宗教の恐ろしさ | FMのブログ

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昔のカメラNikon FM

日本ほど宗教に染まりやすい民族はいない。

 

今、創価学会と日蓮正宗が荒れてしました。

ただ事ならぬ事態らしいですが、創価学会は創価学会の

言い分があると思うが日蓮正宗は日蓮正宗の言い分がある。

 

しかし、どっちが宗教臭いか両者を比較してみるとやはり

日蓮正宗のほうである。とても線香臭く、キナ臭い。

しかも小学校のころに遠足で履き終えた靴下の香りがムンムン

匂うのが日蓮正宗だ。

それも坊主絶対論であり歯向かうと謗法となり罰を受けるらしい。

これって本当なんだろうか?実はすべて坊主が勝手に作り上げた

世界なのです。

 

坊主が上で信徒が下、坊主の指示には絶対に従うことが求められる。

しかし、開祖である日蓮大聖人は多くの御書を書き残されたが坊主

の絶対的支配は書いていないし、功徳も我々一般の信徒が唱える

題目と日蓮大聖人のような人が唱える題目は功徳に差があるのか?

という質問に対しても功徳は皆同じであると仰っている。

 

いつからか坊主が信徒を食う時代になり、やがて信徒を服従させる

ようになったのか?それを追求したのが創価学会でもある。

また、過去に同じく追及した団体もいる。多くは異流儀団体として

扱われやがて破門処分を受けて日蓮正宗から去っていった。

 

創価学会が日蓮正宗の信徒として活動していた時期は昭和8年ごろに

始まり平成の世になって間もなく破門を受けてしまった。

当然創価学会が供養してきた財産は日蓮正宗の物になり正本堂と

大客殿はぶっ壊してしまいました。

 

これだけには及ばず日蓮正宗信徒時代の創価学会員の遺骨を米袋に

詰め込んで穴を掘って投棄していたことも明らかになっている。

これだけのことができる人間っているのだろうか?

 

日蓮大聖人の怨敵である念仏宗の開祖法然でさえも先祖の遺骨は

大事に取り扱うべきだと主張している。また飛鳥時代の近畿地方

に建立された禅宗系の僧侶が当時は仏教に反対する世相と政治、

賛成する世相と政治に別れていた時代ですが大阪の河内に七墓が

建立された。もちろん無縁仏を奉っている墓である。

 

当時の河内は至る所に人骨や遺体が転がっている状態だった。

それを憐れに思った禅宗系の帰化僧が、その人骨や遺体を拾い、

無縁仏として河内の七つの場所に墓を建立したのが始まりだった。

 

もちろん彼らにも亡くなった人の魂を慈悲深く思う心があるが

日蓮正宗には、その心の欠片ですら無い。

 

 

宗教依存症

 

ここに宗教依存症という病気がある。

恐らく長年、そういう坊主の説法を聞いてきた人は精神的な病

にかかってしまっているのではないか?何が何でも坊主のいう事

は絶対なのだ。自分に不幸が起きるとすべて自分に何かあると

考えてしまう。これって鬱病に似ている症状ですよ。

 

また宗教依存症とは自分では物事の判断ができず誰かの指示や

命令がないと動かないという特徴がある。

 

まわりの人に自身から動こうとしない人がいたら、その人は何か

の宗教にハマっている人である。

これが日蓮正宗だと宗教依存症などと言われたら坊主も困るわけ

ですから反論・または折伏という形で誤魔化すことがよくある。

 

ある日、こんな事を言われたことがあった。

「不信に思うのは信心が浅いからだ」という。

いやいや、そうやって宗教依存症に陥れてしまうのだと気づいたら

ただちに拒否すべき、先日お寺で朝の勤行をしました。

 

日蓮正宗の朝の勤行は東に向かって(諸天善神への供養)から始まり

諸天供養を終えたら御本尊に向きを変えて本尊供養を行う。

 

お寺の本尊の位置から諸天供養は東に向きなおらないといけないのだが

諸天供養を終えると北の方角に向きを変えることになる。面倒なので

皆が東から北へ向きを変えたところで向きを変えずに一人だけ東に

向かって勤行を続けていた。すると他の信徒から肩を叩かれた。

「ちょっと向き変えた方が良いよ」いやいや、僕は東が好きなんだよ

とそのままの向きで勤行を行いました。

 

珍しい奴だなぁ・・・・

 

誰しもそう思っただろうね。

でももとより内得信仰がメインの自分。自宅には御本尊なんてありません。

初めは御本尊がない信仰ってすごく違和感がありました。しかし、すでに

10年も経過しているし御本尊に向かって祈ること自体が違和感を感じる

ようになった。

 

もうだれの本尊もいらないよ

信じられるのは自分だけだと思うようになった。

 

宗教依存症という定義には理解できるし、御本尊に関しても自身が御本尊

だと思うようにもなった。

 

最も恐ろしいのはカルト的宗教依存症・・・・

宗教依存症は間違いなく違和感のある教えである。一般の人からすれば

とうてい信じられない世界を指す。難信難解なり・・・経典にも記載

されてはいるものの、度のすぎた難信難解では困る。

 

さらに進めばカルト宗教依存症と化す。こうなれば人を平和に救う教え

から人を殺める教えに転じていく。その始まりが他人の悪事を指して

責め倒すということから始まり癖になると更に厳しくなってくる。

厳しくすれば厳しいほど反感を食らうのも経典に書いてある通りだ。

それをどのような形で指導すべきかで宗教の良し悪しが決まってくる。