恋と愛、執着のあるなし、二元論を越えてるかどうか
ブログネタ:恋と愛の違い
参加中
富永です。
Mr.Childrenの歌にあるように
「恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」です。
結局、エゴ。仏教用語でいう渇愛(かつあい)。パーリ語でtanhâ(タンハー)。
渇いている愛なので、潤そうと、「もっともっと!」と過激になっていく。
まさに、
世界中の誰もが 業の深い生命体 過ちを繰り返す人生ゲーム
日本語では執着があってもなくても「愛(love)」という言葉にしてしまう
非常に強引というか幼稚なところがありますが、
キリスト教で言うところのアガペー(ギリシア語: αγάπη)というか、
仏教で言うところのメッター(パーリ語: mettâ)というのが本来の愛かと。
間違った理解の「愛」と区別するために、「慈」という漢字を充てるようです。
英語だと loving-kindness 。
出だし部分の
「愛想なしの君が笑った」は、
もともと梵天だったんじゃない?
とか
この歌の最後の
「勇敢な戦士のように愛したいな」というのは、
出家して(犀の角のように)、世俗から離れて慈悲喜捨の実践をしたいな
という意味のように思えてしまう私って...。
歌詞: http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=57128
サッサと二元論的世界観を越えましょう。