日蓮正宗67世日顕上人の隠された珍話 | FMのブログ

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珍話なのか実話なのか分からないが僕は実話だと信じたい。

様々な出来事や事件を作ってきた日蓮正宗大石寺の第67世日顕。

1928年に日蓮正宗大石寺六壺に得度した。

1928年といえば昭和3年で母親に連れられて本山入りしたのだが

身形が質素な恰好だったという。昭和3年といえば創価学会の書籍

から引用すれば大石寺は困窮したお寺の一つにすぎなかった。

土地も現在よりも小さく参拝する信徒も少ない。周辺は僧侶が耕した

畑が広がっていた。供養する信徒が少ない上に貧困の極みだった

大石寺が創価学会の供養によって大きくなっていく・・・。

 

現在の大石寺もしくは日蓮正宗の半数以上が創価学会の供養によって

成り立っている状態です。創価学会が供養しなければどうなっていた

かは一目瞭然で、もしかすると下条妙蓮寺と同じ運命を辿っていた

だろうと思う。

 

そんな大石寺に阿部信雄という子供が得度してきた。

この阿部信雄は父親が日蓮正宗大石寺の第60世日開だった。

 

頭が二頭という第9世日有上人のお言葉を排するとロクでもない

頭だった。

 

単に形が悪いのではなく過去世に犯した謗法が現在の形になって

いると言われても可笑しくないのだ。

 

あの頭は何物にも耐えがたい形をしている。

 

しかし、本人はお構いなし、六壺で修行が始まるや否や日開の子

として人目をおかれる存在になった。

 

 

昭和45年に小生が大阪浄妙寺で御授戒式を受ける前に住職から

講話がありました。多くの信徒さんが来られていました。

当時の浄妙寺の初代住職は石川さんだったと思うが、この人は

 

日本の体育教育の父・柔道の父とも言われている嘉納治五郎氏の

お弟子さんで柔道は8段だったか6段だったか忘れましたが

柔道師範を務めていました。また柔道の腕や技にたけていた人

だったので大日本帝国海軍の柔道師範を務めていたそうです。

 

嘉納治五郎氏は西宮出身ではありますが、なぜか牧口先生を

思い出してしまうのは僕だけでしょうか?

 

石川住職さんが戦後に日蓮正宗大石寺の六壺へ得度されました。

青年期だった石川さんに当時先に得度していた小僧さんがいた

そうです。頭が二頭で特徴がありました。その小僧さんには

日蓮正宗大石寺の雲上のような人が父親でとうてい逆らうことが

出来なかったそうです。六壺の先輩であろうが彼にかかれば

ひとたまりもなく殴られてました。

 

後輩なんてたまったものではありません。

そんな六壺は権力を持つ者がグループを作っていたわけで彼の

グループの外にも存在していました。彼は私をグループの仲間

に誘うように近づいてきたのですが決まって権力を鼓舞する

ので私のような力のない修行僧にとっては相手にしたくない

存在でもあったわです。

 

同僚たちが次々と殴られて、しまいには・・・・とうとう私の

ところにも嫌な人から声がかかりました。私は彼の誘いを断った

んですが彼は容赦なく私を責めてきました。それも断りました。

しかし、次第にエスカレートしてきて私の姿勢や態度が良く無い

と言い出して摂関してきたのです。

 

耐えかねた私は殴ってくる彼の腕を捕まえて捻り上げました。

彼は小声で痛ててと叫んだんですが、その声で彼の腕を離した

んですよ。すると彼は直ぐに私の右頬を殴りつけてきました。

 

殴られて黙っているわけにはいきません。

さらに彼が殴りかかってきます。その腕を右手で捕まえて左腕で

むなぐらを掴んでエイ!や!と投げ飛ばしました。彼の身体が

宙に舞い六壺の畳に叩きつけられましたズドンという音だった

と思います。

 

彼は直ぐに立ち上がり更に殴ってきますが、それも直ぐにかわして

今度は力いっぱい彼を投げ飛ばしました。ドスンという鋭い音が

六壺の畳に響きました。そして倒れている彼の腕を掴んで関節を

捻り上げたんです。さすがに大男でもこの技は痛いはずです。

 

ギャーッ

 

すさまじい雄たけびが六壺に響きました。

助けて!助けて!

 

大の男が「助けて!」とは何事か?

 

その声を聞いた先輩方が駆け寄ってきました。

誰も彼を助けようとはしませんでした。弟子になっていた

多くの同僚も黙って固唾を呑んで見守っていた・・・・。

 

つづきが聞きたければ折伏をしてきなさい。

 

で、話は終えました。

 

柔道の達人石川住職さん

その御授戒での講話でした。

 

 

 

昭和48年10月の秋空・・・・

 

日蓮正宗大石寺第66世日達が創価学会第3代会長池田先生

から叱責と罵倒を浴びせられている・・・・

 

公衆の面々で赤っ恥をかいた日達・・・

その後、日達は無口な猊下になったとか・・・

何かあっても「黙っておけ」が口癖に。

 

昭和35年に池田先生は戸田第2代会長の跡を受け継いで

創価学会第3代会長に就任されました。華やかな就任式で

戸田先生の跡を継がれ日蓮正宗も創価学会も牽引されていく。

 

そんな中、奉安殿の収容人数に問題が出ていたわけで、もっと

大勢の信徒を収容できる本堂が必要になったのです。

 

昭和31年ごろから始めた正本堂建設計画が始められ、その

建設費として28億数千万円の供養。38年には32億円

以上も供養してきた。さらに供養は続く。

 

昭和47年に正本堂は完成したがかかった費用は360億円

少し。そのうちの355億円は創価学会が供養している。

 

同じく昭和47年には本山の膝元下条妙蓮寺に新築で4つの

塔中坊が建設されたその名は連一坊、連二坊、連三坊、連四坊

だが、その坊も創価学会が寄進。

 

下条妙蓮寺とその前にも下之坊の再興も創価学会が、その費用

を全て出している。下之坊は日蓮正宗の寺院の中では本山大石寺

よりも古い古刹寺です。

 

昭和48年10月28日、池田先生が正本堂での御開扉に来られて

いた時、日達が池田先生に13億5000万円の供養を求めてきた。

さすがの池田先生も我慢の尾が切れて日達を罵倒。しかも公衆

の面で日達が引き連れていた弟子たちも並んでいたわけで言い

返す者は一人もいなかった。

 

棒立ちで立ち尽くす日達連中が10円ハゲを作った小僧のように

見えた。池田先生の罵倒がやがて質問になってくる。なぜ金が

必要なのか質問されてもタジタジとなってダンマリを繰り返す

日達に名誉も面子もない。

 

正本堂を建立するために当時の創価学会員は血が滲むような努力

を強いられてきた。子供だって例外ではなく大好きなお菓子だって

食べられない状況が続いたのである。

 

池田先生の罵倒がなければ創価学会員だけでは済まなかったかも

しれない。日達の金亡者化はすさまじいものだった。