創価学会の内部分裂を探る | FMのブログ

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昔のカメラNikon FM

自分の母や親戚には創価学会員という人は多いのではないでしょうか?

実は僕も母や母方の親戚は殆ど創価学会員です。しかも戦前のまだ創価学会と言う名前すら地方では聞かなかった時代。仮に戦前に創価学会の話を聞いても知名度は低く東京とか関東辺りの新しい団体さんなんだろうという認識しかなかった。

しかし、住職からも噂になることはなかったのだが、信徒の寄り集まりの中から信仰に関しての話が出ておりました。

早い段階から創価学会へ入信した。

 

父親は無信仰だったが母と結婚して以来入信。創価学会にも入会して男子部として活躍していた。

御本尊は日達上人の常住本尊で脇書きに親父の名前が入ってある。この本尊を授与されるまでに男子部で活動するも毎月5~6人の折伏と教学の勉強会、そしてお寺に御供養をしてきた。御本尊の授与の2年前にはお寺の住職から声がかかり講頭になり翌年には総代を歴任。このころになると御本尊も常住本尊への交換となったのだが、その段階で2億円以上も御供養をしていた。

 

2億円を江戸時代の価値にすると・・・・

第二十六世日寛上人の時代にお金の話があります。五重塔を建立するために財産を残されたのですが、三十一世日因上人が、日寛上人の意向をついで五重塔を建立された時は既にお金の価値も上がり建立するには足りない状態になっていた。その時代の価値についてですが、当時、亀山藩主の板倉という武士が、この日因上人に1千両を寄進しております。そして金沢の信徒だけで集めた御供養と寄進のお金が3千両でした。日因上人時代の1千両の価値を現代のお金にすると1千両は1億2千万円ほどのお金になるのだそうです。

 

親父が御本尊のために御供養したお金は2億3千万円ほど、他に本山の法要やお寺の儀式などで供養したお金を含めると6億円ぐらいになるそうです。お寺一戸を〇〇寄進してしまおうかなどと言っていたのですが、本人はその後、第一次宗門事件で音信不通状態になり、僕たちからも姿を消してしまいました。

 

残ったのは日達上人の常住本尊と写真だけになった。

その後親父は別の女性と一緒になっていた。

 

母は愛想を尽かせ親父を罵るのもアホらしいとソッポをむいてしまう・・・

母は昭和二十六年に地方から大阪へ上京した。自分の叔母さんが母の姉になるんだけど九州福岡に炭鉱の山を所有しており、

多いに資産家の風情を出していた。当時の九州には八幡製鉄があり、そこで鉄を作るための石炭が必要だった。その石炭の一部が叔母さんの山から供給されていた。

 

当時の母の写真にも初代クラウンRSを惜しげもなくボンネットにどっかり座り込む姿などがある。

 

 

昭和20年代から草創期の創価学会女子部員だった母はこんなジャジャウマです。

これから数日後には第二十六世日寛上人の小さな御本尊様が下付されるようになった。

 

母の信仰が生かせるか親父の金の力がモノをいうのか・・・・

答えは母の信心が勝ったわけですが、けっして金に狂ってたわけじゃなく、親父を一緒に

なった母も一気に貧乏人に転落していった。

 

何も言わず黙って愛想を尽かせ、向こうからオサラバを決めさせたみたいで日の題目も

4時間5時間と唱え続けたという。勝利したいというものではなく幸せになりたいという

願いがそうさせたのだろう。学校から帰宅しても母の題目の声がなりやまなかった。

暇さえあれば題目、幼少のころ内職をしながらも母の唱題は欠かせなかったし僕自身も

御授戒を受ける前から御本尊様へ祈り続けた。ただ線香の煙が目や鼻をつくのが嫌で

お線香を消してほしいと注文をつけたこともあったが、我慢しなさいとの一言で唱題に

励んでいました。

本当はお嬢さんなのに叔母さんに金を借りることもできただろうが、けっしてお金を

借りたり他人から無心するような行為や祈りはしなかった。子供思いだったのは言う

までもなく、2015年の12月には他界していったが肺水腫という病気だったようだ。

自身の幼少のころにお線香の煙を嫌ったことを思い浮かべてしまう。

 

申し訳なさで一杯だった。

母一人で子供4人を育てたんですが、第一屋製パン八尾工場に入社して以来定年を

向かえるまで働いてきた母は途中で工場が配送センターになるため転勤を命じられた。

その先が池田市の空港工場だった。電車を乗り継いで2時間半、地下鉄を始発で乗り

東梅田で阪急梅田へ乗り換える。そして蛍池駅で降りて自転車で工場まで通勤。

 

時間にすると2時間30分ぐらいだろうか、毎朝4時に起きて洗顔し御本尊様の水を備え

朝の勤行を済ませ出勤。自我偈の勤行で済ますこともあった。

そして毎日2時間の残業をして帰宅するのですが、これも2時間半かけて帰宅する。

これを20数年間働いてきた母です。

 

冒頭に書いた除名された原島崇の折伏経典を評価していた本部長の弟がその母に職場が

隣同士だからといって何やら話していた。当時の本部長の弟は男子部の地区リーダーで

母はさほど会合に参加していない創価学会員の席だけのメンバーとみていたようだ。

子育てさえなければ題目でも負けない母だったはずが親父との離婚後には一人で子育て

という重石を載せられ信心も思いようにできない状態になったわけです。

 

常に仕事では創価学会を意識して働いていた母だったが、それを池田先生が見ないわけ

ではなかった。第一屋製パンは東京の鎌田近くでコッペパンの販売から始まった製パン

会社、いわば池田先生の御庭先というエリア。情報は逐一入ってくる。

新鮮な情報を地元の学会員が耳を傾けることもない。

あるのは自己権威。創価学会活動をしているからって権威が沸いてくるようだ。

 

困った者たちだ。

 

問題の本↓

 

僕の青春時代に創価学会男子部のの地区拠点であろうことか、男子部部長や本部長がある本を

取り囲んで評価していた。昭和58年ごろだが、すでにその本は原島崇という元創価学会員だった

男が発行した本である。深緑色の本で折伏経典と書かれている本です。

 

この折伏経典は原島宏治が初の出版となった。

原島宏治の息子である原島崇が父親の出版した著作権の本を引き継ぎ発行していた形だったが、

この原島崇は昭和55年に要らぬことしたため創価学会を除名処分になった男だった。しかも

除名処分になった原島崇は、その後、悪名高き山崎正友と本山で活動を共にする間になった。

その男の出版物を高評価しているのだから信じられないものを目撃してしまった。

 

もしかすると知らないのではないだろうか?

 

しかし、母に聞けば、ほっておき。

 

たしかに放置するしかない。

情報を過信しすぎると骨を折る。

正に現在も彼らは怒涛に迷っている。

しかも進むべきところが創価学会から遺脱した方向へ向かって進んでいるようだ。

その本を評価していた当時の部長は弟子ともに60歳初頭の年齢で他界していったが

本部長も癌を患い手術で一命は取り留めたのだが、よれよれながらも遺脱路線を歩んでいる。

 

時間の無駄といえば時間の無駄なのですが・・・・

それらを知っても教えは幹部の権威が重視されてしまうのですから、嫌われても当然でしょうな。

関西という町は。。。。。

これからどこへ向かおうとしているのだろうか。