この思いに
わたしも手を添えさせていただき
あたたかなばしょをいつでもよういして
これからも待っていようと思います。
大好きな「낙엽 - 落ち葉 - 」の曲にのせて
mickyforeverloveさまが作ってくださった
動画。
“ チャリティ ”という趣旨への彼らの真摯な姿勢は
昨日書かせていただきました。
今日も・・・ 夏に向かう被災地に
何が必要になってくるのか
同僚と、何かの行動につなげることができればと
話した次第です。
今日は「다시 시작 (タシシジャ)」への
思いを書かせていただきます。
「 落ち葉 」の
ラストフレーズ。
“ 다시 시작 ”(再出発とか『再びはじめるのだ』などの
訳を上げてくださっていた方が数名おられたかと思います)
この言葉を、メッセージとして掲げようとの
ファン企画がイベントの中でありました。
『再び、始める』
いろいろ・・・
いろいろな思いを
これまでに 皆様は
自由にご自分の思いを綴ってこられたと思います。
意を同じくして 愛の込められた思いを
届けてきた方。
意に反する思いに苛まれ
認めることはできないと
その気持ちを正直に綴られてきた方。
(いわゆるuntiとは一線を画して)
やり場のない気持ちを
静かに水面下に沈めて
それぞれの小さな希望をつなぐべく
優しい言葉を綴ってこられた方
いわゆる「大人の事情」を どれほどの方が
どの立場で どこまで 知っているのか・・・・
人は哀しきかな
求める生き物です。知的能力が備わっているだけに
もっともっとと 深読みし
真実はどこにあるのかと求めてしまうものです。
もういいじゃない・・・と思いつつも
求めてしまい 傷つき 信じられなくなり
そんな葛藤を繰り返し
見えるもの 言葉を越えて伝わるもの
自分の中の感性に響いたものへ
やっと目を向け始め
何に対して心を添えていくのか
自分の中で覚醒し 信ずる方へ歩を進めていくのではないでしょうか。
様々な葛藤や溜息や
錯綜する情報や
もっと知りたいという自我や
なんでこうなってしまったのかという
堂々巡りや
そして
大好きな人が見えなくなってしまった
あの日あの時・・・
あの時の自分を
ときどき責めてしまいます。
本当にごめんね…。
わたしの「タシシジャ」は思えば
11月のソウルコンあたりであったと思います。
先の動画を作られた mickyさまが
同じく苦しい思いを抱え
意を決して 酷寒のソウルへ飛び
そこで見せた メンバーの笑顔に
癒されつつも また一抹の淋しさを感じてしまったこと
でもやはり 彼の笑顔は
“ 信じてくれる? ”と 言っているようでした。
どれだけの 思いがそこにあるのか
どれだけの 苦しみを越えようとしているのか
自分の中のセンサーの感度を
出来うる限り高め
彼らの言葉に耳を傾けてきました。
ツイでの言葉
3声での メッセージ
一ファンの知れる範囲で
手に取れるだけの客観的な評価にも目を向け
自分なりの 伴走を ここまでつなげてきました
時に萎えそうな気持ちを
思いを同じくする皆様と寄り添うことで立て直し
ここまで来ることができたと 思います。
この6月7日は
やはり・・・
「明日は来るから」ではなく
「タシシジャ」のメッセージと
「チャジャッタ(見つけた)」の合唱が
場にふさわしいと
改めて思いました。
そんな風に あの日から
もう一つの流れへの寄り添いは
不可能に近いものであったと思います・・・。
それでも・・・・
きっと 人には言えない苦しみや
血を吐くような努力や
一般人は踏み込めない 事情がたくさん横たわっているのだろうと
人としての良識の中で
慮ることは 心の中で やってきたように思います。
でも、寄り添いきれないことは
軽々しく言葉にできない。
中でも
きっと深い哀しみや喜びがそこにこもっているであろうことを
見守りきれないことは
触れてはいけない・・・と 思うのです。
ただひたすら
大切に思っていることを
心の中で念じつつ。
今最も寄り添いたいと思うのは
JYJだから。
彼らは
私たちの文化の象徴の一つである
日本語という「言語」を駆使して
思いをつたえてくれました。
残念ながら、私は彼らの言語を
学んでおりません。
ならば 文明の利器を活用し
やはり「ハングル」を今日は使うことが
彼らへの礼儀であると
思った次第です。
mickyさまが動画の中で綴っておられる
言葉の数々
心の琴線に 共鳴するものばかりで
とても 温かい気持ちに包まれました。
一つの形にしてくださいましたことに
心よりお礼申し上げます。
これからも・・・
温かな思いを 花束にして
ふたたび はじめよう。
あしたも 自分にできることをさがして
あしたの自分を大切にして
生きていこう。
今日の喜びも哀しみも
明日への力にしよう
あしたも 彼らとみなさまが
しあわせを感じる日で
ありますように・・・。
わたしも手を添えさせていただき
あたたかなばしょをいつでもよういして
これからも待っていようと思います。
大好きな「낙엽 - 落ち葉 - 」の曲にのせて
mickyforeverloveさまが作ってくださった
動画。
“ チャリティ ”という趣旨への彼らの真摯な姿勢は
昨日書かせていただきました。
今日も・・・ 夏に向かう被災地に
何が必要になってくるのか
同僚と、何かの行動につなげることができればと
話した次第です。
今日は「다시 시작 (タシシジャ)」への
思いを書かせていただきます。
「 落ち葉 」の
ラストフレーズ。
“ 다시 시작 ”(再出発とか『再びはじめるのだ』などの
訳を上げてくださっていた方が数名おられたかと思います)
この言葉を、メッセージとして掲げようとの
ファン企画がイベントの中でありました。
『再び、始める』
いろいろ・・・
いろいろな思いを
これまでに 皆様は
自由にご自分の思いを綴ってこられたと思います。
意を同じくして 愛の込められた思いを
届けてきた方。
意に反する思いに苛まれ
認めることはできないと
その気持ちを正直に綴られてきた方。
(いわゆるuntiとは一線を画して)
やり場のない気持ちを
静かに水面下に沈めて
それぞれの小さな希望をつなぐべく
優しい言葉を綴ってこられた方
いわゆる「大人の事情」を どれほどの方が
どの立場で どこまで 知っているのか・・・・
人は哀しきかな
求める生き物です。知的能力が備わっているだけに
もっともっとと 深読みし
真実はどこにあるのかと求めてしまうものです。
もういいじゃない・・・と思いつつも
求めてしまい 傷つき 信じられなくなり
そんな葛藤を繰り返し
見えるもの 言葉を越えて伝わるもの
自分の中の感性に響いたものへ
やっと目を向け始め
何に対して心を添えていくのか
自分の中で覚醒し 信ずる方へ歩を進めていくのではないでしょうか。
様々な葛藤や溜息や
錯綜する情報や
もっと知りたいという自我や
なんでこうなってしまったのかという
堂々巡りや
そして
大好きな人が見えなくなってしまった
あの日あの時・・・
あの時の自分を
ときどき責めてしまいます。
本当にごめんね…。
わたしの「タシシジャ」は思えば
11月のソウルコンあたりであったと思います。
先の動画を作られた mickyさまが
同じく苦しい思いを抱え
意を決して 酷寒のソウルへ飛び
そこで見せた メンバーの笑顔に
癒されつつも また一抹の淋しさを感じてしまったこと
でもやはり 彼の笑顔は
“ 信じてくれる? ”と 言っているようでした。
どれだけの 思いがそこにあるのか
どれだけの 苦しみを越えようとしているのか
自分の中のセンサーの感度を
出来うる限り高め
彼らの言葉に耳を傾けてきました。
ツイでの言葉
3声での メッセージ
一ファンの知れる範囲で
手に取れるだけの客観的な評価にも目を向け
自分なりの 伴走を ここまでつなげてきました
時に萎えそうな気持ちを
思いを同じくする皆様と寄り添うことで立て直し
ここまで来ることができたと 思います。
この6月7日は
やはり・・・
「明日は来るから」ではなく
「タシシジャ」のメッセージと
「チャジャッタ(見つけた)」の合唱が
場にふさわしいと
改めて思いました。
そんな風に あの日から
もう一つの流れへの寄り添いは
不可能に近いものであったと思います・・・。
それでも・・・・
きっと 人には言えない苦しみや
血を吐くような努力や
一般人は踏み込めない 事情がたくさん横たわっているのだろうと
人としての良識の中で
慮ることは 心の中で やってきたように思います。
でも、寄り添いきれないことは
軽々しく言葉にできない。
中でも
きっと深い哀しみや喜びがそこにこもっているであろうことを
見守りきれないことは
触れてはいけない・・・と 思うのです。
ただひたすら
大切に思っていることを
心の中で念じつつ。
今最も寄り添いたいと思うのは
JYJだから。
彼らは
私たちの文化の象徴の一つである
日本語という「言語」を駆使して
思いをつたえてくれました。
残念ながら、私は彼らの言語を
学んでおりません。
ならば 文明の利器を活用し
やはり「ハングル」を今日は使うことが
彼らへの礼儀であると
思った次第です。
mickyさまが動画の中で綴っておられる
言葉の数々
心の琴線に 共鳴するものばかりで
とても 温かい気持ちに包まれました。
一つの形にしてくださいましたことに
心よりお礼申し上げます。
これからも・・・
温かな思いを 花束にして
ふたたび はじめよう。
あしたも 自分にできることをさがして
あしたの自分を大切にして
生きていこう。
今日の喜びも哀しみも
明日への力にしよう
あしたも 彼らとみなさまが
しあわせを感じる日で
ありますように・・・。
