嘉利マスターが綴る 白山麓・磐座探訪記

嘉利マスターが綴る 白山麓・磐座探訪記

郡上市白鳥町のオーガニック カフェ 嘉利のマスター・友田勝也が、岐阜県など中部地方の聖なる磐座や巨石遺跡を訪れて感じたことなどを少しずつ書き綴っていきます。

オーガニック カフェ 嘉利(かりぃ)は、奥美濃・郡上白鳥の高原にポツンと建っている、ヴィーガンレストランです。スタッフは、マスター・友田勝也と、ママ・かな代。2012年春に愛知県からこの地に移住し、店を開業しました。
地球や動物や人の身体に負荷をかけず、しかも美味しい食のあり方を研究しながら、スピリチュアルな世界にも深く踏み込んで日々の暮らしを営んでいます。
ホームページ: https://www.kally-organic.com/
facebook: https://www.facebook.com/cafe.kally/
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前回、岐阜県下呂市金山町の金山巨石群を通る東経137度16分(グーグル・マップ上の経度)の南北ライン上に、太古の昔から現代に至るまで、極めて重要な施設が立地・造営されて来たことを指摘し、大胆にも「超古代・金山ライン」という名前を付けてみたのですが、記事を読んで下さった方の中には「ただの妄想だ!」と感じた方も少なくないのではないでしょうか。能登半島の宝立山や、富山市の呉羽山くらいは竹内文書で触れられているようだし、作家・布施泰和さんが著書で「羽根ライン」の一部として紹介しているからまだわかるが、金山巨石群より下、特に南端の「三ヶ根山(さんがねさん)」の「がね」を「金」と結び付けて「金山ライン」の名をこじつけたのはいかがなものか、という否定的な意見があったとしても無理はありません。そうです。聖地から聖地へと伸びる秘密の南北線「超古代・金山ライン」の信憑性を大きく左右するのは、紛れもなくその三ヶ根山だと僕も思っています。

(三ヶ根山からの眺望)[愛知県公式観光ガイド Aichi Now ウェブサイトより]

 

風光明媚な三河湾を望む、一見平凡な低山・三ヶ根山は実のところ、日本の近現代史において特別な存在感を放つ施設が立地している場所です。第二次世界大戦後の東京裁判で裁かれ、絞首刑に処された「A級戦犯」7人の墓が、この山の上にあるのです。処刑された7人の遺骨は、東京裁判の主任弁護人の一人であった三文字正平氏らが、米兵の監視の目を盗んで横浜の斎場から一部のみを持ち出し、熱海の寺で長い間秘密裏に保管。1960年8月、ここ三ヶ根山頂に埋葬されたのです。山頂近くに設けられた墓地は「殉国七士廟」として大規模に整備され、以降は大戦の戦没者たちの慰霊碑が立ち並ぶようになって、いまではその数80を超えるそうです。第二次大戦を人類の歴史上どのように位置付けるかは棚上げするとして、東アジア各地での戦争の遂行において大きな権限を行使し、全世界が注目する中で処刑されたという意味で、世界史的にも重要な7人の墓地に、なぜ三ヶ根山が選ばれたのでしょうか。

[Wikipedia「殉国七士廟」より]

 

表向きは当時の幡豆町(現在は西尾市に編入)役場の厚意で、将来の観光資源にもなるという前向きな見込みもあって三ヶ根山への墓地の設置が決定されたことになっています。でも、近隣地域の住民からは激しい反対意見が殺到したようですので、幡豆町役場の決断は驚くべき大冒険だったと言わざるを得ません。僕の思い込みであることを怖れずに言えば、幡豆町役場が自発的に手を挙げたというよりは、何らかの大きな圧力に押されて、本音のところでは「やむを得ず」決行したものだったと想像できるのです。もちろん、「A級戦犯」の遺骨を埋葬する場所である以上、日本政府がその選定にあからさまに関与する動きは見せなかったでしょうが、民間グループの私的な事業という仮面を被っていたとしても、その象徴的な影響を考えれば、「隠れた国家プロジェクト」として進められたと考える方が自然だと思うのです。
戦中の日本が、「大東亜共栄圏」を合言葉に「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想」を掲げていたこと。その構想を具体的に推し進め、最終責任をも引き受けて処刑された要人たちの墓地であること。そうした背景と霊的な意味を十分考慮したとき、このプロジェクトの関係者は日本でも特に重要なパワースポットを、墓地に相応しい場所として選んだに違いないのです。
日本の中心を南北に貫き、太古の昔から世界統治や天下統一の舞台となって来た「超古代・金山ライン」の存在を深く認識している人々が国の支配層の中にいるとしたら、「大東亜共栄圏」の旗振り役でもあった「殉国七士」慰霊の地をそのライン上に定めたとしても、なんの不思議もないと言えるでしょう。


一方で、三ヶ根山を岩石としての性質から見たときにも興味深い事実がわかってきます。山の南側一帯で採掘される花崗岩(通称・幡豆石)は、かつて天下の名城としてその名を轟かせた名古屋城・天守閣の石垣に使われました。

(名古屋城天守閣と石垣)

古代風水の世界では、「龍脈の正体は花崗岩(御影石)」と明確に言われています。「龍神」を崇敬する戦国大名や徳川将軍家も、そのことを熟知していたに違いありません。彼らが要となる城郭の石垣に花崗岩を特に多用し、良質なものであれば遠方から運んででも使っていた理由は、花崗岩が「龍脈」あるいは「宇宙エネルギー」をキャッチし、城内・城下を繁栄させるために欠かせないものだったからでしょう。エジプト・ギザのピラミッドに花崗岩の巨石が多用されている理由も基本的には同じだったと僕は思っています。


(ギザ・クフ王のピラミッド)


つまり三ヶ根山はありふれた低山などではなく、「超古代・金山ライン」の南端をおさえるに相応しい、大いなるパワースポットだったわけです。そして「金(かね)」という言葉は、文字通り金属のことを指すだけでなく、岩石に含まれるエネルギー放射力の高い鉱物のことをも意味するのではないか。場合によってそれは「隕鉄」を含むだろうと僕は睨んでいます。


ちなみに蛇足ですが、三ヶ根山は「超古代・金山ライン」上に乗っているだけではなく、遥か東方の富士山・山頂方向に直線を伸ばすと、その延長が真っすぐに東京の皇居まで届く位置関係になっています。つまり反対方向から見れば、皇居内に立つ人が富士山に正対すると、三ヶ根山の「殉国七士の墓」にも同時に真っすぐ向くことになります。そういう絶妙なポジションになることが十分に計算されたうえで、三ヶ根山の霊廟は建てられたのかも知れません。