放っておいても相手の事情を考えてしまうので、

どんなに最低な心の声が出てきても、

とりあえず自分の感情を出すことが大事です。

 

許さなくていい。

感謝に変換しなくていい。

前向きな学びへ着地させなくてもいい。

 

心の中では号泣しているのに、最後だけ急に、

「この経験に感謝です」

とまとめなくていいんです。

 

まずは、自分の中に確かにあった感情を、

もう自分までなかったことにしない。

 

そのあとで、相手の背景を考えるのか、

距離を置くのか、言葉にして伝えるのかを選べばいいのです。

 

置き去りにしてきた気持ちまで、文章にしたい

私は今、人の話を聞き、

その人の背景や気持ちを文章にする仕事をしています。

 

どんな経験をしてきたのか。

何を嫌だと思いながら飲み込んできたのか。

誰にも言えないまま、何を守ってきたのか。

 

私は、表に出ている肩書や実績だけではなく、

そこまで聞きたいと思っています。

 

それは、相手の事情を

きれいに説明するためだけではありません。

 

その人が、誰かの事情を優先するあまり、

自分でもなかったことにしてきた気持ちまで、

言葉にするためです。

 

父にも事情があった。

母にも事情があった。

その背景を書くことはできます。

けれど、そこだけを書いたら、

また私の気持ちは文章の外へ置かれてしまいます。

 

私は、それをしたくないんです。

 

誰かを悪者にするための文章ではない

誰かを悪者にしないために、

傷ついた人の感情を消す文章を作りたいわけではありません。

 

反対に、誰かを分かりやすい悪者にして、

怒りだけを強くする文章を作りたいわけでもありません。

 

相手には相手の事情があり、

その人にはその人の気持ちがある。

 

その両方を、同じ文章の中に置くことを、

私は大切にしています。

 

なぜなら、人の魅力は、きれいに整えられた肩書や、

正しい言葉だけにあるわけではないからです。

 

自分が助けてもらえなかったから、

誰かを助けたいと思ったのかもしれない。

 

ずっと我慢してきたから、

人の小さな違和感に気づけるようになったのかもしれない。

 

誰にも気持ちを聞いてもらえなかったから、

今は人の話を丁寧に聞く仕事を選んでいるのかもしれない。

 

その人が「大したことではない」と片づけてきた経験の中に、

その人にしかない価値観や、仕事への思いが隠れていることがあります。

 

だから私は、文章をきれいに整えるだけではなく、

その人が置き去りにしてきた気持ちまで拾いたいのです。

 

「あなたが感じたことは、大したことではなかったわけではない」

「あなたがそう思ったことには、ちゃんと理由がある」

「その気持ちも、あなたの中にあっていい」

そう言葉にして返すことが、

私の仕事の本質なのだと思っています。

 

話の通じる人が、いつも折れなくていい

自分の気持ちを認められるようになると、発信も変わります。

誰かに嫌われないための正解ではなく、自分が本当に伝えたいことを、自分の言葉で選べるようになるからです。

 

相手の事情を考えられることは、とても大切な力です。

 

でも、その力を使って、自分の気持ちまで消さなくていい。

話の通じる人が、いつも折れなくていい。

理解できる人の気持ちも、きちんと聞かれていい。

 

私は、その人が誰かを理解するために置き去りにしてきた気持ちを、もう一度その人の元へ返せる文章を作りたいと思っています。

相手を理解するために、もう自分を見捨てなくていい。

 

 

 

 

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朝、ノートに

「今日はこれをやる」と書いた瞬間に、

それが何が何でも守るべき

絶対的な法律に昇格する。

 

 

けど午後になると、もう一つの

「やった方がいいこと」のほうが

急に気分が乗ってきて、

そっちをやりたくなってしまう。

 

 

どちらを選んでも誰にも迷惑はかからないし、

どちらも正解の行動なのに、

最初の予定を曲げた瞬間に

頭の中の監視カメラが作動し、

強烈な罪悪感で自分を責め立てる

孤独な裁判が始まってしまう。

 

 

自分の気持ちに正直になって行動しようとすると、

必ずと言っていいほど

胸の奥からモヤモヤとした

罪悪感が湧き上がってくる。

 

 

それがどんなに些細なことであっても、だ。

 

 

自分の中で勝手に決めた

「やらなきゃいけないこと」よりも、

「今、こっちをやりたい」という

本音を優先しようとすると、

途端にブレーキがかかる。

 

 

たとえば、朝の時点では

「今日は絶対にブログの記事を

1本書き上げるぞ」と

手帳に意気揚々と書き込んだとする。

 

 

しかし、午後になって

いざパソコンに向かうと、なぜか急に

「いや、今はブログよりも、

ずっと後回しにしていたリール制作のほうが、

神がかったように集中してできそうな気がする」

と、急激に別のタスクへの気分が

乗ってくる瞬間がある。

 

 

リールの制作だって、私の中では

絶対にやった方がいいプラスの行動だ。

 

 

誰に頼まれたわけでもなければ、

今日が締め切りというわけでもない。

 

 

今日これをやると決めた予定を、

自分のその日の気分で

ちょっと変更するだけだ。

 

 

誰かに迷惑がかかるわけでもない。

 

 

普通なら

「よし、やる気があるうちに

細かい作業をを終わらせよう」と

軽やかにハンドルを切ればいいだけの話だ。

 

 

しかし、私の頭の中のシステムは

それを許さない。

 

 

リール用の動画を回し始めた瞬間に、

「おい、お前は朝、ブログを書くと決めたはずだ。

なぜ予定を狂わせる。楽な方に逃げるな」と、

脳内の厳しい自分が

ものすごい剣幕で怒鳴り込んでくる。

 

 

結果として、どちらも素晴らしい

生産的な行動であるはずなのに、

自分が決めた予定通りに

物事を進められない自分に対して、

いちいち心が激しく反応し、

容赦のない厳しい判断を下しては、

自分自身を責め立ててしまう。

 

 

この、どちらを選んでも

自分が悪者になってしまう

自作自演の減点方式が、

本当にしんどくてたまらない。

 

 

表面上は、周りの人から

「いつも楽しそう」

「文章が砕けていて面白い」

と言ってもらえることが多い。

 

 

外向けの役割をそつなくこなし、

平気な顔をして笑う技術だけが

プロレベルに上達してしまったせいで、

私が頭の中でこんなにも血を流しながら

ひとり相撲をしているなんて、

誰も思っていないだろう。

 

 

外側からは何の問題もない人物に見えているのに、

私の内側では、厳格な裁判官が

24時間体制で稼働している。

 

 

自分で作ったルールから

1ミリでも外れた私を見つけると、

即座に起訴し、誰もいない部屋で

有罪の判決を下し続けている。

 

 

この白黒思考と

厳しすぎる監視システムのせいで、

生きているだけでエネルギーが削られていくのだ。

 

 

なぜ私は、こんなにも自分に対して冷徹で、

グレーゾーンを許さない

不器用な生き方をしてしまうのだろうか。

 

 

その原因をじっと見つめていくと、

かつて過酷な環境を必死に生き延びるために、

私の心がやむを得ず構築した古い生存ルールが、

今も狂いなく作動し続けていることに気づく。

 

 

私の歴史には、

自分の本音や欲求をそのまま外に出すと、

状況が悪化するか、あるいは

大切な居場所を失うと学習せざるを得なかった

決定的なデータ(経験)がいくつもある。

 

 

幼い頃、母親が脳梗塞で倒れた際、

父親から

「母の前で絶対に泣かないように」と言われ、

自分の寂しさや悲しさという

一番吐き出したい本音を、

小さな胸の中にグッと押し込み続けた。

 

 

買い物をするときも、

自分が本当に欲しいものは

「そんなものいらない」と否定され、いつしか

「私の選択で母に認めてもらえるものはどれか、

どれを選んだら喜ぶか」を

最優先にして動くようになった。

 

 

さらに、テストで良い点数を取ってきても、

父親からはそれが「当たり前」だと言われ、

どれだけ頑張っても報われない虚しさを抱えていた。

 

 

忘れ物をすれば担任から

頭を強く押し付けられる物理的な恐怖があり、

授業参観の給食で自分だけ時間内に完食できず、

「ダメな子だ」と自分を激しく責めて

申し訳なさで泣いた記憶もある。

 

 

これらの経験によって、私の心には

「100%完璧な白でなければ、

私はここにいてはいけない。

少しでも予定を破るような黒いズレは、

周囲からの拒絶を意味する」という、

あまりにも過酷な公式が刷り込まれてしまったのだ。

 

 

大人になってからも、

その我慢の基準はさらに強化された。

 

 

苦痛で憂鬱でありながらも

結果を出すために耐え続けた

厳しい吹奏楽部時代。

 

 

朝から晩まで終わりのない労働を強いられる

過酷なケーキ屋の環境。

 

 

何より、上司と部下の板挟みになりながら、

決められた計画を狂いなく遂行することでしか

自分の価値を証明できなかった、

携帯ショップの販売員時代。

 

 

役割の仮面を完璧に被り続け、

数字を追いかけ続けた結果、

限界を超えた私の体は、

過食嘔吐を繰り返すという

最悪の悪循環で

ボロ雑巾のようになるまで崩壊した。

 

 

私の頭の中にあるシステムは、

あの地獄のような苦痛の時代への逆戻りを、

何としてでも防ごうとしている。

 

 

だからこそ、誰も困らないはずの

ちょっとした予定変更であっても、

「ルールを曲げるな!」

「楽な方に逃げるな!」と、

命の危険を察知したかのような強烈なアラートを、

罪悪感という形で鳴らし続けているのだ。

 

 

自分を責めてしまうあの厳しい声は、

自分を苦しめるために響いているのではない。

 

 

過去のとても辛かった環境を

必死に生き延びるために、

これ以上傷つかないようにと

自分を守ってくれた、

当時の心の仕組みが今もそのまま癖として

残っているだけなのだ。

 

 

私たちは普段、

目の前にある結果や事実という、

全体のわずか1割にも満たない

「見えている部分」だけで物事を判断しがちだ。

 

 

たとえば、毎日何気なく飲んでいる牛乳や

普段から使っているペンがある。

 

 

それは目の前では単なる白い液体であり、

ペンはただの文房具だ。

 

 

しかし、その白い液体が製品になって

私たちの口に届くまでには、

酪農家の朝の早さや、

牛の体調を気遣う日々の営み、

工場のラインを動かす人たちの人生など、

目に見えない途方もないプロセスと

思いが積み重なっている。

 

 

目の前にいる大切なパートナーや

友人の姿だって同じだ。

 

 

私は自分だけのフィルターを通して

相手を見ているけれど、

本当はその人が背負ってきた歴史や、

言葉の裏にある思いなど、

知らないことの方が9割以上ある。

 

 

そして、この、

見えない9割の背景に

光を当てることこそが、

私がこれから出会うお客さんたちに対して、

何よりもやっていきたいアプローチなのだ。

 

 

世の中には、今目の前で

その人がどんな結果を出しているのか、

どんな仕事をして何を達成したのかという

表面上の事実ばかりを評価する仕組みが溢れている。

 

 

けれど、私はそんな1割の見えている事実だけで、

その人の価値を判断したくはない。

 

 

その人が今、その場所にたどり着くまでに

どれだけの葛藤があり、どんな涙を流し、

どんな思いでその選択をしてきたのか。

 

 

目の前にある単なる行動の結果ではなく、

その人の奥底にある人間性や、

目には見えない美しい背景を、

言葉という形にして表現していきたい。

 

 

だからこそ、私はこれから出会う

お客さん一人ひとりの内側と、

誰よりも深くつながりたいと思っているのだ。

 

 

1割の事実を綺麗に並べただけの紹介文ではなく、

その人の9割の背景を言語化することで、

その人自身の存在を丸ごと肯定していきたい。

 

 

それは、自分自身の内側に対しても、

全く同じことが言える。

 

 

今、私が感じている

この異常なまでの罪悪感や白黒思考も、

表面的な「性格の悪さ」や「未熟さ」のせいだけではない。

 

 

その奥には、忘れ物にお怯え、

居残りの給食に涙し、

ボロボロになりながらお店を管理し続けた、

目に見えない9割の必死な過去の背景が詰まっている。

 

 

私が自分自身の発信で本当に届けたいのは、

単なる出来事の報告ではない。

 

 

その出来事のプロセスにおいて、

自分が一体何を感じて、どう心が動き、

どう行動したのかという、

目に見えない内側の真実のドキュメンタリーだ。

 

 

情報がどこにでも溢れている今の時代、

本当に人の心を動かすのは、

綺麗に整えられた実績や事実の羅列ではなく、

その裏側にある人間性だ。

 

 

その人がこれまでの人生で何を経験し、

そこでどう心が揺れ動いたのかという

プロセスを言葉にすること。

 

 

それによって初めて、その人の

唯一無二の魅力が画面の向こう側に真っ直ぐ伝わり、

本当に届いてほしい大切な人に

しっかりと届く文章になる。

 

 

私は、お客さん自身すら言葉にできずにいる、

その目に見えない大切な背景や

心の動きを誰よりも繊細にキャッチして、

代わりに言語化して届ける存在でありたい。

 

 

そうやって、表面的なやり取りを飛び越えて、

お互いの内側の深い部分で

カチッとつながれる人と

出会っていきたいとしみじみ思っている。

 

 

さて、今日もこれからノートを開いて、

頭の中の厳しい裁判官に

「まあまあ、

今日のところはこれで勘弁してくださいよ」と、

美味しいお茶でも差し出すような気持ちで、

自分を緩める時間を過ごそうと思う。

 

 

明日もし、予定していた買い物を

面倒くさがって後回しにし、

ソファーでゴロゴロする方を優先してしまったとしても、

私は私の優秀な監視カメラに向かって、

誇らしげにピースサインを出してやるつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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