ブログを通して、複数の方からシャトー・ラフィットの賛辞を拝聴した!そこで、某所に預けているラフィットの1864(誕生年の100年前のヴィンテージ)に敬意を表する形で、シャトー・ラフィット・ロートシルトのなんたるかを追想する!
世界で一番大好きなワイン、それが、ラフィット!
その来歴を振り返り、
いつか飲む筈の、
もの凄いラフィットに思いを馳せる!
http://www.lafite.com/jpn/
■そもそも、1864とは?


□プレ・フィロキセラのシャトー・ラフィット・ロートシルト:
19世紀末フィロキセラ騒動以前のワイン。ヨーロッパのブドウ(樹)がフィロキセラ(害虫)により、壊滅的被害を受ける前に生産されたワイン。現在世界中探しても、滅多にお目にかかれるワインではない。
琥珀、ルビー色をした1864年ラフィット・ロートシルトは、西洋杉やカシスのムートンの様なノーズとともに、驚くほどの強烈さやブドウの完熟感を持っていた。口に含むと、この上ない新鮮さ、甘い果実味、驚くほど高いアルコール、すばらしい、エキゾチックな、アジアのスパイス、タバコ、グラーヴのような風味が感じられる。驚くほどの力強さや強烈さがこの完ぺきに美味しい、心動かされるワインのフィニッシュにある。
ロバート・パーカー Jr.『ボルドー 第4版』
■ラフィットとは?

http://www.lafite.com/
http://www.suntory.co.jp/wine/winery/060/
シャトー・ラフィット・ロートシルト(Chateau Lafite-Rothschild)は、メドック地区ポーイヤック村にある著名なボルドーワインのシャトーの名称、および同シャトーが生産する赤ワインの銘柄の名称である。現在メドックに4つある第1級格付けワインの中で、シャトー・ラフィット・ロートシルトは、しばしば、その筆頭に挙げられる。
日本で知られている「ロートシルト」の名は「ロスチャイルド」のドイツ語風の読みであり、フランス語での発音は異なる。日本ソムリエ協会では「ロッチルド」もしくは「ロートシルト」とルビを振っている。他に「ロスシルド」などと表記されることもある。ただし、シャトー・ラフィット・ロートシルトの運営主体であるDBR社では「ロートシルト」という日本語表記を採用している。なお、シャトー・ムートン・ロートシルトはロスチャイルド家の別の系統の一族が所有している。
シャトー・ラフィット・ロートシルトは、ボルドーの北西メドック地区の高名なワイン生産地ポーイヤック村の北端に位置する。シャトーの敷地面積は123ヘクタールで、うち100ヘクタールがブドウ畑となっている。石灰質を基盤とする砂利質のテロワール(土壌)はメドックでも最上と目されている。
品種別の作付面積は、カベルネ・ソーヴィニョンが70パーセント、メルローが25パーセント、カベルネ・フランが3パーセント、プティ・ヴェルドが2パーセントである。
ワインの生産量は年間3万5,000ケース(42万本)である。うち1万5,000から2万5,000ケースがメドック第1級格付けの赤ワイン「シャトー・ラフィット・ロートシルト」として出荷される。第1級の名声に達しないと判断されたワインは、セカンドラベルの「カリュアド・ド・ラフィット」として出荷される。
ワインのブレンド比率は、80パーセントから95パーセントがカベルネ・ソーヴィニョン、5パーセントから20パーセントがメルロー、3パーセント前後がカベルネ・フランとプティ・ヴェルドとなっている。ブレンド比率はその年のブドウの出来具合によって変わる。
極端な例では、1961年のヴィンテージではカベルネ・ソーヴィニョンを100パーセント使用していた。カベルネ・ソーヴィニョンの比率が高いことで、タンニンの強いフルボディのワインとなるが、その味わいは酸味と渋味のバランスが程よく、品格を感じさせるものとなっている。
■ラフィットの来歴
シャトー・ラフィット・ロートシルトは、1855年の公式格付けで、グラン・クリュ第1級の第1位に認定された、名実ともに世界最高峰の赤ワイン。力強さの中に、あくまでも繊細な気品を秘めたその風味には比類がない。
□シャトー ラフィットの起源とセギュール家:
ラフィットという名が聞かれるようになったのは、1234年、ポイヤック北部のヴェルトゥイユ修道院長、ゴンボード・ド・ラフィットの登場からだが、中世の領土の名前として登場するのは14世紀になってから。ラフィットという名はガスゴーニュ語で「小高い丘」を意味する“La Hite (ライット)”に由来する。ここには以前から葡萄畑が存在していたと考えられているが、素晴らしいワインを造るシャトーとしての評判が高まったのは、17世紀、セギュール家が葡萄畑を作ってから。1670年代から1680年代はじめにかけて、この葡萄畑を興したのは、ジャック・ド・セギュールとされている。
1695年、ジャック・ド・セギュールの息子、アレキサンドルが、シャトー ラトゥールの女性相続人と結婚し、ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュールをもうけた。こうして、ラフィットとラトゥールの領土は統合され、偉大なワイン造りの歴史の幕が開いたのだ。
□ニュー・フレンチ・クラレット(赤ワイン):
18世紀初頭、ラフィットのワインはロンドンで販売されるようになる。1707年の官報『ロンドン・ガゼット』には、ラフィットのワインが「ロンドンで競売にかけられた」と記されている。これらのワインは、イギリスの海賊船やイギリス海軍の船舶が押収した外国商船に積まれていたもの(当時はスペイン王位継承戦争のさなかにあった)。
『ロンドン・ガゼット』はラフィットなどのボルドーワインを「ニュー・フレンチ・クラレット」と呼び、競売では、正確な産地に続き、製造年が知らされた。1732年~1733年には、ワイン愛好家として知られるイギリス首相ロバート・ウォルポールが3ヵ月ごとにラフィットを樽で購入していたが、フランスでボルドーの赤ワインが認知されたのは、それから暫く経ってのことだった。
□「王のワイン」と「葡萄の王子」:
1716年、ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵はラフィットの成功を確実なものにするための取り組みを始めました。ワイン造りの技術を改善し、特に外国市場とヴェルサイユ宮廷で最高級ワインとしての名声を高めた。侯爵は「葡萄の王子」として知られるようになり、ラフィットは、有能な大使マレシャル・ド・リシュリューの支援で「王のワイン」となる。
1755年、ギュイエンヌ(フランス南西部のボルドーを中心とするフランスの旧州名)の総督に任命されたマレシャル・ド・リシュリューは、ボルドーの医師の診察を受けた際、医師から「最上で心地よい強壮剤だ」とシャトー ラフィットのワインを勧められた。
その後パリに戻り、ルイ15世に謁見した際、ルイ15世は「マレシャル、君はギュイエンヌに行くときよりも25歳は若返って見える」と言う。
それに対し、リシュリューは「陛下は、私が若返りの泉を見つけたことをまだご存知ないのでしょうか?シャトー ラフィットのワインは元気が出るコーディアル、オリンポス神のアムブロシア(神々の食べ物)のような美酒です」と答えた。
その直後、ラフィットはヴェルサイユで大変な話題となり、王が認めたワインとして崇められるようになる。誰もがラフィットのワインを欲しがり、ルイ15世の寵妃ポンパドール夫人の晩餐会にも出されたのだ。後の寵姫バリー夫人も「王のワイン」以外は飲まないとした程だった。
□困難な相続:
侯爵には息子がいなかったため、ラフィットは4人の娘に分け与えられた。こうして、ラフィットはラトゥールから分離されたが、1785年までは、どちらもセギュール家が所有・管理していた。
侯爵の長女は、従兄弟でパリ市長のアレキサンドル・ド・セギュールと結婚し、その息子のニコラ・マリー・アレキサンドル・ド・セギュール伯爵が、ラフィットを引き継ぐ。
1785年に執筆された作者不明の「ラフィットの領地」についての伝記には、ラフィットは「世界一の葡萄園」であると記述されている。しかしセギュール伯爵にとって、物事はそれほど上手く行かなかった。莫大な負債をかかえた伯爵は、1784年、シャトー・ラフィットの売却を余儀なくされた。
伯爵の親戚で、ボルドー議会初代議長のニコラ・ピエール・ド・ピシャールは、「親族の権利」をうたった法律を行使してラフィットを購入したのだ。
□トーマス・ジェファーソン:
フランス革命前夜、ラフィットはワイン造りの頂点にあった。この様子は、後のアメリカ合衆国大統領、トーマス・ジェファーソンが残した素晴らしい文献に記されている。ヴェルサイユ宮廷にアメリカ共和国大使として駐在していた、農業家、ビジネスマン、政治家、弁護士、建築家、外交官、そしてヴァージニア大学の創始者という多彩な顔を持つジェファーソンは、ワイン造りに大変興味を持ち、祖国でのワインを造りを思い立つ。
そこでジェファーソンは、1787年5月、ボルドーに滞在し、シャルトロン地区の有力ワイン商を5日間でまわり、多くの情報を集めた。そのときの様子を記した旅行記には、後に主要ワインとなる4つの中のひとつが、シャトー・ラフィット。ジェファーソンは死ぬまでボルドーワインを愛し、飲み続けた。
□オランダの領土:
ラフィットの管理者であったセギュール家は、残酷な事件がきっかけで、その役割を終えることになりました。「恐怖政治」としてフランスの歴史に名を残すこの時代、短期的に使用されていた革命歴でいうところの、2年の収穫月12日目(1794年6月30日、共和暦)、ニコラ・ピエール・ド・ピシャールが処刑された。シャトー・ラフィットのホールには、1797年9月12日にラフィットが競売にかけられることを告知するポスターが貼られている。その中でラフィットは、『ボルドー最上級ワインを生産する、メドック地区の一流葡萄園』と説明されている。
そのラフィットを購入したのは、オランダ籍のジャン・ド・ウィットだが、すぐに、同じオランダ籍の3人の商人に売却せざるを得なくなる。売却直後からラフィットは数々の素晴らしい管理者に恵まれたが、中でも最も顕著な活躍をしたのは、ジョセフ・グーダル。グーダルは19世紀初頭、素晴らしい手腕を発揮してシャトーを管理した人物だ。1800年から所有者となった3人の名前は、ジャン・アレンド・ド・フォス・ファン・スティーンヴウィック、オトン・ギョーム・ジャン・ベルグ、そして、ジャン・ゴル・ド・フランケンシュタインとなる。
□ヴィンテーンベルグの謎:
1818年、ラフィットの新しい所有者になったのは、バルブ・ロザリー・ルメール夫人でした。ルメール夫人は、大手穀物卸売商でナポレオンに武器を供給していたイニャス=ジョセフ・ヴィンテーンベルグの妻だった。
夫の死を受け、ルメール夫人が1821年、ラフィットをイギリス籍のサー・サミュエル・スコットに正式に売却した際、不可解なことがおこった。
スコットとその息子は1867年までラフィットを実際にしっかりと管理、運営を行っていたが、スコット親子は、実は、ルメール夫人とイニャス=ジョセフ・ヴィンテーンベルグの間に生まれた息子、エメ・ウジューヌ・ヴィンテーンベルグの代理人だった。
1866年、エメ・ウジューヌ・ヴィンテーンベルグの財産相続時に、故人の所有権を証明するための書類が出された。この事実はずっと伏せられていたが、その50年後、ヴィンテーンベルグの名前がラフィットの歴代所有者の中に加えられた。この期間は、歴史的なヴィンテージに恵まれ、素晴らしい品質の1795年と1798年、そして1801年、1802年、1814年、1815年、中でも特に1818年が、良いヴィンテージとなった。
□1855年の格付け:
1815年、仲買業者のギョーム・ロートンが、メドック地区のワインの私的格付けを発表した。
ロートンの格付けは、1855年の格付けとほぼ一致していたことから、とても正確な評価だったといえる。ラフィットは、そのとき、既に、リストの上位に位置していた。
ロートンは、「ラフィットを3つの(一流ワイン)の中で、最も上質の葡萄を使った、最も優美で、繊細なワインと評価した」とコメントし、さらに「メドック地区で一番優れたワイン」と付け加えた。なかでも1834年のヴィンテージは1841年同様、特に優れており、1846年もとりわけ優れていた
。1855年、パリ万国博覧会のヴィンテージ・ランキングでは、「最高級ワインのリーダー的存在」との公式評価を獲得。メドック地区の葡萄園にとってこのランキングは、その後迎える驚くべき成功の時代の基準点となる。この期間の上質ヴィンテージは、1847年、1848年、1858年、1864年、1869年、1870年そして1876年だ。
□ジェイムズ・ド・ロートシルト男爵:
1868年8月8日、ジェイムズ・ド・ロートシルト男爵が、イニャス=ジョセフ・ヴィンテーンベルグの遺産として競売に出されていたシャトー・ラフィットを購入した。ロートシルト家フランス支部のトップだったジェイムズ男爵は、ラフィット購入のわずか3ヵ月後に亡くなりました。ラフィットはその後、アルフォンス、ギュスターブ、エドモンドの3人の息子に引き継がれた。
ラフィットには、当時74ヘクタールの葡萄畑があった。新しい所有者を歓迎するかのように、1868年のヴィンテージは、あらゆる意味で記録に残るものとなった。そのヴィンテージイヤーのワインの中で、最高値がついたので、1トノー(900リットル、225リットルの樽4個分)の値段が当時の金額で6,250フラン(現在の4,700ユーロ)。この記録は、20世紀の終わりに破られたが、19世紀の最高値として記録されている。アルフォンス、ギュスターブそしてエドモンド男爵にとって幸運だったのは、メドック地区の「黄金時代」がラフィット購入後15年間続いたことだった。
□災難と戦争そして危機:
19世紀末から20世紀前半にかけては激動の時代だった。葡萄畑がフィロキセラ(葡萄の根の寄生虫)とカビが原因のウドン粉病、ベド病の被害にあったのに加え、産地を偽る組織的詐欺が主要ヴィンテージに被害を与えた。さらに、第一次世界大戦の勃発や世界大恐慌の発生により、価格が急激に下落した。
うどん粉病、ベド病で大きな被害が出ていたシャトー ラフィット・ロートシルトは、1882年から1886年まで、そして1910年と1915年のヴィンテージを使用しない方針をとりました。また、組織的詐欺に対抗するため、シャトー内での瓶詰めも実施。第一次世界大戦中、ラフィットは徴兵召集と供給の制限により大きな打撃を受け、さらに1930年代の大恐慌にも苦しむ。市場は底値が続き、前代未聞の経営危機を招いたことが、葡萄畑の縮小につながる。この暗黒の時代で例外的なのは、1899年、1900年、1906年そして1926年と1929年で、素晴らしいヴィンテージとなる。
□第二次世界大戦と占領:
第二次世界大戦で、ラフィットはまた別の試練を経験した。1940年6月、フランスの降伏により、メドック地区がドイツ軍に占領されたのだ。ドイツ軍は、シャトー ラフィット・ロートシルトとシャトー ムートン・ロートシルトを占拠した。ロートシルト家の所有地は没収され、行政の管理下におかれた。
ドイツの手に落ちるのを避けるため、フランスのドイツ傀儡(かいらい)政権の計らいで、ワイナリーは1942年、解散させられ、農業訓練学校として使用されるようになる。
徴用や古いヴィンテージの略奪により、品不足は深刻化し、規制もますます厳しくなったことが、シャトーにとって大きな痛手となった。
バロン・ド・ロートシルトは1945年末、シャトー ラフィット・ロートシルトの所有権を取り戻し、エリー男爵がシャトーの再生を手がけた。その努力は1945年と1947年、そして1949年の素晴らしいヴィンテージという形で報われた。
□エリー男爵の再生事業:
エリー男爵は、葡萄畑と施設の再生、シャトーの管理体制の全面的な見直しに取りかかりました。1950年代には、シャトーの下手に広がる草原から有機肥料を調達するため乳用牛を飼うという、具体的な対策を採った。
また、高級ワイン市場の再生という難題にも率先して取り組み、ロンドンの「試飲会」への積極的な参加や、1950年にはメドック地区のワイン製造者組合、ボンタン騎士団の設立に携わるなどの活動を通じて再生に努めました。1955年は素晴らしい年となり、ワインの再生が進んだことを証明しましたが、1956年2月、ボルドー地方の葡萄畑は、ひどい霜害に見舞われた。
それでも、1959年と1961年には再び素晴らしいヴィンテージに恵まれた。1960年代は新しい市場、特にアメリカに市場を創出したことで、再生事業の総仕上げとなる。シャトー ラフィット・ロートシルトとシャトー ムートン・ロートシルトの競争により、価格が上昇した。
□エリック男爵の再開発事業:
ボルドー地方を直撃した1973年から1976年の小さな危機の後、1975年と1976年には素晴らしいヴィンテージに恵まれ、再生の幕開けとなった。
また、エリー男爵の甥にあたるエリック・ド・ロートシルト男爵が運営を引き継いだことで、再生が確かなものになった。
エリック男爵は、素晴らしいワイン造りのための研究を行い、新しいテクニカルチームの人材を徐々に増やしていくことで、シャトーの運営に新しい空気を取り入れた。葡萄畑では、肥料の与え方の見直しや除草剤の限定使用によって、植え替えや再建作業が進められた。醸造所では、オーク樽の横にステンレスタンクが設置され、熟成用の円形貯蔵庫がカタロニア人建築家のリカルド・ボフィル監督の下建築されました。2,200樽の収容能力を持つこの新しいスタイルの貯蔵庫は、その斬新性と妥協を許さない精神が高く評価された。
同様の芸術的な精神に基づき、1985年、エリック男爵は芸術写真家を招待し、シャトー ラフィットの写真撮影を依頼。この慣習は、今も毎年続けられている。今までに招待した写真家は、ジャック・アンリ・ラルティーグ、アーヴィング・ペン、ロベール・ドアノー、リチャード・アヴェドンなど。さらに、フランスや海外のドメーヌ(バロン・ド・ロートシルト領地の「歴史」のページを参照)の買収を通じて、領地を広げていきた。1980年代(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)の素晴らしいヴィンテージは市場でますます高値がつくとみられている。
□将来有望なヴィンテージ:
こうした好調な市況は1990年代いっぱい続いた。21世紀を平穏に迎え、多くの新しい上質のヴィンテージが現在、地下と地上の貯蔵庫で熟成に入っている。中でも1995年、1996年、1998年、1999年そして2000年のものは、年を経るに従い、その素晴らしさが明らかになるだろう。この楽観的な見通しは、高品質を追求する長年の研究成果に基づいて出されている。
■シャトー・ラフィット・ロートシルトの葡萄畑
□畑の位置: 3つの主要地域(シャトーの丘の中腹、西のカリュアド台地、近隣のサンテステフに4.5ヘクタールの畑)に位置する。
□面積:
178ヘクタール(内103ヘクタールが葡萄畑)
□土壌:
風積土と混じった深く細かい砂利層。下層部は第三世紀の石灰質。
十分な排水処理と日光照射が行われている。
□葡萄品種と栽培比率:
カベルネ・ソーヴィニヨン(71%)、メルロ(25%)、カベルネ・フラン(3%)、プティ・ヴェルド(1%)
□平均樹齢:
平均30年。畑の20ヘクタールを占める、10年以下のものはグラン・ヴァン(シャトー ラフィット・ロートシルト)には使用されないため、グラン・ヴァンに使用されている葡萄の平均樹齢は40年。特筆すべきことは、18ヘクタールの葡萄が樹齢50年以上だということ。最も古い区画は「ラ・グラビエル」と呼ばれており、1886年に植えられた葡萄は樹齢115年。他の2つの区画の葡萄も樹齢80年以上だ。
□運営は、DBRのテクニカル・ディレクター チャールズ・シェバリエが行う:
敷地や葡萄畑が隣接していることから、シャトー ラフィット・ロートシルトとシャトー デュアール・ミロンは1962年から同じチームが管理している。両シャトーは厳格な収穫技術に基づき、手作業での収穫を実施。年間を通じて、定期的にメンテナンスを行っている。化学肥料はほとんど使わず、有機肥料もわずかのため、寿命の長い葡萄の木を育てることができる。樹齢80年を超えた株だけを(後ろ髪を引かれる思いで)引き抜いている。
□ワイン造り:
収穫された葡萄を区画ごとに別々のタンクに入れ、発酵させる。こうすることで、葡萄の出所がわかるようにするのだ。ラフィットでは、伝統を守りつつ、現代的な手法も合わせて使用している。発酵には2つの発酵槽を使用。伝統的な発酵槽は巨大なオーク樽で、ステンレス製の現代的な発酵槽は、冷却温調装置と、自動温度制御装置を備えている。アルコール発酵後、テイスティングする。「フリーラン・ジュース(圧力をかけずに自然に流れ出た果汁)」と絞り滓は分離され、絞り滓は「プレスワイン」を作るために、圧搾機にかけられる。その後、それらを纏めて別の樽に移す前に、タンク内でマロラクティック発酵と呼ばれる二次発酵を行う。ここで使用される熟成用のオーク樽は全てDBRの樽工房で作られている。
□熟成:
それぞれのタンクから数回テイスティングをし、全てのワインの品質を確認します。ワインのブレンドは、3月に実施される初回のラッキング(オリ引き)後に実施される。その後、ワインは貯蔵庫で18ヵ月から20ヵ月の熟成に入る。この間、ワインを浄化するため、醸造の責任者が定期的にオリ引きをする。それぞれの樽に4~6個の軽くといた卵白を加え、浮いている不純物を吸収し、樽の底に沈ませる。その後、ワインは6月に瓶詰めされる。
□年間生産量:
シャトー ラフィット・ロートシルトとセカンドワインのカリュアド・ド・ラフィットのここ10年の年間平均生産量は、45,000ケース。
■シャトー・ラフィット・ロートシルトのセカンドワイン

カリュアド・ド・ラフィット・ロートシルト
かつては1995が5000円。今は3万円?余りに馬鹿げている!
■由来
「ラフィット」という呼び名は中世の農園の名称として14世紀の文献に登場する。ポーイヤック村の中で一番小高い丘に位置していたことから、古いガスゴーニュ語で「小高いところ」を意味する「La Hite」(ラ・イット)が転じてラフィットと名づけられたという。ブドウの作付けは中世から行われていたが、17世紀にセギュール家がシャトー・ラフィットの所有者となり転機が訪れた。1670年代から80年代にかけて、ジャック・ド・セギュールがブドウ畑を広げ、ワインの生産を本格化させた。
ジャックの相続人アレキサンドルは1695年にシャトー・ラトゥールの女性相続人と結婚し、息子のセギュール侯爵ニコラ・アレキサンドルをもうけた。ラフィット、ラトゥール、カロン・セギュールなどの広大な農園を相続したセギュール侯爵は、ワインの生産技術の改良に力を注ぐとともにヨーロッパ各国の上流階級へ販路を広げ、ほどなく「葡萄園の王子」とあだ名されるようになった。当時ボルドーワインの需要の中心地は、歴史的経緯もあってイギリスであった。ワイン好きの首相ロバート・ウォルポールは3か月ごとにラフィット1樽、つまり普通サイズのワイン瓶300本分を空けていたという。
一方、フランスの宮廷ではギュイエンヌ(ボルドーの旧州名)は田舎というイメージがあり、専らブルゴーニュワインが愛飲されていた。1760年、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人は、ワインで王の歓心を買おうとブルゴーニュのある高名な畑を手に入れようとしたが、コンティ公に競り負けてしまう。この畑は後にロマネ・コンティと呼ばれるのだが、顛末を見ていたギュイエンヌ総督のリシュリュー男爵マレシャル(リシュリュー枢機卿の縁者)が、代わりにラフィットをポンパドゥール夫人に勧め、大いに気に入った夫人はヴェルサイユ宮殿の晩餐会で必ず飲むようになった。これをきっかけにボルドーワインが宮廷で脚光を浴び、中でもラフィットは「王のワイン」という名声を得ることになった。
フランス革命前夜、ラフィットの名声は既に揺るぎのないものとなっていた。当時ヴェルサイユにアメリカ合衆国大使として赴任していたトーマス・ジェファーソンはアメリカ大陸でのワイン造りを思い立ち、1787年5月にラフィットを含む主要なボルドーワインを調査して回った。ジェファーソンもまたラフィットに魅せられ、生涯の愛好者となった。
時代は遡って18世紀半ば、「葡萄園の王子」セギュール侯爵には男子がいなかったため、数々のシャトーは4人の娘に分与され、ラフィットとラトゥールは再度分離した。その後ラフィットを相続したニコラ・マリー・アレキサンドル・ド・セギュールは莫大な借金を抱え、ラフィットは親戚のニコラ・ピエール・ド・ピシャールの手に移るが、ピシャールは恐怖政治の時代にギロチン送りとなる。数人の所有者を経て、19世紀前半に所有者となったのはオランダ商人のヴィンテーンベルグ家であった。その間もワイン造りは受け継がれ、1855年のパリ万国博覧会で行われたメドック公式格付けでは、第1級格付けの筆頭として最高評価を受けた。
1868年8月8日、ロスチャイルド財閥創始者マイヤー・アムシェルの5男でパリ在住の銀行家ジャーム・ド・ロッチルドが、ヴィンテーンベルグ家から競売に出されていたシャトー・ラフィットとシャトー・カリュアド(後にラフィットと統合される)を444万フランの大金で競り落とし、新たな所有者となった。ジャームはこのわずか3ヵ月後に亡くなったが、シャトー・ラフィットは「シャトー・ラフィット・ロートシルト」と改名され、ロスチャイルド家に引き継がれた。その後19世紀後半にかけて、ヨーロッパではワインの需要が拡大し、メドックは好景気に沸いた。
19世紀末から20世紀前半は苦難の時代であった。ブドウ畑がアメリカ大陸からもたらされたフィロキセラの被害に遭い、第一次世界大戦では働き手の兵役や経済統制により大きな打撃を受けた。大恐慌の時代はワイン市場も底値が続いた。第二次世界大戦でフランスがドイツ軍によって占領されると、ラフィットはロスチャイルド財閥の財産であるこを理由に解散させられ、セラーも略奪を受けた。
1945年末、エリー・ド・ロッチルド男爵がラフィットの所有権を取り戻し、シャトーの再生に着手した。さらに、ワイン愛好・振興団体であるボンタン騎士団の創設、アメリカ市場の開拓など需要拡大策にも積極的に取り組んだ。だが1960年代から70年代にかけては停滞し、評価を落としてしまう。1974年、エリーの甥のエリック・ド・ロッチルド男爵が事業を継承、品質の向上を成し遂げ、名声を回復した。現在は醸造責任者シャルル・シュヴァリエのリーダーシップのもと、世界最高水準のワインを生み出し続けている。
■ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト

シャトー・ラフィット・ロートシルトの運営主体となっているのは「ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト」(DBR)という企業体である。DBR社はフランス国内外のドメーヌへ出資し、色々な種類のワインを手がけている。
現在、DBR社傘下にあるドメーヌで著名なものは、以下の通りである。
□シャトー デュアール・ミロン - メドック第4級

シャトー デュアール=ミロンで造られるこの素晴らしいワインは、ポイヤックの典型的なワインである。ワインには緻密さを備えた気品が感じられる。ワインの仲買人であったアブラハム・ロートンは、すでに1815年の時点で、「しっかりした味わいと素晴らしい色調、そして際立った芳香がある」と記している。このシャトー デュアール=ミロンの強烈な個性は、現在でもそのまま通用することができる(メドック地区の大シャトーの芳香は“最上の封蝋を燃やした時に広がる香りのようなもの”と美しく定義されている)。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン70~80%、メルロ20~30%
オーク樽での熟成期間:18ヵ月(新樽使用率は50~55%)
年平均生産量:22000~25000ケース
□シャトー・ペイル・ルバード - オー・メドック、ブルジョワ級

オー・メドックに特有の、果実味が豊かでふくよか、という特徴をもつ。しかし、なんと言っても際立っているのは、使用比率の高いメルロ種で、ワインをとりわけ、まろやかなものにしている。
葡萄品種:メルロ65~75%、カベルネ・ソーヴィニヨン15~25%、カベルネ・フラン10%
オーク樽での熟成期間:12~16ヵ月
年平均生産量:1万6000ケース
□シャトー パラディ・カスイユ - アントル=ドゥー=メール

新鮮な果実の風味と花のような香りが特徴。ボルドー地方の伝統を守りつつ、比較的若飲みでクラシックな味わいの飲み心地の良いワイン。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン50%、メルロ45%、カベルネ・フラン5%
年平均生産量:1万2000ケース
□シャトー・レヴァンジル - ポムロルの著名なワイン

シャトー・レヴァンジルで造られるこの素晴らしいワインは、旧版の『ボルドーの偉大なワイン』(デュソー・プレス社)の中で、「比類ないフィネスとブーケを備えた豊潤で上品なワイン」と記されている。多くのファンにとって、この繊細で気品ある特性がまさにこのワインの特色。
葡萄品種:メルロ80~90%、カベルネ・フラン10~20%
オーク樽での熟成期間:18ヵ月(新樽使用率は70%)
年平均生産量:2000~3000ケース
□シャトー・ド・オーシエール - コルビエール

シャトー・ド・オーシエールは、シャトーの最高の区画で、収穫量を低く抑えながら、厳選した葡萄を用いて造った卓越のワイン。40%をオーク樽で12~16ヶ月間育成させる。当社のスタッフは、ワインにエレガントな個性を与える可能性の大きい、冷たく遅熟なテロワールの豊穣さを十分に表現する高い凝縮度と格別なフィネスをワインに求めている。
葡萄品種:シラー、グルナッシュ、ムールヴェードル、カリニャン
オーク樽での熟成期間:12~16カ月(うち40%新樽)
年平均生産量:6000ケース
□シャトー・リューセック - ソーテルヌの貴腐ワイン ソーテルヌ第1級

数世代にわたりシャトー・リューセックは、ソーテルヌ・ワインの最高峰と言われてきた。1868年の時点で、すでにチャールズ・コックスは「他のどのシャトーにも増して、リューセックはシャトー・ディケムとの類似性の高いワインを造る」と語っている。
葡萄品種:セミヨン90~95%、ミュスカデルおよびソーヴィニヨン5~10%
オーク樽での熟成期間:ヴィンテージに応じて18~26ヵ月(新樽使用率は50~55%)
年平均生産量:ヴィンテージにより大きく異なるが、平均では年間6000ケース(ただし、1993年は生産量がゼロで、2000年の生産量も少なく、わずか3000ケース)
□ヴィーニャ・ロス・ヴァスコス - チリワインの代表的な作り手

≪チリにおけるパイオニアになる、それは非常にやりがいのある挑戦で、類を見ない特別な土壌を選びました。≫エリック・ド・ロートシルト男爵
カベルネ・ソーヴィニヨンは、ドメーヌの名を世に知らしめたロス・ヴァスコスの典型的なワイン。どの年代のものもよく熟した果実の特徴と新鮮なアロマを持ち、しなやかで肉付きの良い構成をしている。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン
年平均生産量:35万ケース
□カロ メンドーサ - アルゼンチン

カテナ家とロートシルト家にとって、カロはマルベック種によってもたらされるアルゼンチンのアイデンティティとカベルネ・ソーヴィニヨンとブレンドすることによって生まれる上品さと凝縮性に象徴されるワイン。2種の葡萄の組み合わせが豊かで洗練した味わいを作り出し、それはアルゼンチンのアイデンティティとボルドースタイルとの見事な調和と言える。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン65~75%、マルベック25~35%
オーク樽での熟成期間:18ヵ月(うち60%新樽)
年平均生産量:5000ケース
でした。
他言無用!
(V)o¥o(V)
世界で一番大好きなワイン、それが、ラフィット!
その来歴を振り返り、
いつか飲む筈の、
もの凄いラフィットに思いを馳せる!
http://www.lafite.com/jpn/
■そもそも、1864とは?


□プレ・フィロキセラのシャトー・ラフィット・ロートシルト:
19世紀末フィロキセラ騒動以前のワイン。ヨーロッパのブドウ(樹)がフィロキセラ(害虫)により、壊滅的被害を受ける前に生産されたワイン。現在世界中探しても、滅多にお目にかかれるワインではない。
琥珀、ルビー色をした1864年ラフィット・ロートシルトは、西洋杉やカシスのムートンの様なノーズとともに、驚くほどの強烈さやブドウの完熟感を持っていた。口に含むと、この上ない新鮮さ、甘い果実味、驚くほど高いアルコール、すばらしい、エキゾチックな、アジアのスパイス、タバコ、グラーヴのような風味が感じられる。驚くほどの力強さや強烈さがこの完ぺきに美味しい、心動かされるワインのフィニッシュにある。
ロバート・パーカー Jr.『ボルドー 第4版』
■ラフィットとは?

http://www.lafite.com/
http://www.suntory.co.jp/wine/winery/060/
シャトー・ラフィット・ロートシルト(Chateau Lafite-Rothschild)は、メドック地区ポーイヤック村にある著名なボルドーワインのシャトーの名称、および同シャトーが生産する赤ワインの銘柄の名称である。現在メドックに4つある第1級格付けワインの中で、シャトー・ラフィット・ロートシルトは、しばしば、その筆頭に挙げられる。
日本で知られている「ロートシルト」の名は「ロスチャイルド」のドイツ語風の読みであり、フランス語での発音は異なる。日本ソムリエ協会では「ロッチルド」もしくは「ロートシルト」とルビを振っている。他に「ロスシルド」などと表記されることもある。ただし、シャトー・ラフィット・ロートシルトの運営主体であるDBR社では「ロートシルト」という日本語表記を採用している。なお、シャトー・ムートン・ロートシルトはロスチャイルド家の別の系統の一族が所有している。
シャトー・ラフィット・ロートシルトは、ボルドーの北西メドック地区の高名なワイン生産地ポーイヤック村の北端に位置する。シャトーの敷地面積は123ヘクタールで、うち100ヘクタールがブドウ畑となっている。石灰質を基盤とする砂利質のテロワール(土壌)はメドックでも最上と目されている。
品種別の作付面積は、カベルネ・ソーヴィニョンが70パーセント、メルローが25パーセント、カベルネ・フランが3パーセント、プティ・ヴェルドが2パーセントである。
ワインの生産量は年間3万5,000ケース(42万本)である。うち1万5,000から2万5,000ケースがメドック第1級格付けの赤ワイン「シャトー・ラフィット・ロートシルト」として出荷される。第1級の名声に達しないと判断されたワインは、セカンドラベルの「カリュアド・ド・ラフィット」として出荷される。
ワインのブレンド比率は、80パーセントから95パーセントがカベルネ・ソーヴィニョン、5パーセントから20パーセントがメルロー、3パーセント前後がカベルネ・フランとプティ・ヴェルドとなっている。ブレンド比率はその年のブドウの出来具合によって変わる。
極端な例では、1961年のヴィンテージではカベルネ・ソーヴィニョンを100パーセント使用していた。カベルネ・ソーヴィニョンの比率が高いことで、タンニンの強いフルボディのワインとなるが、その味わいは酸味と渋味のバランスが程よく、品格を感じさせるものとなっている。
■ラフィットの来歴
シャトー・ラフィット・ロートシルトは、1855年の公式格付けで、グラン・クリュ第1級の第1位に認定された、名実ともに世界最高峰の赤ワイン。力強さの中に、あくまでも繊細な気品を秘めたその風味には比類がない。
□シャトー ラフィットの起源とセギュール家:
ラフィットという名が聞かれるようになったのは、1234年、ポイヤック北部のヴェルトゥイユ修道院長、ゴンボード・ド・ラフィットの登場からだが、中世の領土の名前として登場するのは14世紀になってから。ラフィットという名はガスゴーニュ語で「小高い丘」を意味する“La Hite (ライット)”に由来する。ここには以前から葡萄畑が存在していたと考えられているが、素晴らしいワインを造るシャトーとしての評判が高まったのは、17世紀、セギュール家が葡萄畑を作ってから。1670年代から1680年代はじめにかけて、この葡萄畑を興したのは、ジャック・ド・セギュールとされている。
1695年、ジャック・ド・セギュールの息子、アレキサンドルが、シャトー ラトゥールの女性相続人と結婚し、ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュールをもうけた。こうして、ラフィットとラトゥールの領土は統合され、偉大なワイン造りの歴史の幕が開いたのだ。
□ニュー・フレンチ・クラレット(赤ワイン):
18世紀初頭、ラフィットのワインはロンドンで販売されるようになる。1707年の官報『ロンドン・ガゼット』には、ラフィットのワインが「ロンドンで競売にかけられた」と記されている。これらのワインは、イギリスの海賊船やイギリス海軍の船舶が押収した外国商船に積まれていたもの(当時はスペイン王位継承戦争のさなかにあった)。
『ロンドン・ガゼット』はラフィットなどのボルドーワインを「ニュー・フレンチ・クラレット」と呼び、競売では、正確な産地に続き、製造年が知らされた。1732年~1733年には、ワイン愛好家として知られるイギリス首相ロバート・ウォルポールが3ヵ月ごとにラフィットを樽で購入していたが、フランスでボルドーの赤ワインが認知されたのは、それから暫く経ってのことだった。
□「王のワイン」と「葡萄の王子」:
1716年、ニコラ・アレキサンドル・ド・セギュール侯爵はラフィットの成功を確実なものにするための取り組みを始めました。ワイン造りの技術を改善し、特に外国市場とヴェルサイユ宮廷で最高級ワインとしての名声を高めた。侯爵は「葡萄の王子」として知られるようになり、ラフィットは、有能な大使マレシャル・ド・リシュリューの支援で「王のワイン」となる。
1755年、ギュイエンヌ(フランス南西部のボルドーを中心とするフランスの旧州名)の総督に任命されたマレシャル・ド・リシュリューは、ボルドーの医師の診察を受けた際、医師から「最上で心地よい強壮剤だ」とシャトー ラフィットのワインを勧められた。
その後パリに戻り、ルイ15世に謁見した際、ルイ15世は「マレシャル、君はギュイエンヌに行くときよりも25歳は若返って見える」と言う。
それに対し、リシュリューは「陛下は、私が若返りの泉を見つけたことをまだご存知ないのでしょうか?シャトー ラフィットのワインは元気が出るコーディアル、オリンポス神のアムブロシア(神々の食べ物)のような美酒です」と答えた。
その直後、ラフィットはヴェルサイユで大変な話題となり、王が認めたワインとして崇められるようになる。誰もがラフィットのワインを欲しがり、ルイ15世の寵妃ポンパドール夫人の晩餐会にも出されたのだ。後の寵姫バリー夫人も「王のワイン」以外は飲まないとした程だった。
□困難な相続:
侯爵には息子がいなかったため、ラフィットは4人の娘に分け与えられた。こうして、ラフィットはラトゥールから分離されたが、1785年までは、どちらもセギュール家が所有・管理していた。
侯爵の長女は、従兄弟でパリ市長のアレキサンドル・ド・セギュールと結婚し、その息子のニコラ・マリー・アレキサンドル・ド・セギュール伯爵が、ラフィットを引き継ぐ。
1785年に執筆された作者不明の「ラフィットの領地」についての伝記には、ラフィットは「世界一の葡萄園」であると記述されている。しかしセギュール伯爵にとって、物事はそれほど上手く行かなかった。莫大な負債をかかえた伯爵は、1784年、シャトー・ラフィットの売却を余儀なくされた。
伯爵の親戚で、ボルドー議会初代議長のニコラ・ピエール・ド・ピシャールは、「親族の権利」をうたった法律を行使してラフィットを購入したのだ。
□トーマス・ジェファーソン:
フランス革命前夜、ラフィットはワイン造りの頂点にあった。この様子は、後のアメリカ合衆国大統領、トーマス・ジェファーソンが残した素晴らしい文献に記されている。ヴェルサイユ宮廷にアメリカ共和国大使として駐在していた、農業家、ビジネスマン、政治家、弁護士、建築家、外交官、そしてヴァージニア大学の創始者という多彩な顔を持つジェファーソンは、ワイン造りに大変興味を持ち、祖国でのワインを造りを思い立つ。
そこでジェファーソンは、1787年5月、ボルドーに滞在し、シャルトロン地区の有力ワイン商を5日間でまわり、多くの情報を集めた。そのときの様子を記した旅行記には、後に主要ワインとなる4つの中のひとつが、シャトー・ラフィット。ジェファーソンは死ぬまでボルドーワインを愛し、飲み続けた。
□オランダの領土:
ラフィットの管理者であったセギュール家は、残酷な事件がきっかけで、その役割を終えることになりました。「恐怖政治」としてフランスの歴史に名を残すこの時代、短期的に使用されていた革命歴でいうところの、2年の収穫月12日目(1794年6月30日、共和暦)、ニコラ・ピエール・ド・ピシャールが処刑された。シャトー・ラフィットのホールには、1797年9月12日にラフィットが競売にかけられることを告知するポスターが貼られている。その中でラフィットは、『ボルドー最上級ワインを生産する、メドック地区の一流葡萄園』と説明されている。
そのラフィットを購入したのは、オランダ籍のジャン・ド・ウィットだが、すぐに、同じオランダ籍の3人の商人に売却せざるを得なくなる。売却直後からラフィットは数々の素晴らしい管理者に恵まれたが、中でも最も顕著な活躍をしたのは、ジョセフ・グーダル。グーダルは19世紀初頭、素晴らしい手腕を発揮してシャトーを管理した人物だ。1800年から所有者となった3人の名前は、ジャン・アレンド・ド・フォス・ファン・スティーンヴウィック、オトン・ギョーム・ジャン・ベルグ、そして、ジャン・ゴル・ド・フランケンシュタインとなる。
□ヴィンテーンベルグの謎:
1818年、ラフィットの新しい所有者になったのは、バルブ・ロザリー・ルメール夫人でした。ルメール夫人は、大手穀物卸売商でナポレオンに武器を供給していたイニャス=ジョセフ・ヴィンテーンベルグの妻だった。
夫の死を受け、ルメール夫人が1821年、ラフィットをイギリス籍のサー・サミュエル・スコットに正式に売却した際、不可解なことがおこった。
スコットとその息子は1867年までラフィットを実際にしっかりと管理、運営を行っていたが、スコット親子は、実は、ルメール夫人とイニャス=ジョセフ・ヴィンテーンベルグの間に生まれた息子、エメ・ウジューヌ・ヴィンテーンベルグの代理人だった。
1866年、エメ・ウジューヌ・ヴィンテーンベルグの財産相続時に、故人の所有権を証明するための書類が出された。この事実はずっと伏せられていたが、その50年後、ヴィンテーンベルグの名前がラフィットの歴代所有者の中に加えられた。この期間は、歴史的なヴィンテージに恵まれ、素晴らしい品質の1795年と1798年、そして1801年、1802年、1814年、1815年、中でも特に1818年が、良いヴィンテージとなった。
□1855年の格付け:
1815年、仲買業者のギョーム・ロートンが、メドック地区のワインの私的格付けを発表した。
ロートンの格付けは、1855年の格付けとほぼ一致していたことから、とても正確な評価だったといえる。ラフィットは、そのとき、既に、リストの上位に位置していた。
ロートンは、「ラフィットを3つの(一流ワイン)の中で、最も上質の葡萄を使った、最も優美で、繊細なワインと評価した」とコメントし、さらに「メドック地区で一番優れたワイン」と付け加えた。なかでも1834年のヴィンテージは1841年同様、特に優れており、1846年もとりわけ優れていた
。1855年、パリ万国博覧会のヴィンテージ・ランキングでは、「最高級ワインのリーダー的存在」との公式評価を獲得。メドック地区の葡萄園にとってこのランキングは、その後迎える驚くべき成功の時代の基準点となる。この期間の上質ヴィンテージは、1847年、1848年、1858年、1864年、1869年、1870年そして1876年だ。
□ジェイムズ・ド・ロートシルト男爵:
1868年8月8日、ジェイムズ・ド・ロートシルト男爵が、イニャス=ジョセフ・ヴィンテーンベルグの遺産として競売に出されていたシャトー・ラフィットを購入した。ロートシルト家フランス支部のトップだったジェイムズ男爵は、ラフィット購入のわずか3ヵ月後に亡くなりました。ラフィットはその後、アルフォンス、ギュスターブ、エドモンドの3人の息子に引き継がれた。
ラフィットには、当時74ヘクタールの葡萄畑があった。新しい所有者を歓迎するかのように、1868年のヴィンテージは、あらゆる意味で記録に残るものとなった。そのヴィンテージイヤーのワインの中で、最高値がついたので、1トノー(900リットル、225リットルの樽4個分)の値段が当時の金額で6,250フラン(現在の4,700ユーロ)。この記録は、20世紀の終わりに破られたが、19世紀の最高値として記録されている。アルフォンス、ギュスターブそしてエドモンド男爵にとって幸運だったのは、メドック地区の「黄金時代」がラフィット購入後15年間続いたことだった。
□災難と戦争そして危機:
19世紀末から20世紀前半にかけては激動の時代だった。葡萄畑がフィロキセラ(葡萄の根の寄生虫)とカビが原因のウドン粉病、ベド病の被害にあったのに加え、産地を偽る組織的詐欺が主要ヴィンテージに被害を与えた。さらに、第一次世界大戦の勃発や世界大恐慌の発生により、価格が急激に下落した。
うどん粉病、ベド病で大きな被害が出ていたシャトー ラフィット・ロートシルトは、1882年から1886年まで、そして1910年と1915年のヴィンテージを使用しない方針をとりました。また、組織的詐欺に対抗するため、シャトー内での瓶詰めも実施。第一次世界大戦中、ラフィットは徴兵召集と供給の制限により大きな打撃を受け、さらに1930年代の大恐慌にも苦しむ。市場は底値が続き、前代未聞の経営危機を招いたことが、葡萄畑の縮小につながる。この暗黒の時代で例外的なのは、1899年、1900年、1906年そして1926年と1929年で、素晴らしいヴィンテージとなる。
□第二次世界大戦と占領:
第二次世界大戦で、ラフィットはまた別の試練を経験した。1940年6月、フランスの降伏により、メドック地区がドイツ軍に占領されたのだ。ドイツ軍は、シャトー ラフィット・ロートシルトとシャトー ムートン・ロートシルトを占拠した。ロートシルト家の所有地は没収され、行政の管理下におかれた。
ドイツの手に落ちるのを避けるため、フランスのドイツ傀儡(かいらい)政権の計らいで、ワイナリーは1942年、解散させられ、農業訓練学校として使用されるようになる。
徴用や古いヴィンテージの略奪により、品不足は深刻化し、規制もますます厳しくなったことが、シャトーにとって大きな痛手となった。
バロン・ド・ロートシルトは1945年末、シャトー ラフィット・ロートシルトの所有権を取り戻し、エリー男爵がシャトーの再生を手がけた。その努力は1945年と1947年、そして1949年の素晴らしいヴィンテージという形で報われた。
□エリー男爵の再生事業:
エリー男爵は、葡萄畑と施設の再生、シャトーの管理体制の全面的な見直しに取りかかりました。1950年代には、シャトーの下手に広がる草原から有機肥料を調達するため乳用牛を飼うという、具体的な対策を採った。
また、高級ワイン市場の再生という難題にも率先して取り組み、ロンドンの「試飲会」への積極的な参加や、1950年にはメドック地区のワイン製造者組合、ボンタン騎士団の設立に携わるなどの活動を通じて再生に努めました。1955年は素晴らしい年となり、ワインの再生が進んだことを証明しましたが、1956年2月、ボルドー地方の葡萄畑は、ひどい霜害に見舞われた。
それでも、1959年と1961年には再び素晴らしいヴィンテージに恵まれた。1960年代は新しい市場、特にアメリカに市場を創出したことで、再生事業の総仕上げとなる。シャトー ラフィット・ロートシルトとシャトー ムートン・ロートシルトの競争により、価格が上昇した。
□エリック男爵の再開発事業:
ボルドー地方を直撃した1973年から1976年の小さな危機の後、1975年と1976年には素晴らしいヴィンテージに恵まれ、再生の幕開けとなった。
また、エリー男爵の甥にあたるエリック・ド・ロートシルト男爵が運営を引き継いだことで、再生が確かなものになった。
エリック男爵は、素晴らしいワイン造りのための研究を行い、新しいテクニカルチームの人材を徐々に増やしていくことで、シャトーの運営に新しい空気を取り入れた。葡萄畑では、肥料の与え方の見直しや除草剤の限定使用によって、植え替えや再建作業が進められた。醸造所では、オーク樽の横にステンレスタンクが設置され、熟成用の円形貯蔵庫がカタロニア人建築家のリカルド・ボフィル監督の下建築されました。2,200樽の収容能力を持つこの新しいスタイルの貯蔵庫は、その斬新性と妥協を許さない精神が高く評価された。
同様の芸術的な精神に基づき、1985年、エリック男爵は芸術写真家を招待し、シャトー ラフィットの写真撮影を依頼。この慣習は、今も毎年続けられている。今までに招待した写真家は、ジャック・アンリ・ラルティーグ、アーヴィング・ペン、ロベール・ドアノー、リチャード・アヴェドンなど。さらに、フランスや海外のドメーヌ(バロン・ド・ロートシルト領地の「歴史」のページを参照)の買収を通じて、領地を広げていきた。1980年代(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)の素晴らしいヴィンテージは市場でますます高値がつくとみられている。
□将来有望なヴィンテージ:
こうした好調な市況は1990年代いっぱい続いた。21世紀を平穏に迎え、多くの新しい上質のヴィンテージが現在、地下と地上の貯蔵庫で熟成に入っている。中でも1995年、1996年、1998年、1999年そして2000年のものは、年を経るに従い、その素晴らしさが明らかになるだろう。この楽観的な見通しは、高品質を追求する長年の研究成果に基づいて出されている。
■シャトー・ラフィット・ロートシルトの葡萄畑
□畑の位置: 3つの主要地域(シャトーの丘の中腹、西のカリュアド台地、近隣のサンテステフに4.5ヘクタールの畑)に位置する。
□面積:
178ヘクタール(内103ヘクタールが葡萄畑)
□土壌:
風積土と混じった深く細かい砂利層。下層部は第三世紀の石灰質。
十分な排水処理と日光照射が行われている。
□葡萄品種と栽培比率:
カベルネ・ソーヴィニヨン(71%)、メルロ(25%)、カベルネ・フラン(3%)、プティ・ヴェルド(1%)
□平均樹齢:
平均30年。畑の20ヘクタールを占める、10年以下のものはグラン・ヴァン(シャトー ラフィット・ロートシルト)には使用されないため、グラン・ヴァンに使用されている葡萄の平均樹齢は40年。特筆すべきことは、18ヘクタールの葡萄が樹齢50年以上だということ。最も古い区画は「ラ・グラビエル」と呼ばれており、1886年に植えられた葡萄は樹齢115年。他の2つの区画の葡萄も樹齢80年以上だ。
□運営は、DBRのテクニカル・ディレクター チャールズ・シェバリエが行う:
敷地や葡萄畑が隣接していることから、シャトー ラフィット・ロートシルトとシャトー デュアール・ミロンは1962年から同じチームが管理している。両シャトーは厳格な収穫技術に基づき、手作業での収穫を実施。年間を通じて、定期的にメンテナンスを行っている。化学肥料はほとんど使わず、有機肥料もわずかのため、寿命の長い葡萄の木を育てることができる。樹齢80年を超えた株だけを(後ろ髪を引かれる思いで)引き抜いている。
□ワイン造り:
収穫された葡萄を区画ごとに別々のタンクに入れ、発酵させる。こうすることで、葡萄の出所がわかるようにするのだ。ラフィットでは、伝統を守りつつ、現代的な手法も合わせて使用している。発酵には2つの発酵槽を使用。伝統的な発酵槽は巨大なオーク樽で、ステンレス製の現代的な発酵槽は、冷却温調装置と、自動温度制御装置を備えている。アルコール発酵後、テイスティングする。「フリーラン・ジュース(圧力をかけずに自然に流れ出た果汁)」と絞り滓は分離され、絞り滓は「プレスワイン」を作るために、圧搾機にかけられる。その後、それらを纏めて別の樽に移す前に、タンク内でマロラクティック発酵と呼ばれる二次発酵を行う。ここで使用される熟成用のオーク樽は全てDBRの樽工房で作られている。
□熟成:
それぞれのタンクから数回テイスティングをし、全てのワインの品質を確認します。ワインのブレンドは、3月に実施される初回のラッキング(オリ引き)後に実施される。その後、ワインは貯蔵庫で18ヵ月から20ヵ月の熟成に入る。この間、ワインを浄化するため、醸造の責任者が定期的にオリ引きをする。それぞれの樽に4~6個の軽くといた卵白を加え、浮いている不純物を吸収し、樽の底に沈ませる。その後、ワインは6月に瓶詰めされる。
□年間生産量:
シャトー ラフィット・ロートシルトとセカンドワインのカリュアド・ド・ラフィットのここ10年の年間平均生産量は、45,000ケース。
■シャトー・ラフィット・ロートシルトのセカンドワイン

カリュアド・ド・ラフィット・ロートシルト
かつては1995が5000円。今は3万円?余りに馬鹿げている!
■由来
「ラフィット」という呼び名は中世の農園の名称として14世紀の文献に登場する。ポーイヤック村の中で一番小高い丘に位置していたことから、古いガスゴーニュ語で「小高いところ」を意味する「La Hite」(ラ・イット)が転じてラフィットと名づけられたという。ブドウの作付けは中世から行われていたが、17世紀にセギュール家がシャトー・ラフィットの所有者となり転機が訪れた。1670年代から80年代にかけて、ジャック・ド・セギュールがブドウ畑を広げ、ワインの生産を本格化させた。
ジャックの相続人アレキサンドルは1695年にシャトー・ラトゥールの女性相続人と結婚し、息子のセギュール侯爵ニコラ・アレキサンドルをもうけた。ラフィット、ラトゥール、カロン・セギュールなどの広大な農園を相続したセギュール侯爵は、ワインの生産技術の改良に力を注ぐとともにヨーロッパ各国の上流階級へ販路を広げ、ほどなく「葡萄園の王子」とあだ名されるようになった。当時ボルドーワインの需要の中心地は、歴史的経緯もあってイギリスであった。ワイン好きの首相ロバート・ウォルポールは3か月ごとにラフィット1樽、つまり普通サイズのワイン瓶300本分を空けていたという。
一方、フランスの宮廷ではギュイエンヌ(ボルドーの旧州名)は田舎というイメージがあり、専らブルゴーニュワインが愛飲されていた。1760年、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人は、ワインで王の歓心を買おうとブルゴーニュのある高名な畑を手に入れようとしたが、コンティ公に競り負けてしまう。この畑は後にロマネ・コンティと呼ばれるのだが、顛末を見ていたギュイエンヌ総督のリシュリュー男爵マレシャル(リシュリュー枢機卿の縁者)が、代わりにラフィットをポンパドゥール夫人に勧め、大いに気に入った夫人はヴェルサイユ宮殿の晩餐会で必ず飲むようになった。これをきっかけにボルドーワインが宮廷で脚光を浴び、中でもラフィットは「王のワイン」という名声を得ることになった。
フランス革命前夜、ラフィットの名声は既に揺るぎのないものとなっていた。当時ヴェルサイユにアメリカ合衆国大使として赴任していたトーマス・ジェファーソンはアメリカ大陸でのワイン造りを思い立ち、1787年5月にラフィットを含む主要なボルドーワインを調査して回った。ジェファーソンもまたラフィットに魅せられ、生涯の愛好者となった。
時代は遡って18世紀半ば、「葡萄園の王子」セギュール侯爵には男子がいなかったため、数々のシャトーは4人の娘に分与され、ラフィットとラトゥールは再度分離した。その後ラフィットを相続したニコラ・マリー・アレキサンドル・ド・セギュールは莫大な借金を抱え、ラフィットは親戚のニコラ・ピエール・ド・ピシャールの手に移るが、ピシャールは恐怖政治の時代にギロチン送りとなる。数人の所有者を経て、19世紀前半に所有者となったのはオランダ商人のヴィンテーンベルグ家であった。その間もワイン造りは受け継がれ、1855年のパリ万国博覧会で行われたメドック公式格付けでは、第1級格付けの筆頭として最高評価を受けた。
1868年8月8日、ロスチャイルド財閥創始者マイヤー・アムシェルの5男でパリ在住の銀行家ジャーム・ド・ロッチルドが、ヴィンテーンベルグ家から競売に出されていたシャトー・ラフィットとシャトー・カリュアド(後にラフィットと統合される)を444万フランの大金で競り落とし、新たな所有者となった。ジャームはこのわずか3ヵ月後に亡くなったが、シャトー・ラフィットは「シャトー・ラフィット・ロートシルト」と改名され、ロスチャイルド家に引き継がれた。その後19世紀後半にかけて、ヨーロッパではワインの需要が拡大し、メドックは好景気に沸いた。
19世紀末から20世紀前半は苦難の時代であった。ブドウ畑がアメリカ大陸からもたらされたフィロキセラの被害に遭い、第一次世界大戦では働き手の兵役や経済統制により大きな打撃を受けた。大恐慌の時代はワイン市場も底値が続いた。第二次世界大戦でフランスがドイツ軍によって占領されると、ラフィットはロスチャイルド財閥の財産であるこを理由に解散させられ、セラーも略奪を受けた。
1945年末、エリー・ド・ロッチルド男爵がラフィットの所有権を取り戻し、シャトーの再生に着手した。さらに、ワイン愛好・振興団体であるボンタン騎士団の創設、アメリカ市場の開拓など需要拡大策にも積極的に取り組んだ。だが1960年代から70年代にかけては停滞し、評価を落としてしまう。1974年、エリーの甥のエリック・ド・ロッチルド男爵が事業を継承、品質の向上を成し遂げ、名声を回復した。現在は醸造責任者シャルル・シュヴァリエのリーダーシップのもと、世界最高水準のワインを生み出し続けている。
■ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト

シャトー・ラフィット・ロートシルトの運営主体となっているのは「ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト」(DBR)という企業体である。DBR社はフランス国内外のドメーヌへ出資し、色々な種類のワインを手がけている。
現在、DBR社傘下にあるドメーヌで著名なものは、以下の通りである。
□シャトー デュアール・ミロン - メドック第4級

シャトー デュアール=ミロンで造られるこの素晴らしいワインは、ポイヤックの典型的なワインである。ワインには緻密さを備えた気品が感じられる。ワインの仲買人であったアブラハム・ロートンは、すでに1815年の時点で、「しっかりした味わいと素晴らしい色調、そして際立った芳香がある」と記している。このシャトー デュアール=ミロンの強烈な個性は、現在でもそのまま通用することができる(メドック地区の大シャトーの芳香は“最上の封蝋を燃やした時に広がる香りのようなもの”と美しく定義されている)。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン70~80%、メルロ20~30%
オーク樽での熟成期間:18ヵ月(新樽使用率は50~55%)
年平均生産量:22000~25000ケース
□シャトー・ペイル・ルバード - オー・メドック、ブルジョワ級

オー・メドックに特有の、果実味が豊かでふくよか、という特徴をもつ。しかし、なんと言っても際立っているのは、使用比率の高いメルロ種で、ワインをとりわけ、まろやかなものにしている。
葡萄品種:メルロ65~75%、カベルネ・ソーヴィニヨン15~25%、カベルネ・フラン10%
オーク樽での熟成期間:12~16ヵ月
年平均生産量:1万6000ケース
□シャトー パラディ・カスイユ - アントル=ドゥー=メール

新鮮な果実の風味と花のような香りが特徴。ボルドー地方の伝統を守りつつ、比較的若飲みでクラシックな味わいの飲み心地の良いワイン。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン50%、メルロ45%、カベルネ・フラン5%
年平均生産量:1万2000ケース
□シャトー・レヴァンジル - ポムロルの著名なワイン

シャトー・レヴァンジルで造られるこの素晴らしいワインは、旧版の『ボルドーの偉大なワイン』(デュソー・プレス社)の中で、「比類ないフィネスとブーケを備えた豊潤で上品なワイン」と記されている。多くのファンにとって、この繊細で気品ある特性がまさにこのワインの特色。
葡萄品種:メルロ80~90%、カベルネ・フラン10~20%
オーク樽での熟成期間:18ヵ月(新樽使用率は70%)
年平均生産量:2000~3000ケース
□シャトー・ド・オーシエール - コルビエール

シャトー・ド・オーシエールは、シャトーの最高の区画で、収穫量を低く抑えながら、厳選した葡萄を用いて造った卓越のワイン。40%をオーク樽で12~16ヶ月間育成させる。当社のスタッフは、ワインにエレガントな個性を与える可能性の大きい、冷たく遅熟なテロワールの豊穣さを十分に表現する高い凝縮度と格別なフィネスをワインに求めている。
葡萄品種:シラー、グルナッシュ、ムールヴェードル、カリニャン
オーク樽での熟成期間:12~16カ月(うち40%新樽)
年平均生産量:6000ケース
□シャトー・リューセック - ソーテルヌの貴腐ワイン ソーテルヌ第1級

数世代にわたりシャトー・リューセックは、ソーテルヌ・ワインの最高峰と言われてきた。1868年の時点で、すでにチャールズ・コックスは「他のどのシャトーにも増して、リューセックはシャトー・ディケムとの類似性の高いワインを造る」と語っている。
葡萄品種:セミヨン90~95%、ミュスカデルおよびソーヴィニヨン5~10%
オーク樽での熟成期間:ヴィンテージに応じて18~26ヵ月(新樽使用率は50~55%)
年平均生産量:ヴィンテージにより大きく異なるが、平均では年間6000ケース(ただし、1993年は生産量がゼロで、2000年の生産量も少なく、わずか3000ケース)
□ヴィーニャ・ロス・ヴァスコス - チリワインの代表的な作り手

≪チリにおけるパイオニアになる、それは非常にやりがいのある挑戦で、類を見ない特別な土壌を選びました。≫エリック・ド・ロートシルト男爵
カベルネ・ソーヴィニヨンは、ドメーヌの名を世に知らしめたロス・ヴァスコスの典型的なワイン。どの年代のものもよく熟した果実の特徴と新鮮なアロマを持ち、しなやかで肉付きの良い構成をしている。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン
年平均生産量:35万ケース
□カロ メンドーサ - アルゼンチン

カテナ家とロートシルト家にとって、カロはマルベック種によってもたらされるアルゼンチンのアイデンティティとカベルネ・ソーヴィニヨンとブレンドすることによって生まれる上品さと凝縮性に象徴されるワイン。2種の葡萄の組み合わせが豊かで洗練した味わいを作り出し、それはアルゼンチンのアイデンティティとボルドースタイルとの見事な調和と言える。
葡萄品種:カベルネ・ソーヴィニヨン65~75%、マルベック25~35%
オーク樽での熟成期間:18ヵ月(うち60%新樽)
年平均生産量:5000ケース
でした。
他言無用!
(V)o¥o(V)