一夜が明けて | こぐーの我楽多日記

こぐーの我楽多日記

雨にも負けて、風にも負ける。東に行って迷走し、西に戻って混乱する。ヽ(´Д`;)ノアゥア...

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昨日歩いてるときに写真撮ればよかったんだけど、そういう気分じゃなかったんだ。
 
 
あのときこぐはお茶の水の保険会社の上の方の階にいて、
この間からの海賊保険の話をしてたのね。
そしたら揺れ始めてさ、窓から見たら、ほかの高層ビルもみんなグラグラ揺れてたよ。
向かい側のビルは屋上の給水タンクから水がバシャバシャこぼれたてた。
すぐおさまるだろうって思ったんだけど、長引いて、揺れ方もひどくなったんで、
ついに来たか?!って思ったんだけどね。
あ、これは関東人の感覚だと思うんだけど、近々関東直下型大地震が来るっていわれて久しいからね。
 
 
天井の埋め込み式エアコンのボルトが外れて、漆喰と一緒に部品が落ちてきたわ。
ともかく、次のアポ先:インドネシア大使館に向かおうと思ったけど、
エレベータが止まってるんで、階段で降りたよ。あちこちに亀裂が入ってて、
うわ~って感じ。
 
 
ところが、電車が全部止まってるし、道路もストップで、タクシーも来ないんで、
大使館に向かうのをあきらめて、ともあれ横浜方面に向かうことにしたのね。
その時は、とりあえず東京駅まで行けばなんとかなるだろうって思ってたのよ。
それが帰宅難民の第一歩だったわ。
 
 
普段こぐは会社にいるか船に乗ってるから、
何かあってもすぐ帰れるか、もしくは絶対に帰れないかのどっちかなんだけどね。
歩いて行ったら、もう沢山の人が歩いていたよ。
箱根駅伝のコースでさ、それが一番わかりやすいし横浜方面に向かうのには大きな道なんだわ。
 
 
電話をしたんだけど、家にも同居人にも、会社にもつながらない。
誰にもつながらないんだよね。
公衆電話はつながりやすいみたいで、みんな並んでたな。
一つ教訓になったよ。
 
 
大会社の人はみなヘルメットかぶって非常袋を背負ってたな。
こぐはスーツにコートとバッグでさ、日比谷辺りで、こりゃ下手すると家までってことになるか?
って思い始めたんだな。
 
 
ざっと見たところ、少なくても数万人の人が歩いていたよ。
道沿いのコンビニやガソリンスタンドは段ボール紙なんかにトイレを使ってくださいって書いてあった。
女性はヒールじゃ歩きにくいからか、作業着屋で運動靴を買ってる人が多かったよ。
自転車屋で自転車買ってる人も多かったな。
 
 
でも、まあ首都圏が極限状態だったわけではないせいか、
イライラしてもめ事起こしているような人はいなかったよ。むしろ、お互いに情報を交換したり、
行先を叫んで、同じ方面の人は一緒に行きましょうって声をかけあったりしてたよ。
ちょっと、日本人でよかったな、って思ったわ、。(((*≧艸≦)ププ
 
 
途中では、ビルのガラスが落ちてたり、
継ぎ目が割れてたり、コンクリが欠けてたりしたよ。
役所とか大きなホテルとかでは、毛布にくるまってロビーにいる人を見たな。
帰るに帰れない人たちだね。
 
 
多摩川を渡って神奈川県へ、鶴見川を渡って横浜市へ、
横浜駅辺りを通り過ぎたのは歩き始めて7時間過ぎた夜中の12時頃だったかな。
そこからが上り坂になるんできついんだ。横浜は坂が多いからね。
歩き始めたころは、すたすた歩いてたこぐも、そのころはもうずるずるって感じでさ、
感覚でいうと30キロすぎたあたりから、ふくらはぎや腰が痛くてたまらなかった。
最初のうちは箱根駅伝のことを考えていたけど、
30キロ過ぎではイモトとか24時間テレビのマラソンのことを考えて、
そりゃきついよなぁ、って思ってたもの。
 
 
自宅に近付いたけど、辺りは停電で、真っ暗なんだよね。
もう惰性と気力だけで歩いてたけど、なんとか午前2時頃に家に着いたわ。
けど、なにしろ地震はわかってるけど、どこで何がどうなったのか全然わかってなかったんで、
すぐブックパソコン立ちあげたんだけどね、電池残っててよかったよ。
それでネットで情報を得て、びっくりしたんだわ。
どひぇ~~みたいな。
こぐはあの辺りは同窓生が多く住んでるんで、連絡入れてみたんだけど、
いまだに返事がないわ。
 
 
某放送協会の盛岡放送局勤務の次男からは、朝連絡があった。
福島にのど自慢のロケに行ってて被災したらしい。
そのままとんぼ帰りすることになってとりあえず仙台局まで戻って一休憩して、
盛岡までタクシーで向かってる最中だとか。
明日早朝から宮古へ取材に入るんだってさ。
 
 
来週あたり、小名浜の船に行くつもりなんだけど、
入港しないかもしれないな、とテレビを見ながら思ったわ。
ともあれ、こぐは無事だったからね。筋肉痛がひどいけどさ。
みんなは無事だったかな?