チェルノブイリと福島の原発事故て‥


ラジオ局「ロシアの声」より


福島 心配される人体への放射線の影響

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全文章を抜粋させて頂き、帰属をさせて頂きます。
心より感謝をいたします。

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http://jig133.mobile.ogk.yahoo.co.jp/fweb/0325vYDyCXHj2JLL/6a?_jig_=http%3A%2F%2Fjapanese.ruvr.ru%2F2011%2F04%2F10%2F48726275.html&_jig_keyword_=%DB%BC%B1%A5%93%FA%96%7B%82%CC%8C%B4%94%AD&guid=on&_jig_xargs_=R&_jig_pj_=1


 福島第一原子力発電所で事故が起きた時、専門家の中には「日本の原子炉は原則的にチェルノブイリにあったものとは違うので、あの時のような心配をするには及ばない」と主張する人もいた。 しかし、その後、放射性物質の放出が始まり、すべてはますますチェルノブイリの状況に近づいて行った。 フランスの新聞「L’Express」の報道によれば、東京電力は、福島第一原子力発電所事故処理のためチェルノブイリの専門家達を招待するとの事だ。
  皆を心配させている問題は、何といっても「人の健康に、どんな悪影響があるか」という事だが、意見は様々だ。 ロシア放射線防護委員会のヴィクトル・イワノフ議長は次のように述べている-
 
「予測の課題を正しく解決するためには、3つの主要な視点が必要だ。まず第一に、放射線量。 第二に、浴びた放射線量に関する人口動態学的データだ。というのは、同じ放射線量を浴びても、男女が受けるリスクは違うからだ。女性のほうがリスクが大きい。 そして第三に必要なのは、放射線リスク評価のモデル(ひな形)だ。ロシアには、すべてのモデルはあるが、人口動態学的データ及び放射線量に関するデータの情報が今のところない。」
  ロシアとウクライナの医師達によれば、チェルノブイリで事故処理に当たった人々で、同時におよそ300ミリシーベルト(0.3グレイ)かそれ以上の放射線を浴びた人々の中に、深刻な障害が生じたという事だ。
  ここで再び、イワノフ議長の話を引用したい-
  「我々は、福島で事故処理に当たっている方々の浴びる放射線量を150ミリシーベルトに抑えるよう勧める。福島では、一昼夜の放射線量の限界は2から3ミリシーベルトなので、そうした値を越えた人は少ない。この数値内なら、放射線のリスクは見られない
ただこの数値を越えれば、チェルノブイリ後のような有害な生物学的影響が生じる可能性がある。」

専門家達は、福島ではチェルノブイリとは違って、放射線火傷や激しい嘔吐、胃の不調、高熱といった放射線被爆による病気の問題は起こらないのではないかと見ている。 チェルノブィリ原発事故の後では、そうした患者がおよそ150人出た。彼らは皆、治療のためモスクワやキエフの病院に送られ、多くの命が救われた。
ロシア科学アカデミー準会員でアンゲリーナ・グシコワ放射線医は、次のように話している-
  「彼らの大部分は、快方に向かった。モスクワでもキエフでも、医師達は、この事を確認している。 大変重要なのは、そうした人々の勤労意欲と個人的な目標だ。 最近、日本の取材班が我々の所に来て、放射線障害に罹った人についてのフィルムを撮った。この人物は、約4.5グレイ (4500ミリシーベルト)の放射線を浴び、皮膚の70%に障害を受けながら回復し、今では積極的にビジネス活動に取り組んでいる。 最近亡くなったのは、11グレイを浴びた患者で、彼は年齢的に最も若く、我々は精魂込めて治療に当たった。彼は、放射線障害の方は良くなったものの、肝硬変で亡くなった。」
 今、深刻な脅威としてクローズアップされてきているのは、放射線恐怖症である。これは、放射線の影響をあまりに心配しすぎると、病的症状が感じられ、時には実際的な身体の不調を呼び起こすものだ。 それゆえ医師達は、不要なパニックの種を蒔かないよう、事故に関する正確な情報公開を求める一方で、冷静で理性的な対応の必要性を強く訴えている。

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ロシアから見れば、チェルノブイリとこの原発を一くくりに、してしまえば一緒だと思う‥
ただ思う事は、日本のこの原発、今は確かに前進をして正の現実が、外見からしか見えてこないが‥
負の現実隠された事実は、またこの正の現実のせいで隠れてしまったと私は思う‥
負の現実隠された事実に対しての公表を政府は包み隠さずに行ってほしいと、私は思う‥
このままでは、諸外国の眼は福島の原発だけの負の強い懸念感と日本全体への負の強い懸念感を益々、抱くばかりである。