2007年(35歳) |
就労継続支援B型事業所(知的障害)の職員となる。
多忙を極める。 日々の作業の準備等で、私一人が残業や休日出勤を繰り返す。 重度の障害を持った利用者さんが放置されている状況があった為、主にその利用者さんの為の準備。 次第に、全利用者さんの作業内容を私が決め準備をするような状況となる。
サービス管理責任者が2度変わり、その度に事務作業や各種会議出席を代行。
サービス利用料の電子請求が開始され担当となり、その対応にも追われるようになる。 役所への各種申請書類・報告書類の作成、役所主催の各種会議・区内の他の障害者施設との会議・合同イベントの実行委員、商店街の会議出席・イベント担当、地元区議会議員への対応、等、多くを任せられる。
職場に寝泊まりすることが多くなり、仕事がつらく感じられだす。 仕事に行きたくないと思い始める。
遅刻を繰り返すようになる。 無断欠勤をするようになる。 勤務中に職場を抜け出して街をさまようなどするようになる。
職場から自宅への帰路、電車内で座っている時でも歩いている時でも「助けて。助けて。」と口走っていた。
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2011年(39歳) |
職場の責任者に相当する方々から心療内科受診をすすめられる。 「うつ病」と診断され、4カ月の休職が決まる。
職場からの要請で、予定より1か月早い復職。
約半年後、遅刻&無断欠勤を繰り返すようになり、再度4カ月の休職が決まる。
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2012年(40歳) |
2月、自宅療養を始めるが、「うつ病」の症状が悪化し、死を望むようになる。
近所の公園の木で首を吊ろうと考えるが、翌朝登校時の小学生が発見することを想像し断念。子供にそんなものは見せたくなかった。 近くにあった川「黒目川」で入水&凍死をしようと考え赴くが、予想に反して浅い川だった為断念。 「ひばりヶ丘駅」前の高層マンションで飛び降り自殺をしようと赴くが、1階エントランスにパネルキーが設置されていて中に入れず断念。 自宅アパート内の扉のドアノブと電気コードを使って首を吊ろうとするが断念。 ビニール袋をかぶって窒息死しようとするが断念。 風呂場の湯船に張った水で溺死を試みるが断念。
様々な方法を模索した後、【餓死】という手段にたどり着く。飲食を絶つ。 畳の上に仰向けに寝転がった状態で徐々に体が衰弱していった。 途中、2度水を飲んでしまった為衰弱に時間がかかった。 やがて、手首と足首しか動かすことができないくらいにまで衰弱するが、意識はわりとはっきりしていた。
ある日、アパートの大家さんと職場の上司が部屋に突入してきて、衰弱していた私を発見し119番通報。この時のことは鮮明に覚えている。
病院に到着し、ストレッチャーに載せられた状態で救急車から降ろされ病院の建物に運ばれるわずかの間、顔に雨粒を感じていた。
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入院 2012年4月(40歳) ~ 2013年2月(41歳) |
【栄養失調と極度の脱水状態】と診断される。体重は不明。 (入院から約3か月後の時点で、体重:37㎏、握力右:12㎏,左:7㎏。)
「死ねなかった。」「生き残ってしまった。」という思い。残念な気持ちと、「これからどうなるのだろう?」という恐怖。
自分には回復の意思が無いにもかかわらず、病院での生活は私の体を回復させていった。流れに身を任せるしかないという“諦め”と“絶望”のような気持ちで日々を過ごした。
父が母を見舞いに来させたが、母は私に「あんたがダメだからこんなことになるんだ。」という言葉を吐いて、私を子供の頃と変わらない“ダメ人間”扱い。怒りが込み上げ、思わず「なんでそんなこと言われなきゃならないんだ!」と叫ぶ。以後、母とは交流無し。
約半年のリハビリを行ったが歩行障害が残った。
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退院後 2013年2月~ |
父が住んでいた近くのマンションで一人暮らしを始める。(埼玉県熊谷市。) 週に1回、父が様子を見に来てくれた。
最初は、「これからの時間をどう過ごしていこうか?」と途方に暮れていたが、「どうにでもなれ。」という思いが生まれて、気分が楽になる。
嫌なことを思い出したり考えたりして発作的に大声で叫ぶことを繰り返していた。
しばらくして、荷物整理を始める。大量の本・CD(約1,300枚)、ギター5本などを捨てた。アルバム数冊を初めとする自分の写真も全て処分。死ぬ前に身を軽くしておきたいという思い。
退院から約2年後、「うつ」の症状が再び悪化。「死にたい。」という思いで苦しみ始める。 父に対する遺書のようなものをパソコンで書き上げたことで精神的に落ち着く。
数年後、再び「うつ」が悪化。 インターネットで自殺方法について調べる日々を過ごす。 ベランダやマンションの屋上から地上を見下ろしたり、タオルで首を吊る方法をいろいろ試したりする日々を過ごす。 Amazonで首吊り用ロープを購入し、ハンガーラックを利用してシミュレーション。「これなら死ねそうだ。」と確信したことで精神的に落ち着く。 数年後、再び「うつ」が悪化。
あらゆる気力が減退し、通院していたクリニックに行くことができなくなる。 ここから約9か月間風呂にも入れず。布団に寝転がり続けた。
支援をしてくれていた父にすい臓がんが見つかり、入院治療等で訪問が途絶えるようになる。 父の代わりに、父の再婚した奥さんや娘さんが食料を届けてくれていた。
父が2020年に死去。
父の代わりに妹2が私を支援してくれることになり、東京C市から月に2度埼玉県熊谷市まで様子を見に来てくれていた。その際に、大量の食糧(米・ふりかけ・缶詰・レトルト食品・等)を持参してくれたが、米を炊かずに食べられるものを数日で一気に過食するということを繰り返す。その過食以降は毎日一度米を炊いてマヨネーズとしょう油をかけたご飯だけを食べ続けた。 「うつ」の症状は重症化した状態が続き、やがて顔と頭部に大量の湿疹が広がり、湿疹がただれて体液が沸き出す状態となりかゆみとチクチクした痛みを慢性的に感じていたが「頭を洗おう。」という気力は沸かなかった。 伸びた髪は脂でベトベト。“浮浪者の化け物”のような風貌と化した。 父に代わって妹2が私の様子を見に来てくれていたが、妹2にその姿を見られるのを恥ずかしく思い、妹2の訪問を拒否するようになる。
妹2は入院治療が必要と考えあちこちの病院に打診するが「事前に診察が必要。」としてなかなか話が決まらず途方に暮れていた。
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2020年 |
年末のある日、ふと「頭を洗おう。」と思い実行。約9か月ぶりの洗髪。 以後、毎日洗髪を行うことができるようになる。 また、抜けた毛髪とゴミが散乱していた室内の掃除を行うことができるようになる。 世の中がどうなっているのかが気になり(ずっとどうでもよかった)、久しぶりにテレビを見た。
妹2の付き添いでクリニックへの通院を再開。
以降、精神的には低調ではあるが気が滅入るような落ち込みはない状態が続いた。
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2021年 |
7月末、妹2が住んでいる東京都C市に転居。
精神状態は安定した状態が続き、症状と生活の改善を望む意欲が生まれる。
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2022年~現在 |
春から【生活訓練】サービスを利用。
8月から【就労継続支援B型】(精神障害)作業所へ通所開始。
「うつ」の状態は回復を続けていると思われる。
週1で妹2が様子を見に来てくれている。 |