http://www.yasuienv.net/UchidaFujiwara.htm
最初の導入の部分をそのまま引用します。
(引用開始)
朝日新聞の「私の紙面指標」欄に掲載された内田樹氏の論説は、最近、問題だと思うポイントを鋭く突いたものであった。
「情報格差が拡大している」。この文章から始まる。被災地でのデジタルデバイドの話か、などと思うが、中身は全く違う。ある特定の考え方に固執する余り、良質な情報をはじめから拒否してしまい、ジャンク情報しか信じられなくなっている人を「情報難民」と呼んでいる。
このような新たな「情報難民」が発生したことには、インターネット系の情報量の爆発と、新聞情報の劣化、という2つの原因があるが、もう一つ、決定的な要因がある。
それは、そのような情報の良否を判断できない人の特徴であるが、「話を単純にしたがること」であり、もっとも知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつく。世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人」の仕業である。陰謀史観で解釈すると、「私は悪の秘密を知っている」という全能感を与えてしまう。一度、この麻薬のような全能感になじむと、他の考え方を受け入れられなくなる。まともな情報を世論操作のための「うそ」だと退ける。彼らの不幸は自分が「情報難民」だということを知らないという点にある。
(引用終わり)
そして少し飛ばして、中間的結論。(ぜひ元記事をお読みください。)
(引用開始)
そろそろ、個人的な結論としたいが、最近の風潮で排除すべきことのナンバーワンが、「単純化した情報」を求めすぎているということである。Twitterしかり、2chでの発言しかり、である。まず、短い文章で真実が語れることは無いという合意を再確認することが必須である。
そして、第二に、匿名情報に良いものは無いことである。貴重な内部告発情報が埋もれている可能性も皆無ではないが、湘南海岸で砂金の粒を見つける確率程度のものだろう。
最後に、講演というものをもっと重要視すべきであるという主張を加えたい。しかも、できるだけ長い講演が良い。
(引用終わり)
あ、まずいですね。
匿名で「陰謀論」を展開しているブログがまさに私!?(笑)。
匿名にしているのは、会社の仕事関係の情報は書かないように注意はしているものの、万一にもそんな問題が起きないようにしたいため。安井先生主宰「環境学ガイド」のfacebookでは、実名で参加しています。
「陰謀論」については、日航ジャンボ機墜落事故は半信半疑というか二信八疑くらいですが、そんな見方があることを想像したこともない方もいるだろうと思って紹介したのであり、また、米国同時多発テロについては、自分なりに慎重に両論を読んだ結果として「陰謀論」の方が正しそうだと信じるに至ったのであって、そもそもイスラム圏だけでなくヨーロッパでも米国政府が何か隠していると信じている人が多数派、米国でも1/3の人がそう考えているということは先に書いた通りです。
原発問題については、なんとか右にも左にも振れることなく、正しいことは正しい、正しくないことは正しくないと書いてきたつもりです。そのような私の書いていることは、単純化したがる人から見ると、白か黒かはっきしりなくて煮え切らないように見えているかもしれませんが。
で安井先生は、藤原正彦氏の著書「日本人の誇り」を好意的に紹介しつつ、次のようなことを書かれています。
(引用開始)
本来の著書の主旨から言えば、かなり細かいことになるが、さすがに数学者と思わせる記述が多い。それは、文系知識人のスタンスにかなり批判的であることである。
「現代知識人には、動かぬ証拠が目の前にないからいつまでも懐疑の芽を向けるのです。そして何より、知識人にとって、公の場で自分とか自校、自社、そして自国を肯定的に語ることは、自己肯定は無知、無教養、無邪気をさらすことであり、自己懐疑こそがとるべき知的態度なのです」。
「実は理系知識人は必ずしもそうではありません。理系では独創が命で、そのためには自己肯定が不可欠だからです。自己肯定から生まれる強い意志がなければ世界で初めてのことを成しとげることはとうていできないのです。ところが博識は尊ぶもののさほど独創を尊ばない文系では、知識人の大半が、自己懐疑的であるか、少なくともそういうポーズをとるのです」。
「そのうえ、文系知識人は、物事を「白」とか「黒」とか断ずるのは危険、「灰色」というのは安全、ということを自己防衛本能として有しています。「灰色」というのは半身の構えであり、攻撃や批判をかわずには好都合な体制なのです」。
こんな記述になっている。
待て待て。最初の2段落は良いとして、文系知識人は、「灰色」と表現している。これは良いとしても、もう一方の理系に属する、リスクを語る理系は、物事を0、100で語るのはダメで、すべてはその間であると主張している。これは、「リスク理系人」は、文系だということになるのか。
いやいや違うのですよ。「リスク理系人」は、これは白色度が30%で、黒色度が70%だという表現をすることを理想としているのであって、単に、白と黒の判断をより定量的にすることを目指しており、それは何もかも灰色になってしまう文系的表現とは、むしろ対極にある表現だと主張したい。
図で表現すればこんな感じではないだろうか。リスク理系と数学理系のどちらが理系的判断度が強いか、それは、分野の特性であって、どちらとも言えないと考える。

(引用終わり)
さすがに鋭い考察です。
私の立場もこれで正当化されます(笑)。
というか、安井先生のブログを10年以上尊敬しつつ継続して読んでいるので、もともと考え方が似ているのか、影響されたのか・・・、その両方でしょう。
白か黒かはっきりさせない、灰色をそれが濃いのか薄いのかとしか言わないのは、それが「リスク理系」の科学的立場だからとしてお読みいだだければ幸いです。