最近やたら、食べちゃっうことが多いわたし。

そんなとき、さびしいからって気がします。

ああ、さびしいんだな・・・うんうん・・・・・なんて否定せず味わっていると何故か友達が増えるんですね。


さびしいが分かるのは、にぎやかさを知っているから。

これを知らなかったら、さみしい とは分からない。

きちんと感情を味わえば、ご褒美ってあるんですよね。



昔の職場の仲間で、パステルを習いに来てくれている人がいますが、必ず、描き終わると さびしいさみしい絵になったって言うんですよ。

そうすると、にぎやかに感じたはずの絵が、さみしく見えてくる(笑)


六十三歳ぐらいですけど、旦那さんと二人暮らしではありますが、養子がいて友達もいて、姉妹もいて旅行も信仰も趣味の習い事もまだ沢山もってます。

それでも絵には 寂しさを感じるようです。


さびしさを否定しているのかもしれませんね。

さびしくてはいけないと。

さびしさがいけない といったら、人はよけいさびしくなる気がしませんか?






独りも、独りじゃないを知っていないと比べることはできない。



仲間というものがね、うさんくさく感じました。


仲間が集まると、人は警戒しませんかね?



なんか怪しげな団体(失礼!!!


良いことやっているとわかっていても、その思想が偏っているのではとね。



あとは、仲間はずれにされた記憶から私は時々、怖くなります。


でもね、仲間が怖いわけじゃないですね。


相手になにを感じるか

感じたものをどう対応していいのか怖くなるだけ。




閉じこもってしまうと、本当の自分がわからなくなりますね。


うわ、こんなふうに感じる私がいる っていうのが(笑)



職場で、白熱した議論(笑)に、いつのまにか巻き込まれていたりして。




いやいやいやいや、ちょっとまて、私ーって。


ひとの感情に同化しちゃったーなーとか。



お化け、幽霊がなんであんなに怖かったのか・・・・・・・・・・・・・・。



あれは、いない って否定するから怖かっただけ。



いる っていっちゃうと、見えないものだった幽霊が見えてきます

いや、本当に見えるのではなく、いる っていうことで、空気や花や石や、そこらへんの家具(家具かよー)と同じようにただ、ある ってことになるだけ。


正体が見えないから 怖い をしていただけだったってこと。

否定すると見えない ってこと、見えないものは怖い。



あるっていうと見た と同じ。

認める 認めたものはもう怖くない。


ヒトラーは、自分の絵が認められれば、独裁者にはならなかった のではないか、というはなしを聞いたことがあります。人は誰でも否定されるのが嫌な生き物なんですよね。

だから最初に否定しない人、それが自分でなくてはならない。



仲間や人とつきあうと、自分の中のものがいっぱい見えてきます。



本やブログ、作品をみても人は色々想いますよね。

この考えはわかる、こっちは分からん。

許す、許さない、政治家はマスコミはなにやっているんだーとかもう多々思うでしょう。

食べ物や、服も、人がつくってくれたもの。



服をつくれる人ってすごいー

料理つくれるって楽しそう

こんな考え、こんなずるい私いたっけー

わたしって結構、人情家なのー?

げっ、こんなに出来なかったっけ

思うほどそんなに太ってない?(笑)

私自分で思っていたより、図々しいわ


ただ、それを感じればいいんだけれども、


それに 良い悪いがくつっくと、罪悪感がうまれますよね。

私は正しいんだ、相手は悪いんだーとか。

そこは、止めます。



周りに人がいなければ、その感情はうまれてはこない。

そうすると、自分がなんなのかが分からない。


だから成功している人ほど、嫌な役をやってくれた相手にやたら感謝していますね。


相手じゃないですよって。


見てしまえば、そういうところあるよねーといえたら、終了。


良い悪い判断なしでいいのねと。


世界の政治家たちが、そう言ってくれたら、争いもおしまい。

良いも悪いもどっちもあっていいか、と認めたら、争う必要なくなりますもん。

自分の中の争い(怖いもの)が消えれば、はい終了。



ところで・・・・・・・・・・・




そう簡単に言えないのよ    っていま思った人いません?

それができれば苦労ないのよ    って。



終わらせたい 人がいる 終わりたくない人がいる 



両方いるんですねー



分かったところで、はい終了。




ほんとうはこうやって書くのやりたくないなーって思う自分がいます。

わかったふりして、さとったふりして・・・・なんてね。

言葉を描く作品を暫く作っていないのも、もうこんな答えなんてみんなとっくに知っているのに、書いている私って恥ずかしいわ っていう感覚からです。

沢山の心なおし癒し、セラピーとかいって本読んで思ったのは、自分の中にある答えしか書かれていないよね(笑)もう、答えなんて出つくしている。折角聞きに行ったのに、自分が知っていることしか聞けなかった。なんじゃこりゃと正直思いましたよ。


つまり・・・・それでよかったってことです。自分の感じているままで自分になっていいよ と教えてもらいにいったようなものでした。


表現を替えて、ダイエットと同じです、〇〇しき とかいって新しく見えるけどほんとは昔から同じことしか言ってません。同じ答えしかないです。


私がもう癒しにこだわるのを辞めた理由も、ここにあります。


下手すれば医者がセラピストが傷を作って見つけて、まだ傷がある癒しなさい なんてことしてます。


もう止めましょうよ。



けれども、言葉 の欲しいことは、まだ沢山いるんだ って知りました。

作品を買ってくれた人たちが、そう教えてくれました。


作品としてみたとき、相手に言われて説教されている という気にはあまりなりませんよね。

作者がいたとしても(笑)


このひと自分にいっているだけよねーとか

まあまあ共感できるよねーとか

一つのアートだよねーとかさ。

そう言う考えもありか・・・・って感じで他人事として眺められるでしょう。


自分のことととすると認められないけれど他人事なら認められる。

素直になれる。


それが言葉のアートの良さかもしれませんね。


あと、私の絵でよければ、あなたの言葉に添えさせていただきます。


そういうリクエストもあったので。



あなたの伝えたいメッセージもお待ちしてます。



今日も見てくださってありがとうございました。