だいぶ間が空いたけど九州遠征の滝以外に帰省後の川越訪問などもアップします
年末に車が調子悪くディーラーも冬休み中なんで、JR18切符(夏冬GW中5日分、計12千円、JR線使い放題&途中下車何回でも可能、1枚に5回判子押すタイプ)で三重に正月帰省しましたが切符2回は関東で使いました
三重では妹家族が単身赴任中の旦那以外妹甥姪コロナ療養中、1ヵ月前にはもう一人の妹家族4人コロナだったそう
(ワクチン重症化抑えるだけで効き目ないの早い段階で世界中の常識で日本だけが飛び抜けて一番ワクチン率高いのにこの状態だから全員は初回だけ、以降は希望する高齢者だけにしとくのがベストだったですね
日本は何兆円もワクチン代ムダ(何兆だと働く人で割ると1人十万円以上!)にして外国の薬会社からワイロ貰ってるのかまだやめない
税金になるから国民負担そのぶん 日本を貧しくする
未だにマスクで外出先では笑顔も見れない国なのは残念
コロナ政策は北欧の放置主義が一番だったですね
日本は高齢者に対する医療もおかしい、北欧は75才以上は癌治療位はするけど延命治療のたぐいはせず自然死として受け入れ、米国とかはそもそも医療費高過ぎで半分以上の人は病院あまり利用しない、日本は植物人間化しても呼吸器つけたりでムダな延命する。
医者は儲かるけど医療費負担する税金は国民の給料からだし家族負担も重荷だし少子高齢化対策と高齢者の過度な医療廃止は日本の切迫な最重要課題だと思います)
4日に実家7時台ので出発、駅前ぶらりしたことがない平塚、茅ヶ崎、辻堂、戸塚東駅前探索し帰宅は夜10時台でした
平塚(平塚は広く少し外れると程よく田舎で、茅ヶ崎や藤沢の同僚曰く「相模川の西の平塚は西湘であって湘南でない」と、何故か目の敵にする人も多く、個人的にその言い分も読売が川崎ヴェルディを東京ヴェルディにしたような美味しいとこ取りしやがってのモヤモヤ感でよくわかります
最初川崎にしたんなら潔く全うしろ!と古くから西湘だろ!
色々裏工作してる小さい大磯はともかく平塚なんかは東海道の元重要宿場町で自身のブランド力で十分だろうと思います
アンケート載せますが平塚市長が中心となった没になった湘南市構想とかで湘南アピールしてるので現在県民も平塚は湘南と考える人も半分近くに増えてます。
ちなみに明治時代は湘南とは逗子市のあたりの意味合いが強かったそうでも、葉山や鎌倉なんかは存在が別のブランドで湘南なんかのくくりにされたくないと思ってる人多そう
「個人的には同期が平塚の金持ちで新幹線で北関東1年間通学後に下宿にし湘南ナンバー車に駅前駐車場とかで何度かボンネットキズつけられたと言ってたのが印象に残ってます」
湘南は県内の人(横浜奥地や県央とか住宅密度はどこも湘南と同程度ですが湘南の駅より遥かに駅前規模がノドカな人でも)では江ノ島や海水浴のイメージがあるので都心から離れた少し田舎っぽいノドカな印象持ち、
県外の人だと湘南はカッコいいイメージがあり、
車のナンバーイメージでは、元は横浜以外神奈川は相模ナンバーでスモウと似てると不人気で湘南ナンバー新設時に取り合いで県西部は関係ないとこも湘南ナンバーになり、人気は横浜≫川崎>湘南≫≫相模です)
、茅ヶ崎、辻堂、藤沢、大船、戸塚と連続してる東海道の駅は東京駅から1時間位だしどこも人口密度高く大型商業施設が駅前にあり賑やかです
車不調は寒くなってから始動時にアイドリング不安定が多発し一回は走行し始めて止まったりしたのでそれ以来乗らずに神奈川戻った翌日、修理に乗ってきました
スキャンツールとかの診断ではどこも異常無し、するならスロットルボディ交換だと5万、洗浄で9千円なんで洗浄して貰いました
ネットで症状と対処調べた時にディーラーで3千円で洗浄で直ったと記事も目にし、◯ートバックス電話かけ見積りで洗浄1万位だったんで内診断だけなら3千円位とすると適正価格内、18切符12千円+修理9千円は冠婚葬祭で使うこともある新幹線三重帰省往復約35千円から修理代浮いてお釣り出たと思えば気分的にそこまで痛くはないです
今回7万㌔ですが、17万㌔の車の時は同じ不調で車検近かったから廃車にしたから洗浄で済むなら乗り続けても良かったかな。以降良好です
18切符期限が10日までで、休みが変則で8日(日)朝まで2日間夜勤、9日(月)休みだったんで8日は残業あって朝6時過ぎに仕事終わって川越まで電車で寝て埼玉の探索してない駅近く探索してました
丁度、2日間、成人式と重なり着物美人さんいっぱい見ました(川越は写真屋多く着物貸し出しもやってるけど両親と娘てパターン多く着物女子川越で20人以上見た。2日目は駅周辺や電車内では昼夜問わず数え切れない)
川越は駅から小江戸の街並みまで結構距離があり、GoogleマップでJR川越駅~小江戸川越一番商店街で片道2㌔25分で「クレアモール」というドンキホーテとかもある賑やかな繁華街から「大正ロマン夢通り」から「蔵造りの街並み」へ行けます
バスも1時間3~5本で180円です
川越は江戸時代の城下町として栄え、徳川家康はここを「北の防衛線」と重要視し川越藩を設置し酒井重忠など有力な大名が藩主を歴任し、現在でも蔵造の商家が並ぶ情緒あふれる街並みは小江戸として人気を集めています
■川越熊野神社
参道の両脇に小石が敷き詰められた「足踏み健康ロード」があったり、試したい運気を占う「運試し輪投げ」があったり、願いを込めて白蛇様を撫でると様々なご利益を授けてもらえるという「撫で蛇様」があったり、とユニークな神社。
ご祭神は伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみ)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)の御四神です。
川越は近世以前は河越と記され、鎌倉時代初期、川越市上戸付近で河越氏が威勢を張った
同氏から源義経の正室が出たため当主重頼は誅殺され同氏は一気に衰退
それから360余年、戦国時代の(河越合戦)で河越は再び歴史上に躍った
河越夜戦は「日本三大奇襲」(日本三大夜戦)のひとつに数えられている特別な合戦です
川越は当時の関東管領上杉氏の地盤である上野、越後方面と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道があり水運の要で水陸交通の要地でした
「関八州古戦録」(槙島昭武、1726年)によれば、1545年秋、北条方の河越城を奪還しようと扇谷上杉朝定をはじめ関東管領山内上杉憲政や古河公方足利晴氏、そのほか関東の反北条連合軍約8万(数は相当誇張あるだろうけど千葉氏以外の関東の大名が参加)が包囲した
河越城には北条氏康の義弟北条綱成(北条家には、「北条五色備」という5部隊が存在。各部隊のリーダーは「五家老衆」が務め、黄・赤・青・白・黒のカラーが割り振られ、綱成はイエロー担当で「地黄八幡」という旗指物を使っていた)以下の兵約3000が籠もる
連合包囲軍は駿河の今川義元とも手を組み駿河の北条氏を攻撃し武田氏の仲介で今川氏に領土を譲歩する形で氏康は和睦
河越に集中できる態勢にし氏康は翌年春出陣、8000の兵で挑む
最初氏康は半年の滞陣で緊張感の落ちた敵の各陣営に和睦を持ちかけ、敵から攻撃されても逃げて敵を油断させる
氏康は軍を4つに分けブラック担当の多目元忠氏の軍だけ本陣に残し、兵たちは防具を脱がし身軽にし白い胴衣をまとわせ敵勢に夜討ちをかけたら上杉軍は大崩壊
城内からも綱成軍が古河公方の陣に「勝った勝った!」と叫びながら攻撃をしかけ撤退させた
河越合戦のうち「東明寺口の合戦」と称される激戦で上杉朝定が討死
連合軍は総崩れ軍勢はそれぞれ撤退した
連合包囲軍からは、1万3千~1万6千人の死傷者が出たと言われる
この戦で扇谷上杉氏は滅び、関東の国衆たちが北条傘下に。氏康はさらに上杉憲政がいる上野、平井城を攻め越後に走らせた。妹婿の足利晴氏も隠居に追い込み、甥を公方に就かせた。
★川越城(河越城)
関東七名城のひとつ、北条氏は河越合戦後に大工事を実施。「河越衆」と呼ばれる大道寺氏により、三の丸や八幡郭が拡張され、西方面への防備も強化された
川越城本丸御殿 は1848年に建てられ本丸御殿の一部が残っており、玄関と大広間、家老詰所がある。開館9~17時。一般100円
天守閣は無く一階建ての建物だけなんで天守閣が好きな人には物足りないかもですが、当時の様子を知れる訪問しがいがある場所です
蔵造りの街並みの北端から東へ10数分歩けは着きます