今の日本の状況。
今の世界の状況。
いろんな情報が飛び交ってます。
どの情報を自分の中に取り込むかで
見える世界が違ってきます。
あふれる情報のひとつひとつを
直接本人に会って話を聞くとか
直接現場に出向いて自分の目で見るなどして
本当か嘘かを確かめることはほぼ不可能です。
だからどの情報を信じるかは
ほとんどの人がおそらく「自分の感覚」で選んでいるのでしょう。
何が真実かで何が嘘か。
今の私たちの五感では
「それ」が目の前になければ、なかなか信じることはできません。
目に見えないものを信じろと言われても難しいのが一般的な感覚です。
でも情報に関しては
「それ」が目の前になくても自分の感覚で選び
その自分の感覚で選んだ情報をもとに
「自分が見たいように世界を見ている」ということになります。
同じ場所に住んでいても
同じ時代に生きていても
違う世界を見ています。
大切なのは
「自分は、自分が見たいように世界を見てるだけなんだ」と気付くことだと思うのです。
「情報」に関して言えば
だいたいの人は、自分が信じている情報が正しいと思っています。
それが真実かどうかにかかわらず、です。
そして、そのこと自体はこれといって問題がありません。
ですがそれを他人に押し付けると、人間関係の歯車がズレ始めます。
つい甘えが出てしまうような関係が近い相手ほど、口喧嘩に発展してしまうことも少なくありません。
否定から調和は生まれません。
相手が先にこちらを否定したように感じても、実は最初に否定したのはこちら側だった、というパターンは多いです。
最初にこちらが否定したから、相手が否定で返してきた。出したものが返ってきただけだったことに気付けないことは多いです。
価値観や世界観が違うからといって
それが相手との関係にミゾを作る原因ではありません。
相手との関係にミゾを作る原因は
「相手がこちらの期待通りの反応をしなかった」ということを受け入れられなかった自分自身のエゴ…怒りやムカつきでした(私の場合はね)
これに気付いてからは
相手が信じてることを否定してまで、私が信じてることを受け入れてもらうのはもうやめようと思いました…
「大事に思ってるものが違うだけ」という、ただそれだけのこと…
相手が間違っているわけではなく、私を嫌っているわけでもなく、ただ自分と違うだけ。
相手の考え方を変える権利は私にはなく
相手は私の考え方に納得しなければならない義務もない。
逆も然りで
他人は私の考え方を変える権利を持っておらず
私には、他人の考え方を受け入れなければならない義務もありません。
「互いの考え方を尊重する」という同じ方向を向くことで
違う考え方同士がミゾを作らずに付き合っていくことは可能。
否定も肯定もしない。
ただ「そうである」と認めるだけなんですよね。。。
もちろん「言うは易く行うは難し」で、それがすぐできるようになるわけではありませんが
できるできないはスキルの問題、やるやらないは覚悟の問題、と思っているので
できるできないにかかわらず、私はずーっとやってます。続けると必ず変化が現れます。
相手がこうしたから私はこうする、ということではなくて
相手の状態に関係なく私はこうする、という感じです。
自分はどんな状態がいいか、です。
「そりゃ私だって良好な関係がいいけど、相手が私を理解してくれないから困ってるんです!」と、かつては思ってました
でもそれは違いました。
基本的には
誰がどんな考え方をしようが、その人の自由だし当たり前の権利…
それは自分にも言えることで
自分がどんな考え方をしようがそれは自分の自由だし、当然の権利です。
それをとやかく言われたり、コントロールされると不快感を抱くのは、自分も他人も同じです。
とにかく今は人類最大の過渡期。
ものすごい勢いで世界が移り変わっていく混乱期の真っ只中です。情報が錯綜しています。
だからこそ
何を選ぶか
何を意図するかは本当に大事。
この判断基準が外側にあると、自分を失い状況に押し流されます。
専念すべきは自分。
注目すべきは自分の内側。
外側に答えはありません。
自分に必要な答えは、ちゃんと自分の中にあります。
自分の中にある答えを
自分の感覚を使って見つけるのです。
何があってもどこまでいっても自分。
不快さを感じる他人の言動に振り回されて、嫌な気分になって終わり、ではなく
なぜ不快に感じたんだろう?
相手が原因じゃなくて自分が原因だとしたら何が挙げられるだろう?
今まで同じようなパターンばかり起こるのはなぜだろう?
そんな自問自答を繰り返しながら自分を深く理解していくと、今まで見えなかった答えが少しずつ見えてきます。
これが「真実を観る」ということだと、私は思っています。